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之は日常


 【正色教会:新約正教典】より抜粋。


 第三章:信仰の色、導きの金

 一節

 信徒、アベルは日々の糧に感謝し、主の教えを守りて日々を過ごせし。かつてより正しく信ずる信徒であって、しかし、アベルは問うた。「主よ、信仰は、ただ従うことのみに在りますか」夜色の際に、主はアベルの夢に示し給うた。「信仰は、暗き中にあつて灯を消さぬ心なり。疑いもまた、灯を強くする糧となり得よう」


 故に、心に不安を抱くとも、主の教えを忘れざるべし。灯は、汝の歩むべき道を示すものなり。


――くるくる回る姿あり。


――回る姿はあどけない。


 マリアは時計台に身を滑らせてからと言うもの、ローブ下に隠していた教典を撫でるように触れていた。彼女の前に広がる世界は、予想とは大きく外れていたからだ。


「あわ、あわわ」


「おっとぉ、新入生! ごめんねー?」


 マリアの肩を軽く叩き、上級生らしき青年が『飛翔』して過ぎ去った。目まぐるしい変化に着いて行けずに、マリアは目の前の『色々な事』を一旦横に置く。もぞもぞと懐から取り出したるは、一冊の分厚い本だ。懐には専用の吊り革を装着していて、慣れた所作で抜き出していた。


「お、おおお、おち、落ち着くのですマリア、あゝマリア。あ、慌てたなら、まずは、教典を読むべしっ! そう、教典! 言ってましたっ!」


 先輩修道女の教訓、黙れ止まれ教典を読めこのすっとこどっこい。


 之、一時も怠れば鉄拳が飛来する。ので、マリアは身体に染み付いていた。


 琥珀の瞳が懸命に文字を追う。小さな指で頁の端を辿って、警鐘を鳴らす心臓を諌めんと尽力した。


 全身の神経は、周囲の音と動きを拾おうとしていた。彼女は今、帝都の洗礼を犇々と感じていた。嵐の中にあるような、静けさと騒がしさが踊り出す事態に混乱していたのだ。


「し、信徒アベルは……日々の、糧に感謝し……」


 マリアの口から、歌うように教典の文言が並べられる。その間も、マリアの隣を誰かが宙を滑るように移動し、視界の隅では爆発音と歓声が聞こえる。彼女の小さな体には、この『非常識』は耐え難い。


「ひゃっふぉおお! まぁた俺達の得点だぁ! ざまあないなお貴族さんよおっ!? 帰ってパパに抱き締めてもらいなぁ!」


「教授しらないか? あの人どこにいんの? え? うっそ最下層なの? だるぅ」


「これ、そそう、スペクトル並列さ、させたトラジスタで増幅させて、ふひ、ひひ。出力が三十七の目盛りにあるだ、だ、だろ? こいつは魔導器の出力許容効率に出力上限の」


「要はな、疑り深い学友よ。帝都の一番上手いパン屋は、ゴーザウ店で決まりだ。質の良い小麦……砂糖なぞ安易な逃げ場は捨て、素材本来の甘さをだな?」


「……そうです、そうだ。灯を消さぬ心なり。マリア落ち着くのです。落ち、着いて……カレイル様も仰っていました……!」


 教典の重みが、現実の混乱に対する唯一の対処法。マリアは本をぎゅっと胸に抱きしめ、深く息を吐いた。視線は再び、賑わう帝都学園を眺めた。


「っ――!」


――ゴオン、ゴオン。


――時計台、その鐘鳴りがマリアを震わせる。


 初めての、心に響く音。楽しくて踊りそうになる、之はどんな言葉があるだろう。


 マリアは更に、ぎゅうっと力を入れて。教典を抱き締める。爪先立ちで、気になる物をなんとか見ようと、琥珀を輝かせるのだ。


 今、マリアの目の前に広がった。新しい世界、新しい出会い。


 あの天井、星々だろうか。


 あの壁、ランタンだろうか。


 あれは階段だ、上や下に伸びる幾つもの道。


 聖域とは違う、そうした光に溢れた世界ではない。薄暗しさに、緑に紫、赤に青に黄と忙しい色ばかり。吊るされたランタンに規則性はない、それがこの『学園の真の顔』を語っている。


 もっと厳格で。


 もっと優雅で。


 きっと厳しいのだと思っていた。


――その一瞬、彼女の琥珀の瞳は、空間を乱反射する色とりどりのエーテルの流れを捉えていた。


 魔導箒からではない、上級生から放出されたのはマリアの金とはまるで違い、もっと激しくて、そして温かく肌を撫でた。


「――――……きれい」


 呟くマリアの横、空飛ぶ上級生は赤いローブをはためかせ、空中でくるりと回る。きらきらした目を向けるマリアに気付くと、跨っていた『魔導箒』を操った。ふわっとした風に草色のローブが揺れ、思わず彼女は目を瞑りそうになった。


「よう新入生っ! みーんな度肝抜くのさ、貴族だ平民だ、ここにゃあねえからなっ!」


 魔導箒に跨り空駆けていた上級生の横に、一つの影が重なる。


「おいおい?! 新入生だろっ? 新入生はあっちだ! 引率のやつらぁ! またサボってやがるなっ?!」


 旋回していた一人が急停止したのだ。魔導箒を立て、器用にペダルに足を引っ掛けていた。速度を緩め、その場でじんわり滞空し、腕でマリアの居るべき一団を示した。


「わ、わあ。あ、ありがとうございましゅ!」

「お、おう……ましゅ……?」

「おい、言ってやんなよ? ここに来たやつは、皆そうなんだからさ」

「ええ? おれは冷静だったぜ?」

「うそつけ、おまえ引率に婚約迫ってただろ?」

「それは言わない約束だろ!? てめえは階段から落ちてたくせに!」

「ちょ、ば、お前さあ!」


 ふわふわ浮いている上級生達が肘で互いを突く中、マリアは示された方向を見る。長い階段、雑多――露店のような奇妙な――ではあったが、おろおろする貴族の一団がある。引率、とは上級生のようだ。


 きょろきょろする一団の先、階段の上部で腰に手をやっていた。階段は柵や手摺もなく、怯える新入生に笑顔でなにかを説明しているようだ。


「おまえなあ! ありゃ初恋なんだよ! い、いまでも文通してるしぃ?」

「え、まじ? 人に……興味あるんだなあの人」

「あの、ありがとうございましたっ!」


 頭を下げ、ぱたぱたと走るマリアに上級生は軽く手を振り、弓から放たれた矢のように加速した。瞬く間に遠退いた上級生達を背に、マリアは新入生の一団、最後尾に駆け寄った。


 幸い、距離はない。ちょっと小走りをすれば一団に追い付けた。一団の前には赤のローブを羽織った生徒が伺える。がやがやとしていて、辺りは他の人々で過密だ。人と人の隙間に身体を差し込むと揉みくちゃにされるのをマリアは経験――帝都の初日――していたので、一歩離れて爪先で背を伸ばす。


「おー、おまえらー、柵ねえから落ちんなよ? たぶん、死ぬからな」


 ざわっとする。一団は、なるべく階段の中心に集まっていた。それはそうだろう。下を見れば、無限にも続くような階段と、露店と、なにかも分からない物が敷き詰まった大穴である。


「にっしても、やっぱ今年もローブしてねえな? 知らねえぞ?」


 引率の上級生は頭を掻き、踵を返す。慣れた様子で階段をひょいひょい上がっては、ときたま足を止めて新入生の追従を待っている。


 マリアも小さな身丈を必死に伸ばしたり、教典を抱き締めて後に続く。暫くして、マリアの鼓膜を揺らす声。


「……?」


 気付いて、彼女は振り向く。目が合った。


「――貴様待っおあッ!?」

「……!」


 空色の瞳と髪をした青年が、段差に躓いていた。傾いた身体、明らかに柵がない方向に倒れている。


「あ」


 誰か別の声。


 振り向いて、落下している事実に気付いた時には、青年は階段から姿を消していた。


 空色の髪をした青年の行方は当然、下だろう。一団も、誰かが滑落した事を瞬時に理解した。


 一段強く、ざわっとしたか。奈落に消えた新入生を皆が追う。


「落ちた?」

「え?」

「いや……?」

「冗談だよね?」

「おちたろ?」

「嘘、だろう?」

「いえ、有り得ないわ。そうに、決まっているもの」

「あゝ、主よ――!」


 マリアは教典をぎゅっとする。一番近かった、落ちて行く青年の顔は怒り、から真顔になり、絶望になったのも一番近くで見ていた。手を伸ばすには遠く、然し、普段の彼女なら踏み込めた距離だ。途端、動揺する一同を貫く声が響く。


「通るぞ新入生共ッ! やっぱ今年もかよぉッ!」


 その声の正体は、逡巡もなく駆けた上級生の一人。引率生徒だった。


 真っ赤な髪に、真っ赤な瞳をした好青年。階段から一切の躊躇いもなく、空中へ身を投げた。魔導箒も手にせず、飛んでしまった。靡く赤のローブ。


「きゃあああ!?」

「うああぁ?!」


 令嬢の悲鳴に、子息の慄き。


 赤髪の彼は気にせず空中を落下して。


 途中、空を飛んでいた同じ色の生徒を蹴飛ばしていた。空中で格闘し、容赦なく。


 蹴飛ばされた赤ローブの生徒が、喚いて螺旋落下している。彼は気にした様子はない。魔導箒を巧みに操り、落下する新入生に追い付くとあっさり捕まえた。だが、落下する『蹴落とした生徒』は放置していた。


 皆が階段から見ていた。


 数秒したか、静かな新入生を小脇に抱え、引率者が戻って来た。一団の頭上で魔導箒に跨り、ふわふわと旋回している。


「とまあ、落ちたら、ああなる! 落ちるなっ! 頼むぞまじでッ!」

「あの、それより!」

「ん? なんだ?」

「誰か、落としてませんでしたか?」

「いやいや、お前達の見間違いじゃないか? オレは優しいで有名な男だぜ? はやく行こうぜほらっ」


 引率者が肩を竦め、小脇の生徒を乱雑に階段へ投げた。空のような髪をした青年は、静かに青褪めている。ざわざわする一団を気にせず、引率者もするりと着地していた。


「いやでも、誰か……蹴落としてませんでした……?」


 新入生の言葉だ。伴って一団が頷けば、彼は赤い髪を掻き上げ、肩に乱雑に魔導箒を担ぐ。言い逃れが出来ないと悟り、彼は一瞬考え、一団に向き直った。


「大丈夫、あいつは尊い犠牲だ……きっと……聖域で手をふってるだろうさ……あぁ、違いない……」


 友の最期を味わうように頷いていたが、彼の表情は意地の悪い笑顔である。


「――――てめぇえええおりてこぉおおいぐぅえええるぅううッッ!」


 遥か下から反響する、怒りの叫び。引率者の顔は笑顔のままだった。


「あの……怒号が……」


 恐る恐ると言った風体で、一人が指摘する。


「いやぁ……あれだ、あれ。空耳だって、この学園だと普通だな」


 きらきらと空間を舞うエーテルを一瞥し、彼は首肯する。


「――――ぶっころおぉおおぉしてえぇやらぁあああッッッ!」


「激怒して……ますわよ?」


「……、よし。行くぞお前ら」


 引率者――グエルと呼ばれていた――は鋭い指摘を肩でさらりと流した。そうして魔導箒を首に回し、両手を引っ掛けて階段を進み始めた。


 一団は納得は出来なかったが、一応は生きているのだと安堵して背を追う。常識の崩れる音はしていたが、それはそれとして期待が背を押していたからだ。


 【次は、なにが待ち受けるのだろう?】


 之に一団は期待と不安が混ざったまま突き動かされていた。


 マリアは、グエルや一団の遣り取りの間、転落してしまった生徒の様子を観察していた。駆け寄って背を撫でたり、祈りでもと考えてはいたのだが、他の生徒に阻まれて、そうした行動は出来ずにいた。


 人々の隙間から見る限り、転落した青年は気持ちを切り替えられたようで、その姿を見て、マリアは止まっていた息をゆるりと逃がした。


 マリアもまた、同じだ。この胸の高鳴りは、隠せはしないだろう。


――ゴオン、ゴオン。


 今日も変わらず、学園には鐘が鳴る。

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