ドロシー・コフェット
ことこと煮詰まれた薬草の香りに気を緩めるでもなく、机上に広げられた書類へ眼鏡を光らせる。万年筆を操り、規則正しく筆記を続けていれば、ふと目線を感じてドロシーは顔を上げた。
「ソドム教授、なにか?」
「なにゆえ論文の是正を?」
論文に目を通し、教授は室内に回る風に乗せて答えた。傍らの香炉を杖で小突いて、慣れた様子で足を組み直す。薄緑の瞳が文字を追って、口角を緩める。若い教授は生徒の緊張を解すように杖を回し、香炉から上がる淡い色彩を空間に延ばした。
「魔徒の記述が見当たりませんが、もしや、差別だとお考えで?」
ドロシーは万年筆を横に休め、罰が悪そうに眼鏡を押し上げた。ソドム教授の指摘は鋭く、そして不可解だと目が語っていた。
「熟考を重ねた上で、わたくしは区別すべきでないと判断しました。今は……代案を考えています」
胡桃の瞳は逡巡し、落ち着いた空気を纏った教授を伺った。
『魔徒』とは本来、悪魔に向けられた言葉であった。ドロシーは広義として許容する風潮に疑問を抱き、頼れる先輩の助力もあって論文内容の方向性を変えたのだ。区別する為の呼び名ではなく、同じ人であると。
「配慮ですか、些か過敏だとは思いますが……」
先程まで是正していた文章をちらりと見やり、革張りの椅子に深く腰を沈め直したか。人相は若くあっても、細めた瞳の裏には含蓄が絶えず行き交っていた。
ソドム教授は物腰は柔らかく一見は冷たいが、その執拗にも思える観察癖は単なる生徒――焼き増しの論文にこうまで真剣に向き合って、緩んだネクタイを締め直す姿にも見て取れる。ドロシーは対等に論争に備えようとするソドム教授に、少し笑窪の影が深まった。取り繕うように、ドロシーは言う。
「先輩と議論したんです、魔徒は悪魔の呼び方の一つであるだけで、彼ら人を示すには相応しくはありません」
言葉を切る。ドロシーの言葉を噛み砕いて、味を確かめたソドム教授は敢えてか口を挟まない。唯、先を促す瞳がある。
「人なんです、彼らは」
ドロシーはグエル・ホーキンスを脳裏に浮かべていた、優秀な先輩だ。なにゆえかソドム教授と相容れず、颯爽と生卵を投げ付けては逃走する人だ。そして、現実とは逃げ出しても居場所から侵食するものであり、仲が良い後輩だからと小言を預かるものであるけれど。
それでも、ドロシーはグエルと意見を同じくしていた。
「なるほど、彼らしい」
ソドム教授の声は木々の隙間を吹く風のように、肌触りが良かった。
古典的な魔法遣いとは違い、最新の衣装を取り入れた紳士は強張った面持ちに優しく手を伸ばす口振りで「変わりませんね、お二人は」と加える。
煎じた薬草をエーテルで煮詰めて、そして火に焚べる方式の香炉を撫で見た。立ち上がる一筋の煙は白ではなく、きらきらとした量子が混ざっている。
「人の肌色、髪色、瞳の色と同じでしょうに。貴女の思慮深さは、反転して、明確な区別をしたい欲求ではありませんか?」
次はどう追求されるのか、ドロシーは暫し、思考に沈む。直ぐに、考えてばかりでは駄目だと、吐息に任せる。第一にソドム教授は誂っている、もあるが、討論会にて繰り出される類の典型的な質問でもあった。ソドム教授は見越した上で、どう切り抜けるかを問うているのだろう。
『この異論への対抗策は?』
と、語り掛けられたならば、正直に答えなければ公平とは呼べない。ドロシーは眼鏡を押し上げ、肩に入る力を緩めた。
「保証はできません。差別だと考えるばかりで、結局、わたくしの納得ですから」
言い切り、それでもと眼鏡のレンズを光らせる。
「わたくしは彼らを……一番……分別してしまっています。それが事実です」
明るくはない、前向きではない。確固たる軸のある声で告げた。ソドム教授は杖を回しつつ、ゆっくりと手にした論文に瞳を伏せた。
ドロシーはくゆる香炉の温もりを感じる。普通の人間には感じ取れない、香炉の煙に混じった微細な魔力の波長が豊かな波を立てている。
その波紋は小さな棘のようでもあって、肺をちくりとさせる感覚にも近い。三年間を共にすれば、尚更に心地良く響く。
特権であり、呪いでもある。ゆえあって、ドロシーは静かに続ける。
「わたくしが『魔徒』であるのは、誇りに思います。ですが、わたくしは……人でありたいのです」
ドロシーはソドム教授に改めて向き合って。
「それに、わたくしは優秀ではありませんか……?」
勤勉で謙虚な彼女にしては珍しく、挑戦の色が強い発言だ。冷たく反論を用立てる訳でもなし、意外にもソドム教授は瞬きを一拍置いて、くすりと笑った。
「ええ、貴女は大変に優秀ですよ。こうして魔徒研究の助手を務めていますし――」
こんこん、軽い音。
杖先が机上の論文を叩いていた。裁決を下して、場の空気を切った音。
「言葉をいたずらに費やすのは、徒となり花は結びはしない。なので、私は心より背を押していますよ」
杖から淡い緑が舞い、紙に。ふわりと空中に論文達は列を組んだ。内容は難解であったが、ドロシーは魔徒関連だと凡そ推測していた。
「若人の成長に戸惑うばかりな私ですが、貴女は、しっかりと根を張って、硬い地表を破って咲こうとしています」
ソドム教授は浮遊させた紙を丁寧に折り畳み、その木漏れ日のような瞳を流す。
「その誇りは素晴らしいものですよ、私が保証しますとも」
ドロシーが返答に悩んでいれば、ソドム教授は杖先を顎に当てて唇を曲げた。
「ときに、ドロシー嬢? 昨晩、また彼が門限を破ったそうですよ」
やんわりとした空気にあって、ドロシーは記憶を探る。
門限を破った理由や訳には思い当たる、困った特性をグエルは保持しているのも理解する。けれど、有り触れた校則違反が露呈するような、間抜けな人間ではない。
例えばそれが、ドロシーの友人を探そうとする善意からでも、グエルと言う男は抜かりがない。
本当に間抜け、それならばドロシーは苦労しなかった。
「……初耳です」
ドロシーはグエルの失敗に首を傾げ、ふと指先に残った万年筆の重みを思い出す。ついっと、机上に置いた万年筆に視線を落とした。
グエル・ホーキンスという男は、馬鹿で阿呆だ。同時に、阿呆でもないし馬鹿でもない。大胆不敵に問題行動を起こす様は何度も見てきた。
そんな彼が、単なる門限破りで捕まる――計算の狂いか、計算を捨てなければならぬ事態であったか――思考の歯車が噛み合わず、ドロシーの眉がそれとなしに寄った。
「……」
仮に教授達の介入があったとするなら。
グエルに対し、懲罰を推進するエルル教授と断固反対するエイジスの論争を止め、ソドム教授は憎まれ役を買って出ていたりする。形式上は咎めても、本質は手綱なぞ手にはしていない。そんな教授が態々話題に出す場合、ソドム教授から関わらなければならなくなった事を示すだろう。
要するに、グエルはなにかを盛大に失敗したのだ。教授達の企てにせよ、なんにせよ。
夜遊びは学園の十八番ではあるが、門限破りで捕まる間抜けでもない。
再三の警告があっても、グエルは悪戯を敢行する人間だ。高い実力もあって、頭を出す問題は氷山の一角に過ぎず、珍しく失敗したとしても無様に露呈はしない。常習犯だが証拠はない、そんな立ち回りの先輩が失敗したのを知られているならば。
「……もしや……」
思い起こせば。
今日に限って飄々とした姿を見ていない。ドロシーの回した思考が逆さまに回り出してから、ソドム教授は心地良い香りを杖先で押した。淡い光の粒に、思考を止める。
「医務室ですよ、彼なら」
ドロシーの問いに先んじて答え、彼は杖で机上を突く。
「夜遊びはほどほどに、そう申し上げたのですけどね……?」
「……まさか、怪我を……? ソドム教授が捕らえたのですか?」
ソドム教授は首を振った。
「いいえ、私は無闇に縛りはしませんよ。エルルさんは口では過激ですが、存外に彼を気に入っていますしね……?」
戯けるような仕草にドロシーは謎ばかり増やしていた。教授達の介入ではない、なのにグエルは失敗した。
なにゆえに。
「なら、どうして……?」
「……さてさて?」
ソドム教授はにこりとして、言葉を続けない。となれば、ドロシーの選べる道は限られた。
「……あの、先輩に聞きにいっても?」
「勿論ですとも。若人はそうあれ、学園長もそう申していますから」
楽しそうなそよ風が栗色の三つ編みを揺らした。ドロシーは頭を下げつつ、候補を絞る。
「分かりました、行ってみます」
ドロシーは言い終わると、目疲れからかゆっくり眼鏡を外した。
先輩に振り回されるのは、たった三年程度では慣れやしない。
魔徒であるのを揶揄する貴族を、彼が飛び蹴りしたあの日から、少しだけ退屈は息を潜めたものの。代わりに、日々新たな刺激で目尻を痙攣させてくる始末。
「……はぁ……」
嘆息でレンズを曇らせ、ローブの端で拭う。なにをやらかしたんですか、とでも言いたそうな伏せる瞳から徐々にエーテルが滲み出していた。
特徴のなかった胡桃の目も、眼鏡を外せば溶けて姿を隠していたように、じんわりと多彩な色が浮き上がっていた。感情で染まる瞳は複雑で、次第に色を強めている。
「知的好奇心は若人の特権です。なので、その欲を満たすなかで、言伝を一つお願いして良いですか、ドロシー嬢?」
教授の一声に眼鏡を戻し、ぱちりと瞼で色を拭い去る。色が散り、残された光を振るって。ドロシーは強く頷いた。眼鏡の奥で胡桃の瞳は思考を綴る。
「はい、わたくしから、確りと、伝えますわ」
一単語を強調した物言いに満足して、ソドム教授は杖を器用に手繰る。そうすれば一面に整列していた論文が重なった。ドロシーをもう一度だけ見やって。
「彼には夜遊びへの苦言を、そして言伝は一年生の女の子に向けて」
「……一年生の?」
怪訝な顔をするドロシーに、口元を緩め、余裕のある顔で。
「これでも私、一年生の担任ですから。今週の講義が変更になった旨を伝えて欲しいのです」
ドロシーは再び心内で概算する。ソドム教授は一年生の担任だ。誰かは分からなくとも、新入生がグエルに巻き込まれたのだとすれば心底から共感出来る。然し、教授の口振りに引っ掛かりもした。
なにかを隠している、気がしたのだ。
普段の教授なら、もう少しだけ真っ直ぐした言い方をする。反応を楽しむ素振りに、ドロシーは眼鏡を几帳面に押し上げる。
「それで、その方のお名前は?」
「マリア、と言う、小さな女の子ですよ」
「……はぁ……」
不憫である、之は先輩に久方振りに関節技を繰り出さねばなるまい。巻き込まれたのだろうマリアの姿を幻視し、ドロシーは鋭く眼鏡を光らせた。
――。
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