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亡き者の記憶

 迷宮から戻ったルシアの足取りは重かった。冷たいフェルナレアの風が、疲労困憊の体に容赦なく吹き付ける。今日の収穫は、下層で発見した錆びついた片手剣一本。カイルを助けたことで予定よりも深くに潜ることになり、思わぬ時間を食ってしまった。ミラとレオンが待つ家路を急ぎながら、ルシアは腰に提げた剣の柄を無意識に握りしめた。冷たい鉄の感触は、いつだって彼女を現実へと引き戻す。だが、今、その冷たさの中に、微かな熱が宿っているような気がした 。

 家に着くと、ミラとレオンはルシアの帰りを玄関で待ち構えていた。 「お姉ちゃん、おかえり!」

 ミラの小さな手がルシアの服をギュッと掴む。その温かさが、ダンジョンで凍えた心を溶かしていく 。レオンはルシアの腰の剣に目を留めた。

「新しい剣? お姉ちゃんのじゃ、ないよね?」

 鋭い指摘に、ルシアはわずかに眉をひそめた。遺品屋の仕事は、あくまで遺品の回収であり、自分の獲物ではない 。

「ああ、これは…迷宮で、見つけたんだ」

 ルシアがそう答えた瞬間だった。柄を握りしめていたルシアの手のひらから、剣が脈打つような微かな振動が伝わってきた。錆びた刀身の隙間から、まるで呼吸するかのように、淡い青白い光が瞬き、同時に、風のざわめきのような、しかしどこか遠くから聞こえる人の囁きのような音が、ルシアの耳に届く。そして、かすかに、甘く、そして鉄錆の混じったような、形容しがたい異臭が鼻腔をくすぐった。次の瞬間、激しい痛みがルシアの手に走る 。同時に、意識の奥底に、まるで泥水が流れ込むかのように、見知らぬ光景が押し寄せた 。

 それは、剣の持ち主の記憶だった 。


 記憶の残像:失われた日の叫び

 薄暗いダンジョンの通路 。どこからか、獣の低い唸り声が響いている 。

「くそっ、もう魔力が…!」

 荒い息遣い 。目の前には、巨大な牙を剥いた魔物の影 。男は必死に剣を構えるが、その手は震え、額には脂汗が滲んでいた 。

「妻が…待ってるんだ…あの子が…」

 男の脳裏には、愛しい家族の顔がよぎる。幼い娘の笑顔。優しい妻の眼差し。その光景が、薄れていく意識の中で、幻影のように揺らめく 。

「帰らなければ…っ!」

 最後の力を振り絞り、男は剣を振り上げた 。だが、魔物の爪が、彼の胸を深々と抉った 。

「う…ぐ…」

 血が、口から溢れ出す 。剣が、男の手から滑り落ち、カラン、と乾いた音を立てて床に転がった 。男の視界は、ゆっくりと闇に包まれていく 。最後に見たのは、転がった剣に映る、娘の泣き顔だった 。

「…頼む、誰か…この剣だけでも、あの子の元へ…」

 その声は、意識の狭間で、かすかなエコーのように響いた 。それは、魂が物質に刻み込んだ、最期の「未練」の叫びだった 。


 ルシアは、ハッと息を飲んでその場に崩れ落ちた 。手のひらは、まるで焼かれたかのように熱く、脳裏には先ほどの光景が鮮明に焼き付いている 。全身から力が抜け、重い倦怠感が泥のように体を這い上がる。頭の中は、激しいめまいに襲われ、視界がぐらぐらと揺れる。精神的な疲労が、鉛のように心を押し潰し、呼吸すらままならない。ミラの悲鳴が聞こえた 。レオンが慌ててルシアの体を支える 。

「お姉ちゃん!? どうしたの!?」

「顔色が…真っ青だよ!」

「だ、大丈夫…」

 震える声で答えるルシアの視線は、床に転がった剣に釘付けだった 。その剣からは、まだ微かに、あの男の「未練」が滲み出ているような気がした 。

 武具には、死者の「未練」が宿る―― 。

 ルシアは、これまで多くの遺品を扱ってきたが、ここまで鮮明な記憶に触れたのは初めてだった 。まるで、死者の魂の一部が、その道具に憑りついているかのようだ 。この剣は、単なる鉄の塊ではない 。持ち主の生きた証であり、そして、果たされなかった願いの化身なのだ 。

「お姉ちゃん、その剣…なんだか変な匂いがするよ…土の匂いとは違う…悲しい匂い…」

 ミラが小さな鼻をヒクつかせながら呟いた 。子供の純粋な感覚は、ルシアが感じ取った「未練」を、別の形で捉えているのかもしれない 。

 ルシアの心は、再び、荒れた海の底へと引きずり込まれるかのように重くなった 。遺品屋として、この剣をどうすべきか。これは、単なる品物ではない 。果たされなかった「責任」を宿した、魂の残骸なのだ 。もし、この剣を遺族に届けたなら、彼らはこの「未練」に触れてしまうのだろうか 。ルシアの胸に、新たな葛藤が生まれる 。それは、まるで凍てついた湖に、小さな石が投げ込まれたかのような、静かで、しかし確かな波紋を広げていく 。

「静かに暮らしたい、静かに、ただ静かに。」その願いは、遠い地平線に霞む幻のように、ルシアの心を揺さぶった 。だが、その根は、血と泥にまみれた「責任」の土壌に深く食い込んでいる 。この「責任」がある限り、真の「静けさ」は訪れないのかもしれない 。彼女は、剣から伝わる持ち主の「未練」を握りしめ、冷たい床に座り込んだまま、ただ、息を潜めていた 。ルシアのこの体験が、カイルとの関係性や彼女自身の内面的な変化にどう影響していくかは、今後の物語で丁寧に描かれていくことになるだろう。


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