面に浮く
なんとも言えぬ気持ちに、マリアは頭を捏ねる。指先で唇をとんとん叩いた。刻む思慮と比例して、時は溶けていく。
「争いは、なくなりませんか?」
「哲学かね」
「いえ、ヨシュアさんとか」
「争いかね」
「うーん……分かりません」
「そうかね」
「だって、楽しそうです」
「転換かね」
「どう思います?」
「なんとも」
「えっ、そうなんです?」
「私はゴーレムさえ無傷ならば否とは述べんよ」
魔女は椅子を鳴らす。ゆらゆら。
「ゴーレムさん好きなんです?」
「良し悪しだな」
「でも、おしゃれしてますよ?」
「趣味趣向だな」
「好きなんですよね?」
「視座によるな」
「えっと、からかってます?」
「いいや、全く」
ぎしぎし、魔女は椅子を漕ぐ。
「君は差別をなくしたいのかね」
「好き嫌いで愛するのを止めるんですか?」
「難儀だな」
「どうしてです?」
魔女は黙る。椅子も沈黙した。遠くに、ぴしゃりとした声がした。ソドム教授が見兼ねて助け舟を出していた。
「難しいのですか?」
「ああ、難題だ」
「隣人を愛すること、それが近道です」
「討論会の典型文だな、それは。信じたものは疑わねばならないぞ、君」
「疑いは信ずる道になり得ますよ?」
「教訓かね」
「経典です」
「狂信かね」
「献身です」
「そうかね」
「そうです」
「なんだね、つまり、君は魔徒をどうしたい?」
ぎじり。ゴーレムか、椅子か、どちらかが鳴った。マリアの琥珀は今も静かだ。
「救いたいと? そうまで哀れな社会的立場ではないだろうに」
「……む、それは知らないだけです」
「孤児かね、奴隷かね、それともなにかね」
「今も、あります。どれだけ戒律で縛ろうと、そこになければないものです」
マリアは、仄かに笑っていた。両の掌を見て。
「魔女さんは知っていますか、人が死ぬときの【色】を」
魔女の周りを舞う銀が、一瞬止まる。だが、瞬く時もなく、流れは回る。
「さて、どうかな。私は人とは関わる機会が少ない。経験した別れも、一回だけだ」
「ああ、それは……主よ……そのものにどうか、安らぎがあらんことを」
手を結うと、魔女はウィッチハットを揺らした。
「猫なのだが?」
「そこに、違いがあるんですか?」
マリアは律儀に祈りを済ませた。正式に定められたものだ。魔女は神学の小娘になにかを感じたのか、椅子をまた漕ぐ。
「よし、講義をしてやろう」
「あ、はい? なにをです?」
マリアは手を結んだまま、こてんと小首を傾げる。
「そうだな……君は魔徒、彼らが悪魔の血を引くと囁かれているのは知り得ているか?」
「そう、耳にはしますけど」
シスターローズ、神父様は口にした。あくまでも噂に過ぎない、そして重視すべきは行いであるべきと。ならば、マリアにとって区別は必要がなかった。
無論、負い目はある。だから、何時も踏み込み切らない。
「しかしな、信憑性は保証されてはいないだろう。ゴーレムが子を成すと宣う方が、信じられるものだろうし、私とて、ゴーレムへ人たれと説いたつもりはない、造物に心は宿らんものだからな」
やれやれと続け、椅子は傾く。足は床に触れず「私の見解だがね」銀の量子が、髪からふわふわと漂う。
「魔徒は、杖を用いなくとも魔を操るだけの人間ではないか――それは、そうだな――人類の進化ではないかね?」
太腿で丸まった黒猫と、片手に魔導書。寄り添う珈琲に、傍らに鎮座するゴーレム。魔女はウィッチハットに埋まるように、唇を曲げた。
「杖を介さずエーテルを操る君も、進化しているのではないのか?」
ギコギコ、美しい木目をした椅子は軋む。虚空を蹴る足が重心を一処には留めさせず、椅子をやいやと苦しめる。魔女は椅子の抗議なぞに琴線は震わせず、傾くまにまに吟味する。
水底から見上げた空との境界は、複雑に光を織っているものだ。波の立つ上と、黒く沈む下、丁度真ん中に海月は浮いている。銀を纏い、曖昧な表情で泳いでいる。
それは、マリアにとって懐かしい光景だ。あの海月と魔女は重なる。色合い、よりは立ち振る舞いに記憶が紐付く。魔女が魔導書を空虚な空間に放る。重力に引かれ、大理石に硬い音を響かせはしなかった。
ふよふよとマリアの眼前に浮いていた。
「私達が杖を用いるのは、増幅器としての側面と、記述の筆致にある」
魔女は空の手を回す。指先に灯る銀が空間に走り、文字を刻んだ。水銀がなだらかに流れ、きらきらとしていた。波打つ文字列は『許さんぞ小僧』の意味を紡ぐ。
「見た通り、深域に辿りつけば、杖の有無は大差ない。君が魔徒であるかも、また、定まらない」
海月の触手が棚引くと、絡む魚に針を打つ。痺れ、藻掻けば更にエラに滑り込み、尾を縛る。之を毒とするなら、魔女の指が手折る文字や形は毒であった。
指が空を回る。描いたのは黒猫の姿。酷くざっくりとした形。魔女の綴る文字は柔らかいのではなくて、輪郭がふやけている。幻に惑えと誘う筆記が、内に密かに巡る毒を連想させる。じりじり感覚を失う、背の産毛が倒れた時にはもう遅い。
「そうだ。そうだろう、マリア? 君は、今の時代をどう見る?」
ぎぃ。椅子は鳴く。
ギィ。ゴーレムも鳴く。
ゴーレムの纏うドレスは黒く、はっきりとしている。フリルが重なり合う様子は捕食者の歯並びを描き立て、重なりの奥に、赤い口内があるようだ。
ゴーレムの瀟洒な姿も――袖口から覗く二の腕どんなに美しくても、異質さから目が離れなくなるもの。
「今、君は幸福と言えるのかね?」
魔女のちょっとした意地悪な囁きに、マリアはゆるりと目を伏せた。辿るのは記憶と記録。教会の行いと信ずる神は必ずしも同じではない。分かっている。
マリアは知っていた。血塗れの手に、顔は映っている。




