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魂の戦い

 迷宮の最下層は、これまでのどの階層とも異なる、根源的な「歪み」の空間だった。空気は重く、ひどく冷え込んでいた。まるで時間が止まったかのような静寂が支配し、どこか遠くから、魂の叫びにも似た微かな響きが、幽かに、そして絶え間なく聞こえてくる。足元を覆う粘性の高い霧は、光を吸い込み、視界の全てを曖昧にぼやけさせていた。それは、まるで生きた者の魂が迷い込むことを拒絶する結界のようでもあり、あるいは、数多の未練が凝り固まった、黒い澱のようでもあった。ルシアは、腰の短剣の冷たい感触を確かめながら、その凍てつくような異質な空気に、全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。カイルもまた、隣で険しい表情を浮かべ、大剣の柄を固く握りしめている。

「ここは…まるで、時間の墓場のようだな」 カイルの声が、霧の中に吸い込まれるように消えていく。その声には、普段の軽快さはなく、深淵を覗き込んだような、重い響きがあった。 ルシアは、ゆっくりと歩を進めた。一歩踏み出すごとに、足元から「ヌチャリ」という嫌な音が響き、粘性の霧が、まるで彼女の魂を引き留めようとするかのように、足に絡みつく。迷宮の壁は、不規則な脈動を繰り返しており、その奥からは、記憶を食らう魔物たちの、空虚な咆哮が時折響き渡る。だが、それらは、これまでの階層で出会ったものとは、明らかに異なっていた。姿形は希薄で、まるで人型の靄のようであり、彼らの瞳には、深い「未練」の光が宿っているように見えた。

 やがて、霧の奥から、数体の幻影が姿を現した。彼らは、ルシアの両親、そしてグレイの姿を模していた。それは、彼女の心の奥底に眠る、最も深い「罪悪感」と「後悔」を揺さぶるための、幻惑だった。 「なぜ、あの時、私を助けなかった!」 父の幻影が、苦悶に歪んだ顔でルシアに問いかける。その声は、迷宮の底に響き渡り、ルシアの心を激しく揺さぶる。母の幻影は、血に濡れた手を伸ばし、「私が死んだのは、あなたのせいだ」と、恨みがましい言葉を投げかける。幻影から放たれるのは、瘴気にも似た重い「罪悪感」の感情だった。

 ルシアの心臓が、激しく、不規則に脈打つ。彼女の視界が、一瞬、ぐにゃりと歪んだ。 「違う…! 私は…!」 反論しようとするルシアだが、言葉が喉に詰まる。あの日の雷鳴、豪雨、そして聞こえてきた悲鳴と剣戟の音。騎士たちの瞳の濁り、グレイが呪いに蝕まれていく姿。そして、彼が「逃げろ」と叫んだ、あの悲痛な声。全ての記憶が、一気に押し寄せ、ルシアの心を押し潰そうとする。彼女の頭を、まるで巨大な金槌で殴られたかのような、激しい痛みが襲った。彼女の膝が、ガクン、と崩れ落ちる。

「ルシア!」 カイルの声が、遠くから聞こえる。彼は、ルシアに襲いかかる幻影を、必死に剣で払いのけていた。彼の剣が風を切り裂く「ヒュン!」という音と、幻影の体が霧散する「シュン…」という音が、この異質な空間に響き渡る。だが、幻影は次から次へと現れ、カイルの背中にも、かすり傷が増えていく。 「しっかりしろ! これは、あんたの心が作り出した幻だ!」 カイルの言葉が、ルシアの心の奥底に、一筋の光を差し込んだ。そうだ、これは幻だ。彼らの「未練」が、私の心を蝕もうとしているのだ。

 ルシアは、震える手で、腰の短剣を抜いた。彼女の得意とする「闇に潜む風」の魔法。これまで、破壊のため、あるいは結界を弱めるために使ってきたその魔法は、もう一つの側面を持っていた。精神の奥底に潜り、自らの魔力の源泉へと意識を向ける。その魔力は、冷たく、そして静かで、まるで深海の底に佇む宝石のようだった。 「…私は、もう背負わない」 ルシアの声が、かすかに、しかし、はっきりと響いた。彼女の魔力が、短剣の刃を伝い、淡い光を放ち始める。彼女は、その光を幻影へと向けた。それは、攻撃ではない。破壊ではない。癒しだ。 「闇に潜む風よ…解放を…」 詠唱と共に、ルシアの魔力が、幻影たちへと流れ込んでいく。それは、彼らが囚われている「未練」を、優しく溶かし、解放するための力だった。

 幻影の体が、微かに揺らぎ始める。父の幻影は、苦しげな表情のまま、何かを言いかけたが、やがて光の粒となって霧散した。母の幻影もまた、ルシアに手を伸ばそうとしながら、静かに消えていく。彼らの「未練」が、ルシアの魔法によって、少しずつ、しかし確実に癒やされていく。

 そして、最後に、グレイの幻影が、ルシアの目の前に現れた。その顔には、呪いに蝕まれた苦痛の表情が刻まれている。ルシアの心臓が、再び激しく締め付けられる。 「グレイ…」 ルシアの声が、震えた。 グレイの幻影は、ゆっくりと、しかし、慈しむような眼差しで、ルシアを見つめた。そして、彼の口が、ゆっくりと動く。 「ルシア…もう、背負わなくていい」 その声は、迷宮の底に響き渡り、ルシアの心の奥底に、深く、そして温かく染み渡った。それは、嵐の後の、穏やかな海辺に立つような、確かな安らぎの言葉だった。 「私は…あなたを…見殺しにした…」 ルシアは、嗚咽を漏らしながら、彼の幻影に手を伸ばそうとする。 「違う…あれは、俺の選択だ。お前は…何も悪くない。だから…もう、その重荷を、背負わなくていい」 グレイの言葉は、まるでルシアの心の奥底に深く刺さっていた棘を、ゆっくりと、そして完全に抜き取るかのようだった。彼の言葉と共に、グレイの幻影の表情から、苦痛が消え去り、穏やかな笑みが浮かんだ。 「…ありがとう…ルシア…」 その言葉を最後に、グレイの幻影は、光の粒となって、霧の中に溶けていった。それは、悲しい別れではなかった。魂の解放。そして、ルシア自身の、心の解放だった。

 グレイの幻影が消えた瞬間、迷宮の最下層を覆っていた重い霧が、ゆっくりと晴れていく。足元に広がる粘性の液体も、まるで夢のように、静かに消えていった。残されたのは、ひんやりとした石壁と、遠くで滴る水滴の音、そして、心なしか軽くなったルシアの心だった。

 ルシアは、その場にへたり込んだ。全身の力が抜け落ち、鉛のように重い疲労感が襲う。だが、その顔には、これまでにないほどの、穏やかな表情が浮かんでいた。彼女の瞳は、もう、悲しみや後悔の色を宿してはいない。ただ、澄み切った空のような、透明な光を放っていた。 カイルが、そっとルシアの隣に座り込み、その肩を抱き寄せた。彼の温かい手が、ルシアの震える手を優しく包み込む。 「…終わったんだな」 カイルの声が、ルシアの耳に、優しく響いた。ルシアは、小さく頷いた。 「うん…」 彼女の「静けさ」は、もはや過去の悲しみに囚われたものではなく、世界の「歪み」と対峙し、魂を癒やすための、確固たる「覚悟」へと変貌を遂げていた。恋は、まだ、遠い光のように思えた。だが、その光の先に、ルシアは、確かに新しい自分を見出していた。彼女の魂の戦いは、今、終わりを告げ、新たな旅が始まろうとしていた。


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