黒煙
小さな手は氷のようで、エイジスの熱に溶ける事はない。冷え切った指は震えるような動きはなくて、誰を見るでもない琥珀が輪郭を暈していた。フォルカロルは隙間から目を笑わせて、悪魔らしく闇に漂うのだ。
エイジス教授の操る球が、フォルカロルが存在するだろう所を通過すれば、エーテルはなんらかの干渉を受けて球を構成する量子が削られた。砂を摘んで机上に注ぐように、青い光が散る。彼は漠然と、曖昧にではあってもフォルカロルを感じていた。
どうあっても姿は晒さぬつもりのようであるが、虚仮にした報いの為に暴かんと色で空中を染める。
『本日は、なにゆえこのような所へ? 如何なされたと申されましょう?』
そうした健気な抵抗を躱し、フォルカロルは優美にして悪辣に言葉を遣り繰りする、さも当たり前に。其処に広がる闇の奥底から、素知らぬ顔をして。エイジスはウィッチハットを杖で押し上げ、黒い目でフォルカロルが潜む闇を穿った。
「知らないふりをするなんて、嘘をつくのは頂けないかな。きみはどうして嘘を選ぶのかな?」
極めて鋭い言葉に、フォルカロルは動揺も驚愕もしない。青の滲む闇は本に被さったままに、不遜に慎ましく、浅ましく傲慢な声で闇を幾重にも包むのだ。
『全知でも、全能でも御座いませんがね。汝が吾輩を讃え、そう仰っしゃろうと。吾輩は僅かばかりの秘密を語れる悪魔のみゆえ、心得を持ってはおりませんよ』
「ぼくのエーテルを食べたくせに、対価は嘘かな? そっか、悪魔ってその程度なのかな、ざんねんだね」
エイジスの分かり易い挑発に、積まれた本が一時の間震えた。暗がりから、女性で男性の声が木霊する。
『悪魔に契約の不履行は御座いませんよ、なにを仰っしゃろうとも。それとも? あゝ、この悪魔風情が失念しておりました。エイジス教授は下着の色まで言及して欲しかったので御座いますね? こりゃ失敬、吾輩は所詮祓うべき悪魔ゆえ、情動に疎かったのでありましょう?』
エイジスは幻惑に狼狽えなかった。若干細めた瞳に、青い残光が走る。体内で渦巻くエーテルが目玉の奥でチラついたからだ。フォルカロルと言えば彼の真剣な表情を加味して、茶化す訳でもなし、冷え固まるマリアを要望通り見透かした。
『正直、申し上げますがね。吾輩の分野では御座いませんし、手向けるべき当人は本意ではないご様子ですが? 上辺の言葉を良しとするなら、吾輩も懇切丁寧に列挙致しますがね?』
「たとえば?」
『女の子ですね、白髪をしております』
「ふうん……? そんなに回りくどいなら、ぼくだって考えがある――きみさ、マリアくんの【黒】を知って、招いているよね? なら、きみにとってマリアくんは願ってもない転がりこんだ『幸運』なんだ。暇だからでも良いし、理由とかは良いからさ。どうかな? きみから見て、マリアくんはどんな子かな?」
フォルカロルは初めて、完全に沈黙した。押し負けたのであれば、性質からして潔く姿を晒そう。本質的に悪魔であるフォルカロルの貫いた沈黙に、エイジスは更に目を尖らせる。学術論争を繰り広げる教授として、高度な眼差しだ。
「質問をかえようかな? 嘘をつけないきみが言わない選択をするなら、是か否で答えてもらう。当然、内容はマリアくんの【黒】について、だ。あれは【黒】だったかな?」
『是』
フォルカロルは極度に飾りのない解を示す。どたばたと、独りでに本が幾つか開かれた。頁が捲れる音は規則正しい。
「じゃあ、もう一つ。きみが操る色とおなじかな?」
『……是』
捲れる頁は止まらず、質問に対して数が増えた。エイジスは一度、手を握るマリアを伺う。琥珀はなにも見ずにいる。瞳孔は小刻みに揺れて、脳味噌が頻りに動いているのが見て取れた。唇に着目すれば、非常に小さく音を発さず、文言を語っているではないか。
寒さで震えてはいないのをエイジス教授は察して、くいっと手を引っ張る。するとマリアは水面から顔を出して、不思議そうに小首を傾げるのだ。
マリアの琥珀は大きくなってから縮み、目の前の若々しい顔を捉えた。目線が重なったから、エイジスは安堵を薄め入れた笑顔で語り掛ける。なるだけ穏便に。
「マリアくん、いろいろとあるけど、本題に入ろっか。えっとね……きみの【黒】は、普通の人間は扱えないものだって話なんだけどね? ややこしそうだけど、そんなに難しくなくて……珍しい、みたいな?」
マリアは何故、鉄拳を振らなかったのか。エイジスには分からない、傷付いて消沈しているのだと考え保留する。であるが、カレイル辺境伯ならそうした正常な誤りに腹を抱えて笑うだろう――そうじゃあない、君はフロイラインの本質を全くもって知り得ない、と。
マリアは全てを理解して、完全に承知し、主に誓って拳を振り抜く。迷いはとっくに断ち切っている、主を前にして、今更、立ち止まる謂れはない。
ならば、何故立ち止まれたのか?
解はある。存在しないからだ、目の前に。
行いこそを咎めし主の絶対性ゆえ、綻びを突かれようとも。そうした不信は振り切って生きている。不信すら信仰の糧とする、敬虔にして信心深い人間だ。カレイル辺境伯ならば、マリアを表現する言葉に『常軌を逸している』や『イカれている』を選ぶような退屈な言葉を語りはしない。
道路脇で拳から血を滴らせるマリアを拾い、苦悩しながらも寄り添ったカレイルならば、きっと。
「マリアくん?」
エイジスの声に、マリアは瞬く。思考の渦に廻っていた回路は復旧されつつあった。彼女の考えは読み取れないが、その輝きを押し込んだ眼球は捲れる本達を俯瞰し、観察していた。目の前のエイジス教授より、優先したのだ。
悪魔は滅ぼさねばならない、が、今でなくとも別段構わない。そう思い至って、彼女は妙に強張った力を抜いていく。
目の前に存在しないのなら、鉄拳を打ち込むしか能のないマリアには敵うものでもない。敵対しようにも進展すら断ち切られているならば、手の出しようがないのだ。主の威光を至近距離でこうも浴びても、悪魔は姿を晒すようなヘマをしなかった。
ゆえに、熟考していた――どうしたら殴り倒せるだろう、困った時はカレイル様がいつも。
「…………むん」
少女らしく、頬を膨らませてむくれていた。
「――……てる? おーい。マリアくーん? 聞いてるー、よね? いいかな? つづけるよ?」
「……むむ」
おかんむりである。眉を曲げて、なにかを考えている。悪魔で違いないが、エイジスはやっとこさ戻った少女らしい姿に頬を掻く。ズレたウィッチハットを習慣で直して、咳払い一つ。
「マリアくんの力は……【金】でもある。二色は珍しいよね? 前例はあったかな? ね、フォルカロル」
ゴエティアに記された序列四十二位のフォルカロルは、大悪魔である、それは疑う余地がない。
エイジス教授の問いは『きみが知るすべてから、かつても含め、マリアみたいな子は存在したか?』である。
問われた悪魔は見えぬ目を、空虚に走らせた。幼くも恐ろしき乙女は折れもせず、亀裂も走らぬ心の在り方にはひっそりと目を笑わせるもので。表情の変化は年相応だが、儚い顔をしてどうしてやろうかと手を揉む剛を孕んでいる。
心底に愉快。愉悦を目ん玉に踊らせ、フォルカロルは閉ざした門を開けるのだ。
『色、で御座いますか。吾輩、全知ではありませんけれど? 堅実に知り得る勤勉でありますゆえ? しかして……人は往々にして望むものでは?」
今一はっきりとしない物言いに、エイジス教授の黒目は疑問を浮かべた。
『そは、正に。人は自らは特別で異質とせんとせり……鳥を見やれば我こそが空を飛ばんとし、月を見れば我こそが彼の地を踏まんとする。必然、吾輩、人を慈しみ愛しておりますがね』
フォルカロルの潜む闇は蠕動して、次第に濃くなっていた。
『希有にして貴重でもないのに、なんと傲慢にして不敬でありましょう? 人は、何様で御座いましょうね?』
人は愚かです、特に特別だと言うお前が。
と。
横合いから蹴り飛ばすような罵詈雑言を言外に浴びせ、フォルカロルは一つの魔導書を空中に浮かべた。開かれた頁は古い言語で書かれたもので、表紙は妙に油っぽく、エイジスの光源に照らされテカテカしていた。
「それは、すごく……古そうだね? なんの魔導書なのかな? あんまり……趣味はよくないけど……?」
表紙は糸で継ぎ接ぎだらけである。内容も、黒く滲み文言が紙に潰れているようだ。特殊なインクを用いたのだろう。
足元に散らばる本だって一つ一つが魔導書だ。エーテルを込めれば刻まれた術式が起動してしまうが、様々なものがある。触っただけで、等はもっと深い所に押し込んでいるのをエイジス教授は知っていた。
うっかり踏んでも爆裂はしない、筈だ。エーテルで言えば、不用意に金色を無尽蔵に放出していたので、逆説的に周囲の魔導書達は術式を記述していない事を証明している。作者が抜かりなく安全錠を施しているのだろう、脱線する思考をエイジスはそうやって纏める。
鼻先でゆらゆらと浮遊する、取り分け不快な見た目の魔導書にエイジス教授は暫く目を走らせて。
「で、これはなんて書いてあるの? 読めないんだけど」
フォルカロルは明らかに、嘆息した。
『古い、とても古い本で御座います。出典年号は……ざっと千年は経つのでわぁ? かも知れない、でしょうかね? え? まあ? 存じ上げないのですがね』
「へえ……なら言語体系の違いかな?」
『この趣味の悪さからして、書き手の感性はまともではありません。汝らからすると、とっても不快やも知れませんけど』
軽い声で、見ているだけで気色の悪い魔導書を紹介する。口振りから、手を伸ばしていたエイジスは慌てて引っ込める。背表紙の材質が気になったので、触れようとしたのだが。嫌な予感がしたのだ。直感がそうさせた、もう一歩、が崖下のような感覚だ。
『おや、流石はエイジス教授。ええとも、触らぬ方が良いかと存じます。とある皮を用い、とある赤を執筆に用いられし、それなりの品と見受けます。価値は、まあ、吾輩の下す所によりますればー……銅貨四枚……いえ、忖度抜きに申し上げますと、二枚、でしょうかねえ?』
嫌味な言い方だ。嘲笑うような抑揚にエイジス教授は引っ掛かり、同時に傍らの少女が反応したのに驚いた。
「え、安い……あ、いえ、すみません」
悪魔の語る安さにマリアは反応して、見繕うようにローブの前を摘んで小さくなった。元気だから、ではなく、赦したから、ではなく。学園長にもあったように、人の礼儀として対話に移行したのだ。エイジス教授はそうした様子を見て、なにか分からないが好転したのだと判断を下す。
相も変わらず辺りは暗く、エイジスの灯りは優しくて主張が弱かった。フォルカロルの操る魔導書は、とある頁を開いていた。マリアは知っているものだ。字面は読めずとも、行や間隔、字数から判断する。
毎日、表紙が擦り切れるまで捲った。馴染み深くて、一番一緒に過ごした存在だ。ローブ下に抱える教典を撫で、マリアは頭を傾けた。そうした姿は無垢であどけない。
「それは、教典ですか?」
『ほう、なんと書かれておりますか?』
「主の創世記ですよね?」
読めない文字の並びでも、形から文言が脳裏に浮かぶ。何度も読み返して、覚えた内容だ。忘れるなんて有り得ない。日課にする祈りこそ教典を開きはしないけれど、マリアは隙さえあれば教典を開く子であった。
現在、持ち歩くのは七代目となるか、少女はだからこそ悪魔に不可解そうな眼差しを送る。
『おや、吾輩の解説は不要でしたか。その通りで御座います、敬虔なる乙女よ。創世記にて語られるように、始まりは【金】のみにあって、後に赤、青、黄と……なにか? ご不満そうな顔をして、なんでしょうか? どうぞ?』
「……、……教典に触れられるのですね?」
『吾輩、こう見えて序列四十二位ですので? はは、はは』
態とらしい乾いた笑いを繰り返せば、マリアの琥珀が又もや滲む。制御不能、であるようには思えないので、フォルカロルは普通に悪魔らしく振る舞う。
教典を無造作に、本の山間へ放り捨てた。雪崩れる魔導書に埋もれた教典をマリアの瞳は追っていたが、エイジス教授がおどおどしていたので唇を尖らせるだけに留めた。
『色は、四種のみで御座いましょう? なにゆえに、こうも多彩な世の中になったのでしょう? ふむふむ? エイジス教授こそ語るべき教材ではありませんか、まさか、ご存じでないとは仰っしゃりはしないと盲信しておりますけども、まさか、ねえ?』
エイジス教授は苦い顔をした。知ってはいるが、分野としてはソドム教授が扱う学科である。大雑把な理解だけ済ませる怠惰さはないが、自信満々に語れるかは別である。
「そりゃあ、担当科目に入ってるし、記憶にはあるけど……ぼくの専門は上級生達むけで……」
言い訳っぽくなるので、続く言葉が詰まった。
素人質問をされた日には卒倒する自負はある。学徒の頃の記憶がまろび出て、慌てて記憶に蓋をする。深呼吸、後に、エイジス教授は悪魔の語る話に耳を傾けた。




