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告白と覚悟

 夜の帳が降りたフェルナレアの街は、遠くの街灯がぼんやりと輝き、普段よりも一層の静寂に包まれていた。微かに漂う土の匂いは、昼間の喧騒とは違う、しっとりとした夜の空気と混じり合っていた。ルシアは、自室の窓辺に座り、夜空を見上げていた。星は薄い雲の奥に隠れ、街の奥から聞こえるのは、魔力時計の不規則な音と、遠くで吠える犬の声だけだった。第7章で知った両親の死の真実、そしてグレイの犠牲は、ルシアの心の奥底に、新しい波紋を広げ続けていた。彼女の「静けさ」は、もはや過去の悲しみに囚われたものではなく、未知なる「歪み」へと向かう、静かなる覚悟へと変貌しつつあった。

 その日、カイルはいつもより遅くまで遺品屋に残り、ルシアと共に魔力流動の変化に関する古い文献を調べていた。暖炉の火がパチパチと音を立て、二人の間には、穏やかな時間が流れていた。ミラとレオンが寝静まった後、室内の空気は、いつの間にか特別な色を帯びていた。カイルは、ふと、調べていた文献から顔を上げ、ルシアの横顔を見つめた。ロウソクの炎が、彼女の金色の髪を淡く照らしている。

「…ルシア」 彼の声が、静かな部屋に響く。ルシアは、本から目を離さず、「なんだ」と短く返した。 カイルは、一度大きく息を吸い込んだ。彼の視線は、真っ直ぐにルシアの瞳を捉えている。 「…あんたの、そういうところが好きだ」 突然の言葉に、ルシアの手が、ぴたりと止まった。彼女はゆっくりとカイルの方へ顔を向けた。彼の瞳は、迷いや偽りなく、ただ真摯な光を宿していた。 「一人で全てを背負い込もうとするところも、傷だらけになっても立ち向かうところも、そして、たまに見せる、あの、少しだけ寂しそうな顔も…全部、俺は、あんたが好きだ」 カイルの言葉が、ルシアの心の奥底に、まるで凍りついた湖面に小石が投げ込まれたように、静かに、しかし確実に波紋を広げていく。ルシアの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。それは、迷宮の奥で幻影と対峙した時とも、両親の死の真実を知った時とも違う、甘く、そして苦しい痛みだった。

 ルシアは、言葉を失った。これまで、誰かに好意を寄せられた経験はあったが、カイルの言葉は、まるで彼女の魂の奥底まで見透かされているかのように、深く、そして重かった。彼の真剣な眼差しに、ルシアの心は、激しく揺さぶられた。彼女の脳裏に、カイルと共に過ごした日々が、走馬灯のように駆け巡る。迷宮での共闘、互いの背中を預け合った信頼、そして、彼が自身の「責任」を分かち合おうとしてくれた温かい手。

「…カイル…」 ルシアの声は、震えていた。彼女の瞳には、次第に水膜が張っていく。それは、彼の言葉への喜び、そして、それを受け止められない己への、苦しい感情が入り混じっていた。 彼女は、静かに、しかし、強く首を横に振った。 「ごめん…私は…今、誰かと深く向き合うことは、できない」 彼女の言葉は、絞り出すようなものだった。苦悶の表情が、その美しい顔を歪ませる。 「恋よりも、守るべきものがあるの…」 その言葉と共に、一筋の涙が、ルシアの頬を伝って流れ落ちた。それは、透明な雫となって、彼女の膝の上に広げられた文献のインクに、じんわりと滲んでいった。

 カイルは、ルシアの涙を見て、一瞬、戸惑いの表情を浮かべた。だが、すぐに、その表情は理解へと変わる。彼の指先が、ルシアの震える頬に触れ、優しく涙を拭った。その手の温かさが、ルシアの心の痛みを、さらに深く抉る。

「…私には、妹と弟がいる。彼らを、これ以上悲しませるわけにはいかない」 ルシアは、震える声で語った。彼女の脳裏に、幼いミラとレオンの顔が浮かぶ。「お姉ちゃん、今日も怪我して帰ってきたね」と心配するミラの声。「もっと働くから、学校行かなくていいよ」と背伸びするレオンの姿。あの日の豪雨の中で、震えるミラとレオンを抱きしめた時の、ルシアの心の痛み。それは、何よりも大切で、何よりも重い「責任」だった。

 そして、彼女はグレイの消滅を思い出した。世界の「歪み」の片鱗。王都の貴族たちの隠蔽。魔力流動の乱れが引き起こす、新たな悲劇への予兆。 「それに…両親の死の真相を知ってしまった今、私は、この世界の『歪み』の根源を探らなければならない。これ以上、私と同じような悲劇が繰り返されるのは…絶対に嫌なの」 ルシアの言葉は、途切れ途切れだったが、その中に宿る決意は、鋼のように固かった。彼女の「静けさ」は、今や、個人的な悲しみを超え、世界の理不尽と戦うための、静かなる闘志へと変化していた。

 カイルは、ルシアの言葉を、ただ静かに聞いていた。彼の顔には、微かな悲しみが浮かんでいたが、それ以上に、彼女の覚悟と、その奥にある深い優しさを理解したかのような、穏やかな眼差しがあった。彼は、ルシアの手を、もう一度、優しく握りしめた。 「…わかった。俺は、あんたのその覚悟を、尊重する」 カイルの声は、低く、そして温かかった。 「でも…それでも、俺はあんたの傍にいる。あんたが背負う『責任』を、俺にも少しだけ、分けてくれないか? 恋人じゃなくても、仲間として、あんたを守りたい」 彼の言葉は、ルシアの心を、深く、そして温かく包み込んだ。それは、愛の告白への返答ではなかったけれど、ルシアにとって、これ以上ないほどの、深い絆の再確認だった。彼女の目から、再び涙が溢れ落ちた。今度の涙は、悲しみだけではない、安堵と、そして、彼への感謝が混じり合ったものだった。

 ルシアの「静けさ」は、もはや孤独なものではなかった。それは、カイルという、理解し、支えてくれる存在と共に、この世界の「歪み」と対峙するための、揺るぎない覚悟へと昇華していた。恋は、今は、遠い夢のように思えた。しかし、その先に、きっと、新しい光が待っている。ルシアは、そう信じていた。


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