第10話 赤い封蝋と王太子の手紙
床に散らばった金貨を二人で拾い集めた夜の、指先に残る金属の冷たさと彼の体温が、まだ記憶の底で脈打っている。
開店前の静かな時間。
私はカウンターの中で、シリウスの左脇腹に巻かれた包帯を取り替えていた。
傷口はすでに塞がりかけ、薄い瘡蓋になっている。
驚異的な回復力だ。
あるいは、私が心配して過剰に高価な薬草を塗りたくったせいかもしれない。
「……もう自分でできる」
「じっとしてて。ガーゼがずれるわ」
シリウスがバツが悪そうに視線を逸らす。
その横顔を見て、私は胸の奥で小さく息を吐いた。
一週間前、彼を突き放そうとした自分が嘘のようだ。
今の私たちは、言葉よりも確かな沈黙を共有している。
それは「共犯者」としての、心地よい距離感だった。
カラン、とドアベルが鳴る。
まだ「準備中」の札を掲げているはずだ。
シリウスの筋肉が一瞬で硬直する。反射的に私を背後に庇う動き。
その背中越しに、私は来訪者を見た。
そこに立っていたのは、身なりの良い初老の男だった。
リーゼの街に多い、粗野な商人や冒険者ではない。
仕立ての良い燕尾服。丁寧に磨かれた革靴。そして、胸元に光る小さな記章。
王都の官僚特有の、慇懃無礼な空気を纏っている。
「……リリアーヌ・ド・ロシュフォール嬢とお見受けします」
男が恭しく礼をした。
その名前。
私が捨てたはずの、重く、錆びついた鎖の名前。
店内の空気が一瞬で凍りついた。
シリウスの手が、音もなく腰の剣に伸びる。
「……人違いです。ここはリリアーヌ商会。私はただの商人です」
私はシリウスの背中から一歩踏み出し、冷たく言い放った。
声を震わせないことだけに全神経を注ぐ。
男は表情一つ変えず、懐から一通の手紙を取り出した。
厚手の上質紙。
そして中央には、毒々しいほどに鮮やかな赤色の封蝋が押されている。
王家の紋章。双頭の鷲。
「王太子殿下より、親書をお預かりしております」
男は白い手袋をした手で、その手紙をカウンターの上に置いた。
コトリ、という軽い音が、爆弾のタイマーのように響く。
「……受け取りを拒否します」
「殿下からの慈悲深い提案です。読まずに捨てることは、王家への反逆とみなされますが?」
男は薄く笑った。
脅迫だ。
ここで騒ぎになれば、店だけでなく、この街での私の立場も危うくなる。
彼らは法律を武器にする。暴力よりも厄介な、権力という名の武器を。
私はシリウスの腕を軽く叩いた。「待て」の合図だ。
彼は喉の奥で小さく唸ったが、剣からは手を離した。
「……置いていきなさい」
「賢明なご判断です。明日、改めて返答を伺いに参ります」
男は再び深々と礼をし、踵を返した。
その足音が遠ざかり、ドアが閉まるまで、私は息を止めていた気がした。
店内には、私とシリウス、そしてカウンターの上の「異物」だけが残された。
赤い封蝋が、まるで凝固した血のように見える。
「……燃やすか?」
シリウスが低い声で尋ねる。
その提案にどれほど乗りたかったか。
けれど、中身を確認しなければ対策も立てられない。彼らは「慈悲深い提案」と言った。つまり、何らかの条件を突きつけてきているのだ。
私はペーパーナイフを手に取った。
指先が冷え切っている。
ナイフの刃を封筒の隙間に差し込む。
封蝋を割る。
パキリ、と乾いた音がして、鷲の紋章が砕け散った。
かつては絶対的な権威の象徴だったものが、今はただの脆い樹脂の塊に過ぎない。
中から取り出したのは、見慣れた筆跡で綴られた手紙だった。
流麗で、けれど線が細く、自己愛に満ちた文字。
『愛しきリリアーヌへ』
冒頭の一行目で、吐き気が込み上げてきた。
愛しき? どの口が。
断罪の広場で「冷酷な女」「真実の愛の障害」と罵った舌の根も乾かぬうちに。
私は眉間の皺を指で揉みほぐしながら、続きを目で追った。
『君がいなくなってから、王宮は少しばかり騒がしい。聖女マリアの祈りは尊いが、彼女はまだ実務に不慣れだ。君が影で支えていた雑務の重要性に、周囲もようやく気づき始めているようだ』
雑務。
国の財政管理と儀式のロジスティクスを、彼は「雑務」と呼んだ。
私の十年間の献身を、ただの事務処理として切り捨てておきながら、それが滞った途端に不平を漏らす。
『僕は君を許そうと思う』
視線が止まる。
許す?
誰が、誰を?
『君の犯した罪――聖女への嫉妬と嫌がらせ――は重いが、君の能力は惜しい。王宮に戻り、側室としてマリアを補佐するならば、追放を取り消し、再び僕の側に置くことを許可する』
『これは君にとっても悪い話ではないはずだ。辺境の貧しい暮らしなど、君のような高貴な華には似合わないだろう? 迎えの馬車を用意させる。明日、使者と共に戻ってきなさい』
手紙を持つ手が震えた。
恐怖ではない。
あまりの怒りに、血が沸騰しているのだ。
彼は何も分かっていない。
私がなぜ、あの断罪を受け入れたのか。
なぜ、反論もせずに国を出たのか。
それが「敗北」ではなく「見切り」だったことに、未だに気づいていない。
彼は私がまだ、自分を愛していると思っているのだ。
「戻ってこい」と言えば、尻尾を振って喜ぶと信じているのだ。
この傲慢さ。この救いようのない鈍感さ。
「……何て書いてある」
シリウスが心配そうに覗き込んでくる。
私は手紙をカウンターの上に投げ出した。
「戻れば側室にしてやるから、聖女の尻拭いをしろですって」
乾いた笑いが漏れた。
側室。正妃ですらない。
都合のいい愛人兼、無料の労働力として戻れと言う。
シリウスが手紙を一瞥し、鼻で笑った。
「……随分と、安い値がついたもんだな」
「ええ。大暴落よ」
私は砕けた封蝋の欠片を、指先で弾いた。
赤い欠片が床に落ちて転がる。
一週間前なら、怖かったかもしれない。
連れ戻されること、自由を奪われることが、耐え難い恐怖だったかもしれない。
けれど今は、この手紙が滑稽で仕方がない。
私はカウンターの中から、一冊の帳簿を取り出した。
昨日、シリウスと共に棚卸しをした在庫リスト。
そして、この街の職人たちと交わした契約書の束。
これらが、私の価値だ。
私が自分の足で歩き、自分の頭で考え、自分の手で掴み取った実績だ。
王太子の「許可」などなくても、私はここで生きている。
誰かの付属品としてではなく、一人の人間として。
「シリウス」
「ああ」
彼は私の目を真っ直ぐに見返した。
そこには迷いも、不安もない。
ただ、私の決断を待つ静かな信頼がある。
「インクを用意して。一番濃い黒を」
「返事を書くのか?」
「ええ。ビジネスの礼儀として、明確な『NO』を突きつけてあげるわ」
私は新しい羊皮紙を広げた。
王太子の手紙よりも、ずっと安っぽく、けれど繊維のしっかりした紙。
ペンにたっぷりとインクを含ませる。
手が震えることはもうなかった。
胸にあるのは、嵐のような怒りではなく、凍てつくような静寂だった。
私は、この手紙一本で、過去のすべてを清算する。
「……見ていなさい、殿下」
独り言のように呟き、ペンを走らせる。
その音は、まるで剣で何かを切り裂く音のように、鋭く店内に響いた。




