第1話 引きちぎった首飾り
背中で閉ざされた扉の重たい音が、まだ鼓膜の奥で反響している。
石畳を叩く靴音が、王宮の長い廊下に一つだけ響く。
隣を歩く近衛騎士は、私をまるで汚物か何かのように無言で見下ろしていた。彼の手が剣の柄にかかっているのは、私が暴れ出すとでも思っているからだろうか。
息を吐く。肺の奥に溜まっていた熱い塊を、わざと細く長く吐き出す。
視線を伏せ、肩を少し震わせてみせた。
隣から、微かに鼻を鳴らす音が聞こえる。侮蔑だ。
よかった。まだ「哀れな悪役令嬢」の皮は剥がれていないらしい。
「こちらです、リリアーヌ嬢」
騎士が顎でしゃくった先には、黒塗りの馬車が停まっていた。
紋章はない。王家の所有物であることを隠すための、夜闇のような黒一色。
追放者に相応しい棺桶だ。
タラップに足をかける。
ドレスの裾が重い。今日のために新調させられた、最高級のシルクと過剰なほどのレース。
王太子殿下が、断罪の舞台で私をより惨めに際立たせるためだけに選んだ衣装だ。
裾を持ち上げ、狭い車内へと身体を滑り込ませる。
「国境まではノンストップだ。水と食料はそこにある」
騎士はそれだけ告げると、外から乱暴に扉を閉めた。
ガチャン、と鍵のかかる音がする。
続いて御者の鞭打つ音。
車輪が軋み、馬車が動き出す。
王都の石畳が遠ざかっていく振動が、尻の下から伝わってくる。
窓の覆いは下げられたままで、外の景色は見えない。薄暗い箱の中、私は膝の上で固く組んでいた両手の力を抜いた。
指の関節が白くなっている。
痛いほど握りしめていたのは、恐怖からではない。
笑いを堪えるのに、必死だったからだ。
「……はあ」
背もたれに深く体重を預ける。
誰の目もない空間で、私はようやく口角を吊り上げた。
顔の筋肉が強張っている。一年間、一度も緩めることを許されなかった仮面が、今ようやくひび割れていく感覚。
終わった。
あの茶番劇も、完璧な婚約者という役割も、理不尽な叱責に頭を下げる日々も。
すべて、今この瞬間に過去になった。
私は手元の革袋を引き寄せる。
騎士が投げ込んだ粗末な水袋ではない。私がドレスの下、太腿に巻きつけたベルトに固定していた小さなポーチだ。
中身を確かめる。
高純度の魔石が三つ。換金性の高い小粒のダイヤモンドが五つ。そして、偽造した身分証が一枚。
私の「退職金」は無事だった。
馬車の揺れが激しくなる。王都の整備された道を抜け、街道に入ったらしい。
身体が左右に振られるたび、首元でジャラジャラと音がする。
王太子から贈られた、大粒のルビーの首飾り。
愛の証ではなく、ただの首輪として贈られた拘束具。
「重い」
呟いた声は、驚くほど低く、乾いていた。
私は首に手を回す。
留め具を丁寧に外す気にもなれなかった。鎖の一本を指に引っかけ、力任せに引っ張る。
繊細な金細工が悲鳴を上げ、ブチリ、と鈍い音を立てて千切れた。
掌に残ったのは、冷たい貴金属の塊と、赤い石。
かつてはこれを贈られただけで、周囲の令嬢たちが羨望の眼差しを向けたものだ。
今の私には、ただの石ころにしか見えない。
いや、石ころ以下だ。これを持っているだけで、過去という泥沼に引きずり込まれる。
窓の覆いを少しだけめくる。
外はもう夜だった。流れる木々の影が、黒い帯のように過ぎ去っていく。
窓の隙間を少し開ける。
冷たい夜風が入り込み、熱を持った頬を撫でた。
私は掌の上の「愛の証」を、暗闇へと放り投げた。
何の音もしなかった。
ただ闇に飲まれ、二度と戻らない場所へ消えていった。
「せいぜいお幸せに、殿下」
窓を閉める。
指先についた金属の匂いを、スカートで拭った。
これで私は、ただのリリアーヌになった。
公爵令嬢でも、王太子の婚約者でも、悪役でもない。
ただの、無一文の——ではないけれど——追放者。
ガタゴトと揺れる馬車のリズムに合わせて、私はポーチの中の魔石を数え直す。
この資金でどこまで行けるか。
まずは国境の街まで三日。そこで護衛を雇わなければならない。
女性の一人旅は、狼の群れに飛び込むようなものだ。
だが、あの王宮という名の伏魔殿に比べれば、野良犬の相手をするほうがよほど気楽だろう。
足を組み替える。
コルセットが肋骨に食い込んで痛むけれど、その痛みさえも今は心地よい現実感だ。
誰も助けてはくれない。
誰も私の話を聞いてはくれない。
だからこそ、ここからの全ての選択は、私が下すことができる。
私は目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、断罪された瞬間の王太子の勝ち誇った顔でも、ヒロイン気取りの聖女の涙でもない。
まだ見ぬ国境の街の、埃っぽい風の匂いだ。
この暗い箱が国境を越える時、私は本当に自由になれるのだろうか?
それとも、まだ見ぬ鎖が私を待ち受けているのだろうか。
どちらにせよ、構わない。
その鎖を断ち切るハサミなら、もう私が持っているのだから。




