恋の芽吹き
ダンジョンでの戦いと、グレイの幻影と対面した夜から数日後、ルシアの日常は、以前にも増して静かな、しかし、確かな変化の兆しを見せていた。ミラの熱は少しずつ下がり、レオンもいつものように元気を取り戻している。だが、ルシアの心の中には、冷たい迷宮の空気のように澱んでいた何かが、カイルという熱源によって、微かに溶け出しているのを感じていた。
彼は、時折、遺品屋に顔を出すようになった。依頼があるわけでもなく、ただ、「遺品屋、今日の稼ぎはどうだった?」とか、「迷宮で変わったことはなかったか?」と、他愛もない会話を交わしていく。そのまっすぐな眼差しと、裏表のない言葉に、ルシアは戸惑いつつも、彼を邪険に扱うことはできなくなっていた。彼の存在は、ルシアの閉ざされた世界に、強引なほどに、しかし温かく差し込む一筋の光のようだった。
ある日の午後、ルシアは街の薬師のもとへ、ミラの薬を取りに行っていた。フェルナレアの街は、相変わらず薄灰色の空の下、土埃と、僅かに残る夏の湿気、そして遠くから聞こえる噴水広場の低い水音が日常のBGMとなっていた。人通りは以前よりも少ないが、それでも市場の活気や、遠くで子供たちの声が聞こえるのは、魔物の脅威が増している現状を思えば、まだ平穏な方だった。古びた石造りの建物は、ところどころに蔦が絡まり、その壁には、この地方特有の幾何学模様が彫り込まれている。それは、かつて魔力流動が安定していた頃、魔力を効率よく吸収し、街に供給するための紋様だと聞いたことがある。しかし、今ではその輝きも失われ、ただの装飾と化している。
ルシアは、無意識のうちに早足になっていた。彼女の足は、薬師の店までの最短ルートを迷いなく進む。無駄な動きは一切なく、まるで機械仕掛けの人形のように、彼女の歩みは目的へと向かって一直線だった。彼女の意識は、常に妹と弟に向けられていた。ミラの咳が少しでも楽になるよう、レオンが学校で寂しがっていないか、今夜の食事は何にしようか。頭の中は、そうした幼い家族の世話と、遺品屋としての「責任」で常に満たされていた。道端に咲く色とりどりの野花にも、遠い異国から来たという珍しい行商人が広げる鮮やかな織物にも、彼女の視線は留まらない。活気ある市場の声も、子供たちの楽しそうな笑い声も、彼女の心にはほとんど届かず、ただの背景音として通り過ぎていく。周囲の景色は、彼女にとってただの背景であり、そこに特別な感情が湧き上がることはなかった。彼女の世界は、常に妹と弟を中心に回っており、他の何者も、その閉ざされた円の中に入り込む余地はなかったのだ。
薬師から薬を受け取り、店を出ようとしたその時、背後から聞き慣れた声がした。 「おい、遺品屋! ちょうど良かった!」 振り返ると、汗を拭いながら駆けてくるカイルの姿があった。彼の顔には、どこか嬉しそうな、しかし少し慌てたような表情が浮かんでいる。 「ちょっと、手伝ってほしいことがあるんだ。今日、ギルドで珍しい依頼が出てな。俺一人じゃ、手が回らなくて…」 カイルはそう言うと、ルシアの手を、躊躇いなく掴んだ。その指先から伝わる、熱くて、少しだけざらついた感触に、ルシアの心臓が、まるで生まれたての小鳥のように小さく、しかし激しく跳ねた。ルシアは咄嗟に手を振り払おうとした。しかし、その手は、まるで凍りついた氷が熱に触れて動きを止めるかのように、ぴたりと止まった。
回想:触れられない温もり かつて、ルシアがまだ幼かった頃。両親を亡くし、まだ幼い妹と弟の手を引いて、親戚の家を転々としていた時期があった。どの家でも、彼女たちはまるで「お荷物」のように扱われた。手を差し伸べてくれる者はいても、その温もりはどこか遠慮がちで、本当の意味で触れようとはしなかった。 「ルシアちゃん、可哀想にね」 そう言って頭を撫でる手は、いつもすぐに離れていった。温かいはずの掌は、どこか冷たく感じられ、彼女の心に届くことはなかった。誰かに触れられるたび、彼女の心には、自分が「汚れている」かのような、漠然とした疎外感が募っていった。家族以外の人間に、深く触れられることなど、決してなかった。彼女は、そうして、他者との間に厚い壁を築き上げてきたのだ。
カイルの掌からじんわりと染み渡る体温が、長年冷え切っていたルシアの指先に、ゆっくりと、しかし確実に熱を灯していく。それは、冬の朝、凍える指先に初めて触れる陽光のように、不慣れで、どこか心地よい感覚だった。彼の無邪気な笑顔が視界の端で揺れる。その屈託のない表情に、ルシアの心に深く根を張っていた硬い氷が、ミシリ、と音を立てて小さな亀裂を生んだ。彼女は、妹や弟を守る「姉」としての自分ではない、「一人の女」としての自分の中に、これまで意識したことのなかった小さな「気づき」が芽生えるのを感じていた。
「な、なんだ…」 ルシアは、かろうじて声を絞り出すのがやっとだったが、カイルは構わず彼女の手を引いて歩き出した。 「いいから、いいから! ちょっとだけだ!」
カイルに連れられてやってきたのは、街の市場だった。そこには、数人の商人が困り顔で立ち尽くしている。市場には、この地方特有の鮮やかな色彩の布を身につけた人々が行き交い、獣皮を加工した粗野な衣服の者もいれば、繊細な刺繍が施されたシルクのローブを纏う者もいる。屋台からは、焼けた獣肉の香ばしい匂いや、乾燥させたハーブの独特な香りが混じり合って漂ってくる。 「どうしたんだ?」 カイルが声をかけると、商人の一人が答えた。 「カイル坊ちゃん! 助かります! 新しい魔導具の搬入なんですがね、どうにもこの扉が古くて、魔法がうまく通じないもんで、開かねぇんですよ…」 ルシアが目をやると、確かに頑丈な鉄扉が、魔法の光を弾くように微かに揺らめいていた。どうやら、魔法による開錠がうまくいかないらしい。 「ふむ…なるほど…」 カイルは顎に手をやり、思案する。その真剣な横顔に、ルシアはなぜか見惚れてしまっていた。 「…こういう時は、物理的にぶっ壊すのが一番手っ取り早いんだが…」 カイルは腰の剣に手をかけたが、すぐに思い直したように手を離した。 「いや、これは依頼主に怒られるな」 彼は苦笑しながら、ルシアの方を振り返った。 「遺品屋、あんた、魔法も使えるんだろ? なんか、こう…特殊な…」 ルシアは、以前ダンジョンでカイルを助けた際に、攻撃魔法を使ったことを思い出していた。彼は、それを覚えていたらしい。 「…どういうことだ」 ルシアは冷静を装いながら問い返した。 「いや、ほら! あんたの魔法って、なんかこう…闇に紛れるような、静かな魔法だったろ? もしかしたら、この扉の結界を、こっそり無効化できるんじゃないかと…」 カイルは、期待に満ちた目でルシアを見つめた。そのまっすぐな視線に、ルシアは、またしても心臓が大きく跳ねるのを感じた。
ルシアは、観念したように息を吐くと、そっと扉に手をかざした。意識を集中させ、魔力を扉の結界に流し込む。彼女の得意とする「闇に潜む風」の魔法は、対象の魔力干渉力を一時的に弱めることができる。それは、破壊ではなく、静かなる浸食。結界の微細な隙間を探り、そこにルシアの魔力が流れ込んでいく。ごくわずかな、しかし確かな振動が扉から伝わり、やがて、カチン、と小さな音がして、扉がゆっくりと開いた。
「おお! すげぇな、遺品屋!」 カイルが、子供のように目を輝かせて喜んだ。商人も安堵の表情を浮かべ、深々と頭を下げた。 「ありがとう、カイル坊ちゃん! そして、お嬢さん!」 ルシアは、商人の言葉に、なぜか顔が熱くなるのを感じた。「お嬢さん」という言葉は、普段「遺品屋」と呼ばれ慣れている彼女にとって、不思議な響きを持っていた。
「助かったぜ、遺品屋! お礼に、なんか奢るよ!」 カイルはそう言うと、ルシアの手を再び引いた。今度は、彼女も手を振り払わなかった。彼の掌から伝わる熱が、冷たい彼女の心を、少しずつ温めていく。それは、ただの感謝の気持ちだけではなかった。彼の隣を歩くことで、ルシアの心の中に、今まで知らなかった感情の芽が、ひっそりと息づいているのを感じた。
二人は、街角の小さな屋台で、焼きたての串焼きを買った。それは、この地方の森に生息する「ロックバイソン」の肉だという。肉厚な塊は、炎で炙られ、表面は香ばしく焦げ、内側からはジューシーな肉汁が溢れ出す。一口食べると、肉本来の旨味と、この世界特有の香辛料「アザミの実」のピリッとした辛味が口の中に広がり、深い満足感をもたらした。 「これ、うまいな!」 カイルは豪快に串焼きを頬張る。その無邪気な笑顔に、ルシアの唇の端も、自然と緩んだ。 「…ああ」 普段は無表情な彼女が、少しだけ表情を崩す。その変化に、カイルは気づいているのかいないのか、ただ嬉しそうに笑っている。
他愛もない会話が続く中で、ルシアは、自分が姉としてではなく、「一人の女」としてカイルのまっすぐさに惹かれていることに、ようやく気がつき始めていた。それは、ミラの世話や遺品屋の仕事に追われる日々の中で、ずっと心の奥底に押し込めていた感情の芽生えだった。この「デートめいた出来事」は、ルシアにとって、自分の心の「静けさ」の定義を、さらに拡張する機会となった。
これまでの彼女の「静けさ」は、他者を拒絶し、感情を閉じ込めることで保たれていた。しかし、カイルという、嵐のような存在が彼女の日常に現れて以来、その「静けさ」は、彼と共に歩む中で、温かい光と賑やかさを内包する可能性を秘め始めたのだ。それは、まるで漆黒の夜空に、遠い星の瞬きが、一つ、また一つと増えていくような、静かで、しかし確かな心の変化だった。彼女の求める「静けさ」は、もはや孤独ではなく、彼の隣にある、温かな場所へと変わりつつあった。