ちっちゃな事
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マリアには譲れぬものがある。それは時に誰かへ鉄拳を叩き込む大義となり、然して、その咎から目を背けてもいない。ちっちゃな鉄拳で玉砕せしめ、マリアは健気にちゃんと祈るのだ。
――主よ、迷える子らに導きを――。
要約するに『殴ってごめんなさい』である。
世間知らずで田舎娘、そこに正色教会の『神罰の地上代行者』を注ぐと、マリアの輪郭も薄々と掴めてくるものだろう。
☆
つい最近。グエルとヨシュアを撃滅した少女は今、新入生特有の若葉ローブを畳んでいた。
怪人探しと行方探索を別々に割り振って、三日も経つ。目立った成果もなく、宛もなく。迷子のような毎日。
「んー……」
若葉のローブを畳み、教科書を積み、そっと明日の準備を済ます。とてとて部屋を進み、寝具に腰掛ける。傍らに目を向けた。厳かな金具や革ベルトに包まれた経典、マリアはそれを見やって、また唸る。指先で唇を叩き、思慮を深めていた。
そんな姿がマリアの日課だ。付き添いのグエルに予定があって真夜中の警邏には出歩いていない、ので、寝衣からぽわぽわする香りをさせ包まれていた。
浴場からの帰り、雪原のような髪も湿っていた。
「……んー……」
ちっちゃなマリアの正反対、青い翼を拡げて羽を正す姿。テリトリーヴもまた湯の帰りであった。その透けない青の瞳で、語り掛けるでもなく、わたわたする動きを観察しているようだった。
「んー……」
マリアが唸って首を傾げれば、テリトリーヴは広げた片翼をゆらゆらと動かす。マリアが経典を撫でれば、テリトリーヴも鋭い爪をランタンに向け状態を確かめる。
そしてやはり、両者に会話はない。そこにあるのは寝静まるまでの予兆だけ、暖かな匂いに部屋を満たすだけだった。
鋭い爪を見ていたテリトリーヴが、ふと顔を上げ「ねえ、マリア」と声を向けた。
真っ青な瞳は爪に固定され、横に据えた小瓶に。小筆を液に浸し、爪に塗っていた。これまた手入れをしていても、マリアは見慣れているのか振り向かず、机の経典へと顎を乗せた。
「なんでしょうー」
うだぁと、へにゃへにゃなマリア。テリトリーヴからすれば、そうした姿が珍しい。そして見慣れつつもあった。二、三日はこんな調子である。普段は静かに祈って、そそくさと夜の学園に繰り出していた。
夜遊びをする性格でもないだろうに、入学してからずっと忙しない。避けられているのか、ともテリトリーヴは考えはしたが、どうやらそうでもない。
「夜遊びばかりね、アナタ」
「えっ、ちがいますっ」
テリトリーヴの意地悪な物言いに飛び起き、マリアは目を見開いていた。更なる言い訳をする前、ばさりと翼が羽ばたき、青い翼がランタンの燈を押しやった。そうして鋭い爪、黒い石のような指でマリアを指した。
「入学してから初めてじゃない? アナタとアタシ、こうしてゆっくり話すの」
「……そう、ですかね?」
マリアは寝具に腰掛けたまま、記憶を漁った。テリトリーヴとは気不味い関係でもなく、かと言ってずっと話し合う程でもない。そもそもマリアは常に話していなければならない、なぞ強迫観念がない。
何時も通りの動きの中、話す必要がないとだんまりを決める女の子である。
それは対面のテリトリーヴもそうだ。朝におはよう、夜におやすみ。それから一緒に朝食へ、或いは寮外の浴場へ。
その中で、盛り上がる話題を互いに出すでもない。他の学徒より明らかに静かなものだ。だからこそテリトリーヴは広げた翼を撫で、対するマリアは経典を開いては祈っていた。
「毎日、アナタは忙しそうよね。朝も早いし、夜も遅い」
確かめるように口にした。翼からついっと抜けた羽を摘み、それを揺らす。左右に揺れた羽を琥珀の瞳が追う。
「つまり、その……?」
「要するに、早く寝なさいって話。自覚していないようだけど、授業に集中してもないでしょ?」
「まさか、私はしっかり……」
「なら、今日はなんの授業?」
「……えっと……魔法……ですよね」
何度か頷く。それは言い聞かせるような仕草であった。
「まあ、そうね」
指先で回す羽が止まる。広がっていた翼を一度ぎゅっとより高く掲げ、それからするすると折り畳まれた。身体の前に回し、硬質な爪が毛繕いを続ける。
その羽が擦れる音を頼りに「怒ってます……?」とマリア。
「まさか。アタシは穏やかな子なの」
「テリトリーヴさんが……穏やか……」
マリアの知るテリトリーヴは、魔法の授業にて的を木っ端微塵にする。貴族からのやっかみに鼻を強く鳴らし、睨み返す子だった。ヨシュアの嫌味に真っ向から言い返しては、両者を前に狼狽えるエイジス教授に宥められていたりと、とても穏やかには思えない。
不思議そうな顔をするマリアに気付き、テリトリーヴは咳払いを一つ。その頬は湯の所為か、火照ったままだった。
「アナタ、目の下が暗いわよ」
「そうですかね……?」
マリアとて、単なる女の子である。テリトリーヴが声を掛けたのは、入学してからずっと無理をしているように思えたからだ。理由を語らぬにせよ、毎夜繰り出し寒い中に帰ってくるのだ。であるのに、太陽も昇らぬ朝には寮から消えている。
同室であったから、マリアの日常の歪さに気付くものだ。現に顔色は入学してから、どんどん悪くなっていた。些細な変化ではあるだろうが、テリトリーヴは目が良い。この距離なら集中すれば産毛まで見えるだろう。
「毎朝、凄い早いけど。なにしてるの?」
「礼拝をしてます、日課ですっ」
薄い胸を叩いた。
「ふうん……夜は?」
「えっと、怪人を探して……ます?」
目を反らした。実の所、寮には門限が決められていた。夜の学園は昼より危険であるからだ。ゆえあって、マリアは校則を破っていた。もし教師に見付かれば罰を受けねばならないのだが、既にやらかした後であった。
「止めろとは言わないわ、でも、労りなさい」
テリトリーヴは真っ直ぐマリアを見る。
「はい……」
琥珀は右に傾く。
「……ほんっとにアナタって子は……」
テリトリーヴも同室になって知った事だが、マリアは頑固である。決めた事に迷いを断ち切り、貫く姿は美徳でもある。然し、脆さもあった。日に日に元気を失う姿を前に、なにもしてやれないと嘆く彼女でもなし。
緩めていた目を鋭角に、マリアを睨んだ。
「……アタシ、死体と一緒に寝るのは御免よ」
突き放すような言葉。けれど、指先が小瓶の縁をなぞる音は優しい。抜けた羽をマリアに飛ばした。ふわふわと青い粉が光って、経典に逃げていたマリアの懐へ。太ももにぽてりと落ちた。
「あの……?」
「あげる。ずっと見てたじゃない、欲しいのかなって思ったの」
太ももに落ちた綺麗な羽は、ランタンの光に照らされると鉱物のようにも見えた。摘んで、くるりと回せば驚く程に軽い。テリトリーヴの落ち着いたエーテルが滲み、マリアは羽にじっと琥珀を落とす。
「いいんですか?」
「アタシが良いんだから、アンタは悪くないの」
困惑するマリアを置き、手入れ用の小瓶に蓋をする。テリトリーヴは魔徒であり、加えて誇りがあった。彼女の種では羽を贈るのは親愛を示す行為でもある。
「だから、あげる。好きにしなさい」
それからぐっと翼を丸めて寝具に俯せに。テリトリーヴは基本、俯せで就寝する。翼が邪魔にならないように。
「アナタも早く寝たら? 早いんでしょ?」
「あ、はいっ」
顔は伺えないが、マリアは優しい声色に頷く。そして己も寝具に身を委ねようと。
――ドゴォンッ!
室内が震えた。
遠くから響いた音が波打って、ぞわぞわと毛が逆立つ。激しい音は爆発に近く、震えた空気は感電しているかのようだった。
目を皿に、経典を咄嗟に抱き締めるマリア。寝具から半分も落ち、翼をバタバタさせ怒りを示すテリトリーヴ。
二人の姿が衝撃を物語っていた。悲鳴の一つも上げず、二人は目線を交わす。
「どうやら……なにかあったみたいね?」
寝具から逆さに垂れ下がり、頭を床に打ち付けたままテリトリーヴがそうぼやいた。手入れをしたばかりだったからか、瞳や声に憤怒が顔を出していた。
爆発の余韻が尾を引いて、部屋の隅で誰かの忘れ物のような静寂が這い寄った。しん、とした空気に「ん……魔法かしら」とテリトリーヴの声。
ぽわぽわした石鹸の香りの遠くで、石材が砕け、魔力が焦げ付くような臭いがした。テリトリーヴは鼻も利く。喉を焼くエーテルの乱れに意識を向け、寮の構造を反芻しているようだ。
「誰が、は、良いとしても……文句は言いたいわね」
逆さの視界の隅には倒れた小瓶がある。また、丁寧に保湿剤を塗ったばかりの爪が爆発の余韻で細かく震えていた。テリトリーヴの羽がざわざわと音を立て、皮膚に薄っすらと青い量子が舞う。
寮での魔法使用は校則違反だ。となれば、文句の一つや二つは投げ付けて然るべきである。
「よし、決めた」
そうして鋭い眼光が内と外を隔てる扉を穿った。




