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過去との対話

 迷宮の奥深くで、癒やしの魔法を習得したルシアは、以前よりもいくぶん軽い足取りで、カイルと共に地上へと戻ってきた。しかし、彼女の心の中は、新たな真実への予感と、過去への扉が開かれつつある漠然とした不安で満たされていた。空は相変わらず薄灰色で、フェルナレアの街並みは、どこか遠い世界の幻のようにぼやけて見えた。街の空気は、土埃と、僅かに残る腐敗臭に、希望の匂いが混じり合う。遠くで、街の時計塔が不規則な鐘の音を響かせている。魔力流動の不安定さは、未だ街の日常に影を落としていた。

「あの幻影…あんたの過去を映し出していたのか?」 街へと続く石畳の道を歩きながら、カイルが静かに尋ねた。彼の声は、いつもの快活さとは異なり、ルシアの心の奥底に優しく触れるようだった。 「…ああ」 ルシアは、短く答えた。彼の真っ直ぐな視線に、嘘をつくことはできなかった。ルシアは、まだ彼に全てを話す準備はできていなかったが、彼の隣にいること自体が、彼女の閉ざされた心を少しずつ開いていく。

 遺品屋に戻ると、ミラとレオンが心配そうにルシアの帰りを待っていた。ミラの顔色は以前よりずっと良くなり、レオンは学校での出来事を興奮気味に話し始める。その無邪気な笑顔が、ルシアの心を少しだけ軽くした。家族との穏やかな時間が、彼女の「静けさ」を支える何よりも大切なものだった。しかし、あの迷宮で幻影が問いかけた「なぜ貴女だけが生き残ったのか」という言葉が、ルシアの心に深く刺さった棘のように、彼女を苛み続けていた。

 夜になり、ミラとレオンが寝静まった後、ルシアは古い革張りの日誌を手に取った。それは、両親の遺品の一つだった。普段は、遺品の「未練」を読み解くためにしか開かないその日誌を、今夜は、自身の「過去」を読み解くために開いた。ページを繰るたび、カビと紙の匂いが混じり合った、古めかしい香りが立ち上る。日誌の文字は、父の筆跡で記されている。

「…この日は、フェルナレアの魔力流動が異常なほど乱れたと記されているな…」 ルシアは、読み進めるうちに、ある一節に目が止まった。父は、その日、迷宮の奥深くで異変を感じ、冒険者たちが狂暴化するのを目撃したと記していた。それは、魔力流動の急激な変化が、冒険者たちの精神に異常な影響を与え、彼らを制御不能な「暴走」へと駆り立てたのだという。その記述の端には、小さな文字で、ある男の名前が記されていた。 「グレイ…」 ルシアの記憶に、あの日のグレイの幻影の姿が重なる。幻影が語った「呪い」と「消滅」。父の日誌には、さらに衝撃的な事実が綴られていた。

 回想:暴走の記憶、消えた騎士

 あれは、ルシアがまだ幼かった頃の、雨の日だった。 雷鳴が轟き、窓の外は、まるで世界が終わるかのような豪雨。その日、両親は迷宮の奥深くへと冒険に出ていた。ルシアは、幼いミラとレオンの手を握りしめ、二人の震える体を抱きしめた。

「お姉ちゃん、パパとママ、まだ帰ってこないの…?」

 ミラが震える声で尋ねる。レオンは、ルシアの服をギュッと掴み、顔を埋めていた。ルシアは、二人に聞こえないように、歯を食いしばって耐えていた。心臓が、耳の奥で激しく鳴り響く。

 その時、街の広場から、悲鳴と、剣戟の音が聞こえてきた。何かがおかしい。両親を待つ間、ルシアは、何度も窓の外を覗いた。雨に煙る視界の向こうに、街の騎士たちが、狂ったように住民を斬りつける姿が見えた。彼らの瞳は、まるで濁った泥水のように、正気を失っていた。

  その中に、一人の騎士がいた。銀の鎧を纏った、グレイという名の男。彼は、かつてルシアの父と共に、迷宮の調査をしていた友人だった。グレイは、狂気に陥った他の騎士たちを止めようと、必死に剣を振るっていた。彼の顔には、苦悶と悲壮な決意が入り混じっていた。 「止まれ…! お前たちは…正気に戻るんだ!」

  グレイの叫び声が、雨音に掻き消されそうになる。だが、彼の身体から、黒い靄のようなものが噴き出し始めた。それは、魔力流動の歪みが作り出した、呪いの瘴気だった。他の騎士たちが、まるで彼の身体から流れ出る闇に引き寄せられるかのように、グレイに襲いかかった。グレイは、それでも仲間を庇うように立ち向かい、呪いの瘴気にその身を蝕まれていった。 「ぐ…あ…!」 グレイの身体が、徐々に半透明になっていく。彼の顔は、絶望に歪んでいた。 「ルシア…逃げろ…っ!」 グレイの声が、ルシアの幼い脳裏に、悲痛な叫びとして刻み込まれた。彼の身体は、雨の中に溶けるように、ゆっくりと、しかし確実に消滅していった。 その直後、ルシアの両親の帰りを告げる、知らせが届いた。彼らもまた、迷宮の奥で、暴走した冒険者たちの犠牲になったのだと。あの日の出来事は、ルシアに、他者を信じることへの深い恐怖と、「責任」を一人で背負い込む重い鎖を、深く刻み込んだ。それが、彼女の「静けさ」の根源だった。

 日誌の記述と、自身の記憶が完全に一致した時、ルシアは、自分が抱えてきた「責任」と「罪悪感」の重みが、単なる個人的なものではなかったことを悟った。両親の死は、彼女自身の「見殺しにした」罪ではなく、世界の根源的な歪みと、それに翻弄された冒険者たちの悲劇が引き起こしたものだったのだ。そして、グレイは、その悲劇を止めようとした、一人の英雄だった。だが、彼もまた、その歪みの犠牲となった。

「…そうか…」 ルシアは、日誌を閉じた。その手は、震えていた。彼女の「静けさ」は、これまで外の世界から身を守るための壁だった。しかし、その壁の向こうに、自分だけの悲劇では終わらない、もっと大きな「歪み」があることを知ったのだ。王都の貴族たちが魔力流動の変化を「天災」としか報じなかったこと、そして、その裏で何らかの隠蔽が行われているのではないかという疑念が、確信へと変わっていく。

 翌朝、ルシアはカイルに、日誌に書かれていたこと、そして、両親の死の真実について、全てを話した。彼女の言葉は、淡々としていたが、その瞳の奥には、これまで見たことのない強い決意が宿っていた。 「…グレイは、呪いに巻き込まれて消滅した。そして、この歪みは、街の魔力流動にも影響を与え、魔物を狂暴化させている。これは…決して偶然なんかじゃない」 ルシアは、自らの内にあった「静けさ」が、単なる受動的なものではなく、この世界の「歪み」と対峙するための、静かなる意志へと変わりつつあるのを感じていた。

 カイルは、ルシアの言葉に、静かに耳を傾けていた。彼の表情は、真剣そのものだった。 「そうだったのか…あのグレイさんが…」 彼の言葉には、驚きと、そしてルシアへの深い同情が込められていた。カイルは、ルシアの震える手を、そっと握った。その温もりが、ルシアの心に、再び新しい「静けさ」を刻み込んでいく。それは、孤独ではない、共にある「静けさ」だった。

「俺は、あんたの力になりたい。あんた一人で、こんな重い『責任』を背負う必要はない」 カイルの言葉が、ルシアの心に深く響いた。彼の言葉は、彼女がこれまで一人で抱え込んできた「責任」の重さを、分かち合おうとする温かい申し出だった。ルシアの瞳に、僅かな涙が浮かんだ。それは、悲しみではなく、温かさと、そして希望の光だった。

 過去との対話は、ルシアに新たな「責任」を与えた。それは、家族を守ることだけでなく、この世界の「歪み」の根源を探り、グレイの無念を晴らすこと、そして、同じ悲劇を二度と繰り返させないという、静かで、しかし揺るぎない決意だった。彼女の「静けさ」は、もはや自身を守るための壁ではなく、世界の深淵を見つめ、真実を探求するための、澄んだ眼差しへと変わっていた。


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