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守りたいもの

 翌朝、フェルナレアの街はどんよりとした厚い雲に覆われていた。噴水広場の水音も、昨夜から続く不穏な風に掻き消され、街全体が深い眠りについたように静まり返っている。その静けさは、ルシアが何よりも求めるものだったはずなのに、今はただ、重苦しい予感となって胸にのしかかる。

 ルシアは、ミラの額に触れ、熱い息を飲んだ。小さな顔は赤く染まり、荒い呼吸を繰り返している。 「お姉ちゃん…寒いよ…」 かすれた声で呟くミラの手を握ると、その熱がルシアの心臓に直接伝わってくるようだった。薬師の話では、ミラの病は進行性で、定期的に高価な特殊な薬が必要だという。昨日のダンジョンでの稼ぎでは、到底足りない。

 ルシアは、冷たい鉄の感触に現実へと引き戻されるかのように、腰の短剣を確かめた。彼女の瞳には、迷いが宿る。さらに深い層へ行くしかない。危険が増すことは承知だ。だが、ミラのためなら、どんな危険も厭わない。 「静かに暮らしたい、静かに、ただ静かに」 その願いが、今は遠い幻のように霞む。ミラの熱が、ルシアを突き動かす唯一の原動力だった。

 ダンジョンの入り口は、今日も薄暗い霧に包まれていた。足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫で、微かに土と石の湿った匂いが漂う。いつもよりも、迷宮の奥底から響く低いうめき声が、心臓に直接響いてくるかのようだ。

 その時、背後から声をかけられた。 「おい、遺品屋。また行くのか?」 振り返ると、そこに立っていたのはカイルだった。昨日の新米冒険者。彼の顔には、どこか困惑したような表情が浮かんでいる。 「一人で危険な真似はよせ。この迷宮は最近、様子がおかしい。あんた一人じゃ…」 カイルの言葉に、ルシアは冷たく言い放った。 「貴方には関係ない」 彼女の心は、閉ざされた扉のように固く、他人の介入を拒絶した。他者を巻き込むことは、すなわち「責任」を増やすことだ。それに、彼を危険に晒すわけにはいかなかった。

 しかし、カイルは諦めなかった。彼の瞳の奥には、ルシアのそれと似た、しかし異なる種類の切迫した光が宿っていた。 「昨日、助けてもらった恩がある。それに、俺も迷宮の奥に行かなきゃならねぇ理由があるんだ…」 カイルの声は、普段の快活さとは裏腹に、どこか重く、深く沈んでいた。その表情は、僅かに歪み、まるで過去の重荷を背負っているかのようだった。 「…親父の遺品でな。どうしても取り戻さなきゃならねぇもんがあるんだ。俺がしくじって、それで…母さんまで巻き込んで、路頭に迷わせちまった。だから…」 言葉の途中で、彼はぐっと言葉を飲み込んだ。その悔恨が、彼の喉を詰まらせたかのようだった。 「一人より二人の方が安全だ」 ルシアは躊躇した。彼の目は真剣で、どこか自分と似た、強い意志を感じさせた。だが、それ以上に、彼を巻き込むことへの「責任」がルシアの心を縛り付ける。 「…来ても、足手まといになるだけだ」 ルシアはそう言い捨てると、再び迷宮の奥へと歩を進めた。カイルは、何も言わず、ただルシアの後を追った。

 迷宮の第二層は、第一層とは比べ物にならないほど、暗く、そして異質な空間だった。壁から生える青白い菌類は、まるで自らの意思を持っているかのように蠢き、足元には、見たこともない奇妙な動植物が張り付いている。時折、天井から不規則に滴り落ちる粘液が、皮膚に触れるとひんやりとした感触をもたらした。

「グアァァァ!」 突然、背後から耳をつんざくような咆哮が響いた。ルシアは咄嗟に身を翻す。そこには、二体の記憶を食らう魔物が立っていた。昨日出会った影をまとう獣とは異なり、その体はより明確な形を持ち、人間の冒険者の姿を模している。しかし、その瞳は空虚で、顔には無数の傷跡が生々しく残っていた。

「くそっ…こんな深くまで、こんなのが出るなんて…!」 ルシアは舌打ちし、短剣を構える。一体の魔物が、男の最期の記憶を宿した剣を構え、ルシアに襲いかかった。それは、あの剣の持ち主の姿を模した幻影なのだろう。ルシアの脳裏に、剣の持ち主の「未練」がフラッシュバックする。男の悲痛な叫びが、耳の奥でこだまする。その幻影に、ルシアの動きが一瞬鈍った。

「危ない!」 カイルの声が響くと同時、彼の持つ大剣が、魔物の幻影を切り裂いた。 「俺だって、伊達に冒険者をやってるわけじゃねぇ!」 カイルは、ルシアの隣に立ち、魔物と対峙する。彼の剣の動きは、昨日よりも格段に鋭くなっていた。経験の浅さを、持ち前の度胸と集中力で補っているかのようだ。風の音が唸りを上げ、土煙が舞い上がる。魔法のエフェクト音が、迷宮の闇に響き渡る。ルシアは、カイルの背中を見つめた。彼の存在は、確かにルシアの心を揺さぶっていた。

 戦いの後、迷宮には再び静寂が訪れた。冷たい空気が肌を撫で、微かな土の匂いと、獣の残り香が混じり合う。ルシアは、全身を襲う倦怠感と、精神的な疲労に耐えながら、乱れた息を整えた。 「…助かった」 ルシアは、カイルに小さく呟いた。その言葉は、彼女の口から出るには珍しい、素直な感謝の言葉だった。カイルは、驚いたようにルシアを見た。そして、照れたように頭を掻いた。 「これくらい、当然だろ。俺は新米だが、あんたを守ると決めたんだ」 その言葉に、ルシアの心の奥深くに閉じ込められていた感情が、微かに揺れ動くのを感じた。それは、まるで凍てついた湖の表面に、かすかな亀裂が入ったかのようだった。その亀裂からは、最初は氷点下の風が吹き込むような、ヒリヒリとした戸惑いが染み出した。次いで、他者に頼ることへの、これまで押し込めてきた僅かな甘えが、熱を帯びた水滴のようにゆっくりと、そしてじんわりと広がり始める。その甘えは、まるで凍りついた地面を溶かす春の陽光のように、彼女の心を温めていくようだった。

 ルシアの心は、これまで「静かに暮らしたい」という願いで一貫していた。誰にも頼らず、一人で全てを背負い込んできた。それが彼女の「責任」だった。だが、カイルの介入は、その「責任」の形を少しだけ変えるかもしれない。彼が隣にいることで、重かったはずの鎖が、ほんのわずかだが、軽くなったような気がしたのだ。まだ、完全には心を開いてはいない。だが、彼の存在が、ルシアの心の奥に、新しい波紋を生み出したのは確かだった。それは、静寂の中に響く、小さな、しかし確かな、生命の音のようだった。ルシアの求める「静けさ」は、これまで閉ざされた、自分だけの世界だった。しかし、カイルという存在が隣にいることで、その「静けさ」の定義が、ほんの少しだけ拡張されたように感じられた。それは、嵐の後の、穏やかな海辺に立つような、どこか開かれた、しかし確かな安らぎの兆しだった。



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