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あゝ主よ、新しい日々に感謝します


 修道女マリアの朝は、太陽が地平線を昇るより尚早い。


 帝都で最も高い建築物『時計台』に朝日が射し込む頃には礼拝を終え、主を讃えている。


 マリアは暗がりで指を編む。冷たい大理石に傅いて(かしず)、悴んだ指を吐息で濡らす。


――主よ、永遠の死より救い給え――。


――主よ、永遠の安息を与え給え――。


 太陽なき帝都は凍える池に沈むまま、幼くも敬虔な使徒に積もる重荷は肩から下りぬ。ゆらりと滲むは蝋燭、礼拝堂に灯火一つなぞ、なんと頼りない篝火か。


――主よ、なにゆえ命を給うた――。


――私の過ち、私の罪、生きることこそすら罪であると――。


――生きることこそ罰であると――。


 握り固めた小さな拳。琥珀に輝く、その瞳。黒いヴェールを後ろに流し、長椅子並ぶ沈黙に襲われる。


――主よ、()の死より、永遠に救い給え――。


――主よ、()の生より、永遠の安息を与え給え――。


――主よ――。


 マリアは祈る。琥珀は塞がない、夜に浮かぶ月より更に濃く映える。


 数秒停止していたか、マリアは指を解く。悴んだ指先をそのままに、冷えて固まる身を持ち上げる。大理石に伏すのを止め、眼前に聳える『瞳』を仰ぎ見る。


 透明な石で作られた巨大な目玉。網膜の細部に至るまで、幻視する姿。嘗て名のある者が彫り出し、聖教会に贈呈したものだと司祭は述べていた。


 聖堂を異界に沈める元凶。


 この異物を初めて目にし、数日は経ちはした。マリアとて初めて目にした日よりは見慣れたものの、立ち寄る信者が腰を抜かす様子は甚く共感したものだ。


 同時に、之は神の『瞳』ではないだろうとマリアは深く理解している。


 神は何人たりとも語ってはならぬ。

 神は石、金、像に非ず。


 であれば、この巨大な『瞳』の正体は限られよう。


 司祭曰く――天使と呼ぶ者もいれば、鏡に映る己と解釈する者も存在するらしい。マリアはこの『瞳』を天使と、己のもう一つの姿だと、幻視する。



《俺は必ず殺す》

《この世に在る限り、総てを賭して殺し尽くす》

《寂れた昨日も》

《晴れやかな今日も》

《輝かしい明日にも》

《底はなく、果てもなく》

《夥しく殺す》



 幻視する。到底、受け止められぬ思想を、幻聴する。


 灯火で網膜が七色に輝いていた。近付けば、その網膜は無数の人の指を模しているかのようで恐れを帯びている。視点の定まらぬ、見透かされた『瞳』は聖堂に長く鎮座していたのだろう。


 手を『瞳』に翳せば、太陽の温かな光が凍る指を包む。皮膚、仄かに赤を帯びる脆弱な指。血潮が流れるその矮躯。


 『瞳』に魅入って、声が脳幹を撫でる。愛でるように、慈しむように、黒き煙を口から吐き捨てるのだ。



《矜持がブレる》

《秩序がユレる》

《決意がニブる》

《果たして価値と意味は在るか?》

《罪なき者がこの世に在るか?》

《リベラ・メ ペッカヴィ》

《リベラ・メ ペッカヴィ》

《HAHAHA》



 ふと、マリアは横を見やった。


 朝日がステンドグラスを抜け、聖堂を彩り始めたからだ。


 ぱんっと、頬を叩き、今日も振り切る。新しい生活、新たな出会い、新たな世界、懇意にするカレイル辺境伯の推薦で栄華極まる学園への道は繋がった。


 見慣れぬ『瞳』が夢に出ないのを祈るのも、今日で最後であろう。学園にも聖堂があると聞き及んでいた、まさかそこに『瞳』はないだろうとも楽観視している節はある。


「入学試験ってなにをするのかな……? 腕試しとか……?」


 ちょとだけ固めた拳を突き出す。風を切り裂く小さな拳、圧され消えた灯火が情けなく白煙を残した。


「うーん、うん。なんとかなる、きっとそう、絶対にそう。主は、私のあらゆる行いを赦してくださるわ」


 修道女マリアは聖教会と、その周辺しか物を知らない。


 之もそれも――マリアくんは辺境の地より中央に住むべきだね――カレイル辺境伯の非常に有り難くも迷惑な親切の所為だ。数日前に引っ張って来られなければ、知り合い程度は存在したのだ。マリアとて他人との関わりすら放棄し、神様第一には生きてはいない。


 付き合いの長い先輩修道女や、後輩だっていた。勿論、辺境であるから知り合いばかりではあった。田舎の人間関係とは狭く、大体友達であるものだ。


 年頃からすれば、唐突で酷な別れを経験したと言える。決してこの別れは永劫ではないと、マリアは丁寧に心内へ押し込んだ。


 カレイル辺境伯の提案を受け入れたのは結局の所、好奇心だ。麦畑ばかりの村から出られると知って、わくわくが背を押したのをマリアは否定しない。


 学園での数年は代え難い思い出になるだろう、そう思いカレイル辺境伯の馬車に乗ったのだ。


 マリアは田舎者ではあるし、貴族社会に疎くもある。聖教会にて洗礼を受け、教会で神に捧げた時間の方が長いだろう。


「筆記試験だったらやだな」


 故にか、握り固めた鉄拳の威力も知悉してはいないのだ。


 身丈を優に越えた大人を、その矮躯から繰り出せし膝蹴り一撃にて昏睡に叩き伏せる意味を、未だ、知り得てはいなかった。


 好奇心と関心はマリアを後押しする。知らず終える筈の、本に記された景色が待っているから。


 マリアはもう一度だけ祈る。


「主よ、今日という日に心より……感謝します」

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