第11話 商会登録証と黒い署名
ペン先が紙を引っ掻く感触が、指先にまだ微かに残っている。
昨夜、私は一睡もせずに書き上げた手紙に封をした。
蝋を垂らす。
王家の赤ではなく、あり合わせの黒い蝋だ。
そこに、私の指輪――家紋の入っていない、ただの銀の輪――を押し付ける。
じゅっ、という小さな音がして、黒い塊が平たく潰れた。
これが私の新しい紋章だ。何の意味も持たない、だからこそ自由な刻印。
「……時間だ」
シリウスが窓の外を見ながら呟く。
彼の視線の先、通りをこちらへ向かってくる馬車の音が聞こえる。
王家の紋章が入った、仰々しい馬車だ。
私は立ち上がる。
椅子が床を擦る音。
その音に、以前のような怯えはもう混じっていない。
私はカウンターの引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。
縁が金箔で飾られた、都市の公的な書類。
『商会登録証』。
この二ヶ月、私が納めた税と、築いた信用の証明書だ。
「行くわよ、シリウス」
「ああ。背中は任せろ」
彼は剣の鯉口を親指で切り、私の斜め後ろに立った。
その気配だけで、私の背骨に一本の芯が通る。
*
ドアベルがけたたましく鳴った。
昨日の使者が、今日は二人の屈強な護衛を引き連れて入ってきた。
狭い店内が一気に圧迫される。
使者は私を一瞥し、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
荷物はまとめてあるか、とでも言いたげな顔だ。
「リリアーヌ嬢。賢明なご返答を期待しておりますぞ」
「ええ、ご期待に添えるかどうかは分かりませんが」
私はカウンター越しに、黒い封蝋の手紙を差し出した。
使者が眉をひそめながらそれを受け取る。
封を切る音。
紙を開く音。
店内の空気が、秒ごとに張り詰めていく。
使者の目が、文面を追うごとに見開かれ、やがて顔色が朱に染まっていく。
そこに書いたのは、王太子の提案に対する丁寧かつ徹底的な拒絶だ。
『貴殿の提案は、当商会の利益相反となるため却下する』
『今後、当方への一切の干渉を禁ずる』
そして、最後に叩きつけた請求書。
『過去十年の労働対価および精神的損害賠償請求』。
「き、貴様……っ!」
使者が手紙を握り潰し、震える指で私を指差した。
その指先が、私の鼻先数センチの空気を汚す。
「これは王命だぞ! たかが追放者が、殿下のご慈悲を足蹴にする気か!」
「ご慈悲? いいえ、これは取引の提案でしょう? ならば、条件が合わないのでお断りしたまでです」
私は瞬き一つせずに言い返す。
心臓は早鐘を打っている。けれど、声は驚くほど冷静だった。
王命という言葉の魔力は、もう私には効かない。
「黙れ! この売女が!」
使者が激昂し、カウンターを乗り越えんばかりの勢いで身を乗り出した。
「連れて行け! 手足の一本くらい折っても構わん、生きていれば側室の役目は果たせる!」
彼の背後の護衛たちが動く。
抜剣の音。
金属音が店内に響き渡り、暴力の気配が膨れ上がる。
怖い。
本能が縮み上がる。
けれど、私は逃げなかった。一歩も引かずに、カウンターの上の登録証に手を置く。
「この店で暴力を振るえば、リーゼの都市法に基づき、あなた方を犯罪者として告発します」
「王家の使者に都市法が通用すると思っているのか!」
護衛の一人が私に手を伸ばす。
その指が私の肩に触れようとした、その瞬間だった。
ドォン!
重い衝撃音が響き、護衛の身体が横に吹き飛んだ。
店の商品棚がガラガラと音を立てて揺れる。
視界の端で、シリウスの蹴りが振り抜かれていた。
「……客商売だ。商品に触るな」
シリウスが低く唸る。
彼は剣を抜いていない。鞘に収めたまま、ただその圧倒的な質量と殺気だけで、その場を制圧していた。
もう一人の護衛が怯んで足を止める。
使者が顔を引きつらせて後ずさる。
「き、貴様ら……反逆罪だぞ! 王家に逆らって、ただで済むと……」
「済みますよ」
私はカウンターの下から、もう一枚の書類を取り出した。
今朝、シリウスに走らせて取ってこさせた、領主からの通達書だ。
「現在、我が商会はリーゼの物流の二割を担っています。私が拘束されれば、この街の経済は停滞し、領主様の税収にも響く。……領主様は、私の身柄を『重要資産』として保護すると約束してくださいました」
使者が書類をひったくるように見る。
そこには確かに、リーゼ領主の署名と印があった。
辺境の領主にとって、遠い王家のメンツより、明日の税収の方が重い。
私はその天秤を利用したのだ。
「王命とおっしゃいますが、ここは自治権の認められた自由都市。法的手続きなしの連行は、領主への宣戦布告とみなされますが?」
私は登録証を指先でトントンと叩いた。
乾いた音が、使者への最終通告となる。
ここは私のテリトリーだ。
王宮のルールではなく、商人のルールで動く場所だ。
「ぐ……っ、覚えていろ!」
使者は顔を真っ赤にし、倒れた護衛を蹴り起こして出口へと向かった。
捨て台詞。敗北者の遠吠え。
「殿下がこのまま黙っていると思うなよ! いつか必ず、後悔させてやる!」
ドアが乱暴に開け放たれ、彼らは逃げるように去っていった。
馬車の音が遠ざかっていく。
その音が完全に消えるまで、私はカウンターに手をついたまま動けなかった。
「……はあ」
深く、長く息を吐く。
膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪える。
勝った。
物理的に、そして法的に、彼らを追い返した。
「……やったな」
シリウスが近づいてくる。
彼は鞘に手を置いたまま、散らかった店内を見回し、それから私を見た。
その瞳には、呆れたような、けれど確かな称賛の色があった。
「本当に、領主まで巻き込むとはな」
「使えるものは何でも使うわ。それが商人よ」
私は震える手で、カウンターの上の登録証を撫でた。
羊皮紙のざらついた感触。
これが私の盾だ。王太子の愛なんかより、ずっと頼りになる盾。
「……怖かったか?」
シリウスが不意に尋ねてくる。
私は顔を上げた。
彼の大きな手が、私の頭に触れようとして、ためらいがちに止まる。
「ええ。怖かったわ」
正直に答える。
強がる必要はもうない。
「でも、守られるだけの恐怖じゃなかった。自分で戦う恐怖だったわ」
私は彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。
温かい。
分厚い皮膚と、硬いタコのある掌。
この手が、私を支えてくれた。
けれど、戦ったのは私だ。私が選び、私が言葉を紡ぎ、私が追い返した。
「ありがとう、シリウス。……商品棚、壊しちゃったわね」
「経費で直せ」
「もちろんよ。修理代は、王家に請求しておいてあげる」
軽口を叩くと、シリウスが鼻で笑った。
店内に差し込む陽光が、散乱した埃を照らしている。
それは戦いの後の荒廃ではなく、新しい秩序が生まれる前の静寂のように見えた。
私は立ち上がり、大きく伸びをした。
背骨がパキリと鳴る。
王都の方角を見る。
もう、あの場所は遠い。物理的距離以上に、私の心の中で、あの場所は「過去」という異国になっていた。
「さて、片付けましょうか」
私はシリウスに向かって手を差し出した。
助けを求める手ではない。
パートナーとして、共に働くための手だ。
「商会長の命令だ」
「仰せのままに」
シリウスが私の手を握り返す。
その握手は、どんな契約書よりも強く、私たちのこれからを結びつけていた。
私は、この街で生きていく。
誰に許される必要もない。私が、私を許したのだから。




