誰だったか?
矮躯にどろりとしたエーテルが流れ、立ち下る。
舞うでもなく、粘性のある液体を頭からすっぽり被って。転び出た白濁が、ずしりと空間に伸し掛かった。
「うぉ……!」
「っ……!」
「これは……!」
「まぁ……!」
学徒は狼狽えた。深域に至ると、色の広がりは曖昧になる。
大きな手で包まれるような感覚を誰もが覚えた。多くの言葉を失って、冷たくもなく温かくもなく、香りまでも欠落した白濁に吸い寄せられた。
手を伸ばせば、近くにもある。
指に絡まって粘った、どろどろとした白濁だ。さらさらとして、けれど重たい。粘土にも例えられようか。
「まあ……! 深域をこの目で見られるなんて思いませんでしたわ……!」
リィナは楽しそうに杖先を口に添え、他の多くは押し黙るしかなかった。
貴族達は自らの放出する色とついつい比べ、密度の明確な違いにものを言えぬのだ。
言い繕って、視線を濁す。
「……魔徒のくせに……」誰か、ぼそりと呟いた。言葉はエーテルに圧し潰れて、泡沫に消える。
ぼやきは誰にも届かない。白濁が色とりどりに発光するランタンの合間を隔て、講義室は薄暗さに包まれていた。
そうやって、誰もが錯覚する程に。
「うむ、うむ、よきかなよきかなっ」
エルル教授は首肯を繰り返す。
リィナとテリトリーヴ、暗がりに負けじと目が輝いていた。見付け、魔女は笑う。
とても愉快じゃのう、と。片手を前にちょいちょいと手招きをした。
「うむ、よい気構えよ。テリトリーヴ、リィナよ。ワシに向かって放つがよいっ! なあに! 容赦はいらんっ! 貫くほどに重たい一撃をお見舞いしてみせよっ!」
魔力弾の威力はエーテルに依存し、また、性質も使用者の色に倣うものだ。テリトリーヴならば硬く穿ち、リィナは激しく叩く。
テリトリーヴは魔力弾を槍と見立て、リィナは強力な平手打ちと考えているだけの話。
では、エルル教授はなんと考えていよう?
生徒の沈黙に流れる一律した疑問。そんな中でも、マリアは教科書から目を離してはいなかった。
ヨシュアですら、エルル教授から目が離せないでいるのに。
「む、どうした若人よ? 発破がたりんとみた」
講義室の右側にリィナ、左側にテリトリーヴが座っている。表情の硬さに構わず、エルル教授は手甲を掲げた。
「杖を取れいっ! 魔法を唱えよっ!」
リィナとテリトリーヴ。両者の視線がぎこちなく重なった。
「え、ええ! 分かりましたわ!」
リィナは殆ど毎時、常に杖を手にしているからか、先んじて優雅に構えた。
「……?」
構えてから、ちょっと考え、停止する。
「……ワタクシ、どうやら……呆けているのかしら……? エルル教授、魔法と仰りましたか……? ワタクシとしたことが、ええ、きっと聞き損なったのでしょう?」
教授はウィッチハットを揺らす。頭を横に振った。
「それでよしっ!『魔法』でくるがよいっ!」
魔力弾ではなく、魔法の記述をせよと仰せだ。リィナも、之には困惑した。自信満々に構えたばっかりに、退路もなくあたふたと表情が移ろう。特別に誂えた自らの杖を眺め、どうすべきか思案を巡らせた。
「そう……魔法……ですのね」
リィナの反応は当然だ。テリトリーヴもまた、杖先を迷わせ眉を傾けていた。然し「うーん……?」声がする。
儚く、歌えば溶けそうな声である。
「んー……術式には定義語、指示語などがあり……? そもエーテルの色に術式は……なんですかこれ、なんて読むんですかこれ……」
真横――教科書の文字列を血眼で脳髄に刻みながら呟くちっちゃな女の子。即ち、マリアである。
両手で教科書を鷲掴み、食い込ませる気構えで睨んでいるではないか。
「あれ……内約の規定はないのですかね……? 魔法って……凄く難しい言葉ばっかり……いや、落ち着くのですマリア。迷ったなら……そう、主よ……やはり主は尊いものですね……『光あれ』で大体はシスターが満足しますし……?」
相変わらずの様子。こてんと首を傾げていた。
「……ふぅ」
テリトリーヴは天井を見て、気持ちを落ち着かせる。慌てても、変わらずにいるマリアに励まされたのだ。
「なんなんですかこれ、なんて読むんですか……? あゝ、私に教えてください……シスターローズ……貴女はちょっと苦手でしたけど、やっぱり私は大好きですぅ……あゝ、私は苦難に立ち向かっておりますぅ……!」
毛細血管が浮くまで、見開いて文字を読んでいた。あれでは苦行だ、勉学としての体裁を果たせてはいない。
「……ねえ、マリア?」
「……第一になんですか、これ。エーテルってなんですか……知らないのですけど……! 記載記載……三頁……? あ、これじゃないですけど……? んー……! エイジス教授の魔法色学かな……? あ、持ってきてないんでした……! 不覚……!」
ドタバタしている。
「……もう……」
柄にもなく緊張していたのを自覚し、解され、少し口角が緩んだ。テリトリーヴはマリアが呟いていた事を辿り、エイジス教授から習った授業を脳裏に映す。
「……魔法……ね」
魔力弾は使用者の空想で姿を変えはしても、エーテルはエーテルである。桶に入れた水をどう撒くか、それだけに過ぎない。
だが、魔法は違う。記述された術式にエーテルを走らせ、記述した式を起動するものだ。水を沸かして熱湯にするか、冷やして氷塊にするのか、術式は多岐に渡る。
そしてなにより、威力が魔力弾の比ではない。とどのつまり、テリトリーヴは心配していた。
「教授、怪我しないのよね?」
確認すれば、エルル教授は深く頷く。
「うむっ! 存分に放ってみよっ! 効かんゆえなっ!」
一応心配したのに、とテリトリーヴは愚痴を捨て。
「じゃ、知らないわよッ!」
摘んだ杖でひゅっと風を横に切る。
「『昏くを穿て』ッ!」
闇を貫く輝く槍、それを現実に反映せんと強固に空想を練り上げる。
硬質に操れば、杖先の青い灯火が尾を引く。空間に走り書いた文字――魔法術式――が強かに一文字宛灯り、全文が点灯する。
エーテルを滾らせ、術式は起動する。それは出現する。空想は現実を改変する。
打たれた杭のような、硬く鋭く太い物体が虚空から産まれたのだ。
青い量子が集まれば、途端に射出された。空気を貫く音。が、遅れる。波打つのは、空気の層。
青の閃光。エルルの顔に。肉薄したか、白濁に触れて。
――ギィィンッ!
二振りの刃を重ね合わせた音。鼓膜に刺さる、金属に酷似した音色だ。重く、硬く、鋭い。
「きゃぁっ!?」
近場の女学生が、辛抱ならず悲鳴を上げた。テリトリーヴはそんな些細な被害なぞ、関心がなかった。
「硬すぎよっ……!」
そう、エルルの顔面は鋼鉄であった。
衝突し、杭が捻れたのだ。軌道が外れ、杭がグキリと真ん中から折れた。誰を穿つでもなく宙へ、くるくると推進力を失っていた。
「なんで……」
天に限りなく羽ばたけば、そうなるのだろうか。
恐るべき事に、手加減したのも加味しようとも、その光景は常軌を逸していた。
「なんで……」
くるくる。
回る。
『青い杭』だけが、唖然とするテリトリーヴの目にあった。
行方を追ってしまうのは、分析して次に繋げんとする癖のようなもの。
地元で培い、身に染みた言葉に癖は由来する。
誰かが『歴史には敬意を払うのだ』と、幼き頃より語り聞かせてくれた。之を本当の意味で知ったのは、随分と手遅れになってからだ。
片翼を代償に真実を知った。ゆえあって、血の痕跡の一つだって見逃さぬよう眼を窄める。
次はない、そう言い聞かせればローブ下に押し込む翼がざわめいた。失った翼の付け根が疼くのは、エーテルに逆上せたのだろうと、テリトリーヴは思う。
くるくる回る蒼き杭。
「うむ、中々によいなっ!」
それを手甲が打ち据える。一瞬で、霧散した。エルル教授は不敵に笑い、拳を打ち合わせる。
「ほぅれほうれー、リィナは来ぬのかのぅ?」
ウィッチハットの影で、白い歯が弧を描いていた。
「い、いいえ!」
リィナが反応する。机を叩くように腰を浮かし、そうした慌てん坊さを自覚した。一瞬、躊躇う。貴族たれば、この文言に瞼の裏へ。
調子が崩れていても、くすりと微笑みを一拍置く。
一度、瞼で慌てん坊を拭う。凛と杖を正眼に。
「『夙に設えなさい』ッ!」
杖先から翡翠が走る。テリトリーヴと違って、流麗な筆記だ。文字に追従し、翡翠に点灯する。
術式は即座に展開された。
それは、城壁を切り出したかの風体で現れた。
半透明な塊だ。
風で作られた壁である。
大きさこそ、エルル教授を跳ね飛ばすに足りようものとして、幾分か抑えたようだった。
リィナの身丈分、平均的な女学生よりは高いだろう。男子の平均、百七十辺りか。
分厚い風の塊だ。それが、猛烈に動いている。
津波を彷彿とさせる勢いで、突き進んでいる。壁は直ぐに。
エルルの矮躯を、容易く呑み込んだ。
――ドゴォォンッ!
「きゃぁっ!」
魔導列車が突っ込んだように、衝撃で産毛が逆立った。講義室が大きく跳ねて、机がガタガタと抗議する。
「うぉっ……!」
誰かの戸惑いの声。荒ぶる机を押さえ、落ちそうな教科書をなんとか腕で抱え込んでいた。
「す、凄まじいものだな……さすがはレフェンタリー家の……」
誰かの心酔した声。机から落ちる自らの杖に気付かず、リィナの横顔に見惚れていた。
そうした学徒を殴り倒す現実は、何時も決まって不意に訪れる。
「んー……わるぅないがのぅ……?」
風の壁が、ひし形に歪む。楕円に、はたまた円錐伸びる。中にて、荒れ狂う暴力がそうさせる。
ぐにゃり、と。
エルル教授を包んで、景色が曲がる。銀の匙に反射したような――中身がそうさせて、現実がグラつく。
「ふむ、記述速度は冴えておるか……?」
翡翠の壁を突き破り手甲が生えた。拳から白濁がうねる。
「ま、まあ……!」リィナは杖先で口元を押さえた。
築いた城壁が、忽ち瓦解する。
「防御術式もなしに、こうも防げますのね……!」
リィナの放った一撃は本来、魔導車を簡単に転がす威力があった。それを、エルル教授は真正面から受け止めた。
厳かで華やかな城壁も、臨界したエーテルの前では紙の城であったのだ。
エルル教授は消し飛ばした翡翠の残影に目をくれず、満足そうに頷いているではないか。
「うむっ! よいっ! 概ね、満ち足りたっ!」
ウィッチハットの奥底から碧眼を覗かせ、蒼白い唇を剥き、凶暴な笑みを浮かべているではないか。
「……!」誰かが、声を詰まらせた。
畏怖に声はない。
大口に光る犬歯に畏れ、誰かが生唾を呑んだ音だけがある。場を染めるのは浮ついた沈黙であり、もっと不安に苛まれるものだ。
皆が極限のエーテルに酔っていた。
エルル教授は知ってか知らずか、こう続けた。
「ううむっ! 中々にやるのぅ! 悪くはない。が、ちと……あに図らず恐悦至極っ! と、言ったもんじゃのう……」
ウィッチローブに塗られた白濁のエーテルを払い、纏っていたエーテルの鎧を脱いだか。
爆縮された質量は、嘘のように講義室から消えて。
余韻。
黙り込む生徒を見渡しつつ。頭を掻いて、ウィッチハットを被り直す。エルル教授はやってしまったな、と顔を歪めていた。
手甲を重ねた。掌に拳を当てたのだ。思い付いたとも言う、或いは、エルル教授は最悪に閃いたのだ。
「おほん」
咳払い一つ。態とらしく。それから、最大に若作りする。
「まーだまだよのぅぅ! しょぼいのぅ! ざぁこ、なのじゃのぅ!」
腹を抱え、大笑いをしやがったのだ。
にまにまと。にやにやと。
生徒の畏れなぞ眼中にはない。否、気にして、しまったやっちまった、ので、誤魔化しているのだ。
毎年やらかしては他の教授から叱られていた。今年こそは引き篭もりを作らぬよう、誓約書を書かされもした。ので、エルル教授は必死だ。
「やーいやーい! 魔法で腕も足も引き千切れんとはのぅ!」
だが、壇上で愛嬌を振り撒き、可愛いく大きな身振り手振りをする姿は――。
誰も敢えて口にはしない、けれど。
一年生の脳内に一つの言葉が浮かんだ。エルル教授は全力だ、幼気な生徒を愛護せんと、死力を尽くす。
今が大事だからだ。
「このー♡ ざこどもめっ♡」
稚拙にして矮小。
蓋しその通り、慇懃無礼にして快活この上なし。
教育者に有るまじき幼稚な言動だ。もしも他の教授が見ようものなれば、頭を抱え苦心するだろう。
悪手に悪策を重ねれば、偲べよう言葉も叩き付けたくなるものだ。
「ざ、ざーこぉ♡」
最も低俗に凝縮せしめ、言葉を吐き連ねるのだ。
「ぷぷー♡ 生身も抜けぬ術式ぃ♡ ざっっっっこぉお♡」
指差して、笑っているではないか。
やたらに鼓膜を甘美に舐る語尾だ。鱗を逆撫でるように、棘が立ち、ちくりちくりと蔓延する毒に目眩を誰かは覚えた。
然して、実力だけは疑えない。
「ざ、ざーこざーこ♡」
ちんちくりんな魔女が威張り、嘲笑う姿はどうにも。
空気が和むものだろうか。
無論、軋みはする。
況してやこの態度に反し、年長者である。のに、煽れば殊更に。
誰が夢想したか。
詳らかには決して言及せぬものの――不敬にも、偉大なりし教授へと思いを募らせた。
誰かが――不遜なりしメスガキ――之を浮かべ給うたと云ふ。




