表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/10

遺品屋ルシア

 中規模都市フェルナレアの街は、今日も薄灰色の空の下、古い歴史と新しい生活が織りなす独特の匂いを纏っていた 。土埃と、僅かに残る夏の名残の湿気、そして遠くから聞こえる噴水広場の低い水音が、ルシアの日常のBGMだった 。街路樹には、夜になると淡く光る「夜光花」が植えられ、夜道の足元を幻想的に照らしている。しかし、最近は花びらが萎れ、光も弱々しい。かつては子供たちの笑い声が響いた公園も、今は遊具が錆びつき、人影はまばらだ。人々は夕暮れと共に家に閉じこもり、窓には魔除けの紋様が描かれた布が揺れる。

 彼女は、慣れた手つきでベルトのポーチを締め、腰の短剣の感触を確かめる 。冷たい鉄の感触は、いつだって彼女を現実へと引き戻す 。街の時計塔が四半刻を告げる。あの奇妙な「魔力時計」は、魔力の流れを感知して時を刻むため、最近の不安定な魔力流動の影響で、時折不規則な音を立てるようになっていた。便利さの裏側で、人々は得体の知れない不安に苛まれている。

 ルシア・エルダ、19歳 。この街の外れにひっそりと佇む“遺品屋”の看板を掲げる、非公認の冒険者だ 。冒険者ギルドに登録されている正規の冒険者とは違い、彼女の仕事は、ダンジョンで命を落とした者たちの遺品を回収すること 。それは、死者の最後の記憶が宿るとされる品々を、生者へと届ける、静かで、しかし危険を伴う生業だった 。

 今日の目的は、”死者の迷宮”と呼ばれるダンジョンの一角 。街の西側、切り立った山々の麓に口を開けたその巨大な亀裂は、常に薄暗い霧に包まれていた 。迷宮の入り口に近づくにつれ、空気はひんやりと冷たくなり、微かに土と石の湿った匂いが漂ってくる 。そして、時折聞こえる、迷宮の奥底から響くような低いうめき声が、ルシアの心を静かに締め付けた 。それは、まるで迷宮自体が、生きた臓物のように脈打つ音にも聞こえた。

「お姉ちゃん、今日も怪我して帰ってきたね」

 5歳の妹、ミラが心配そうに呟いた言葉が、脳裏をよぎる 。彼女の瞳には、ルシアの小さな傷一つでさえ、世界の終わりであるかのような深い悲しみが宿っていた。

「ミラの病気が良くなるなら、これくらい平気だよ」 ルシアはそう言って、ミラの頭を撫でる。だが、ミラは小さな手をルシアの服に伸ばし、ギュッと握りしめた。 「ミラのせいで、お姉ちゃんが危ない目に遭うの、嫌だ…ミラ、もっと良い子にするから、お姉ちゃん、無理しないで…」 その震える声が、ルシアの胸を締め付ける。

 8歳の弟、レオンが背伸びをして「もっと働くから、学校行かなくていいよ」と言った、あの幼い決意の言葉 。彼の瞳は、幼いながらも、どこか諦めにも似た色を帯びていた。「だって、お姉ちゃんばっかり頑張ってるだろ? 俺、お姉ちゃんみたいに強くなって、今度は俺が守るから!」その言葉は、ルシアの心に深く刺さった。彼らが自分を気遣うたびに、ルシアの「責任」という名の鎖は、より一層強く、彼女の魂を縛り付けていくようだった。

 ルシアの心は、「静かに暮らしたい」という切なる願いで一貫している 。それは、風が止んだあとの湖面のような、波一つ立たない安らぎ。誰かの悲鳴も、魔物の咆哮も、血の匂いも届かない、ただ穏やかな時間が流れる場所。幼いミラとレオンの寝息だけが聞こえる夜が、永遠に続いてほしいと願う、そんな静けさだ。過去の経験が、その願いへと彼女を駆り立てていた 。幼い頃、父が自分に言った言葉が蘇る 。

「お前がいれば、家は大丈夫だ」

 あの時、父の声は力強く、温かかった 。だが、その声が、後に彼女を縛る呪縛となるなど、当時のルシアは知る由もなかった 。両親は冒険者だった 。雨の降りしきるある日、二人は迷宮へと向かい、そして、二度と帰らなかった 。まだ幼かったミラが、父と母の名前を呼びながら泣き続ける姿が、ルシアの目に焼き付いている 。その時、ルシアは歯を食いしばって耐えた 。泣くことすら許されないと、幼い心はそう決めたのだ 。その瞬間、ルシアの心は、砕け散ったガラスの破片を飲み込んだかのように、冷たく、そして鋭利な「責任」の刃を宿した。

「大丈夫」

 そう自分に言い聞かせ、ルシアは迷宮の入り口をくぐった 。内部は、外界の光を完全に遮断された、漆黒の世界だった 。壁から滲み出る水滴の音が、不気味に反響する 。ここは、生きて動く迷宮――入るたびに構造を変え、冒険者を惑わすという 。迷宮の壁面には、まるで生物の血管のように光る、不気味な青白い菌類がびっしりと張り付いている。そこから放たれる微かな光は、ランタンの灯りすら飲み込むかのように、空間の奥行きを狂わせる。ルシアは慣れた足取りで進む 。彼女の持つランタンの光が、足元にわずかな円を描く 。

「ゴォォォ…」

 低い唸り声が、すぐ近くから響いた 。ルシアは素早く身を翻し、壁に身を寄せる 。視線の先、ランタンの光が届くか届かないかの境界線に、ぼんやりとした影が見えた 。それは、この迷宮の下層に生息すると言われる、影をまとう獣だ 。通常の獣とは異なり、その体は半透明で、闇に溶け込むように蠢いている 。まるで、この迷宮の闇が、自らの意思を持って形を成したかのようだ。彼女は息を潜め、五感を研ぎ澄ます 。漂う湿った空気、遠くで滴る水滴の音、そして、心臓の鼓動が、全身に響き渡る 。

 その時、背後から突然、爆発的な轟音が響いた 。

「くそっ! なんだこの数は!」

 聞き慣れない、しかし、どこか若々しい男の声が聞こえる 。ルシアは警戒しつつも、声のする方へと向かった 。そこには、数体の影獣に囲まれ、必死に剣を振るう一人の男の姿があった 。彼は新米冒険者だろう 。動きは粗く、完全に囲まれている 。このままでは、彼は死ぬ 。

 ルシアは迷った 。この状況に介入すれば、彼女自身の身も危険に晒される 。だが、目の前で人が死んでいくのを見過ごすことはできなかった 。過去の記憶が脳裏をよぎる 。仲間が、友人が、目の前で亡くなったあの日のこと 。もう、誰かが死ぬのを見るのはうんざりだった 。あの日の後悔が、錆びたナイフのように彼女の心を抉る。

「風よ、我が刃となれ!」

 ルシアは、腰の短剣を抜き放ち、詠唱する 。彼女が元治療術師見習いだったことは、ほとんど誰も知らない 。だが、彼女は密かに、攻撃系の魔法も学んでいた 。風の魔法が、短剣に宿る 。それは、風を切り裂くような鋭い音を立て、影獣の一体へと突き刺さった 。

「グアァァァ!」

 影獣が悲鳴を上げ、霧散する 。突然の援護に、男が驚いたように振り返った 。彼の顔には、まだ年若さが残っていた 。

「な、なんだお前は!?」

「…助けが必要なら、黙って私の後ろにいろ」

 ルシアは冷たく言い放つと、再び短剣を構える 。彼女の動きは淀みなく、影獣の動きを先読みするかのように次々と切り裂いていく 。風の音が唸りを上げ、土煙が舞い上がる 。魔法のエフェクト音が、迷宮の闇に響き渡る 。

「くっ……」

 男は、自分の未熟さを噛み締めながら、ルシアの背中を見つめた 。彼女の戦い方は、まるで舞踏のようだった 。しなやかでありながら、一つ一つの動きに確かな殺意が宿っている 。

 数分後、影獣は全て霧散した 。迷宮に再び静寂が訪れる 。ランタンの光が、周囲の状況をゆっくりと照らし出す 。冷たい空気が肌を撫で、微かな土の匂いと、獣の残り香が混じり合う 。

「…無事か?」

 ルシアは男に問いかけた 。男は、顔についた煤を拭いながら、大きく息を吐いた 。

「ああ、なんとか…あんたのおかげだ。俺はカイル・ラングリッド。冒険者ギルド所属の新米剣士だ。あんたは?」

「ルシア。遺品屋だ」

 ルシアはそれだけ告げると、倒れた影獣のいた場所をじっと見つめた 。そこには、薄っすらと魔力の残滓が漂っているだけだ 。何の遺品も残っていない 。やはり、ただの魔物だったか 。カイルは、ルシアの素っ気ない態度に戸惑いつつも、彼女に命を救われた事実に、奇妙な縁を感じずにはいられなかった 。彼の心の中で、ルシアの存在が、小さな、しかし確かな光を放ち始めた瞬間だった 。

「あんた、なんでこんなところにいるんだ? 遺品屋ってことは、死体を探しに来たのか?」

 カイルの問いに、ルシアは答えなかった 。ただ、ランタンを少し高く掲げ、さらに迷宮の奥へと進もうとする 。その時、カイルの背後から、不意に冷たい声が響いた。

「おい、新米。ダンジョンで出会った女の後を追うほど、この命は安いのか?」

 声の主は、冒険者ギルドのベテランらしき男だった。彼の顔には深い疲労が刻まれており、腰には使い込まれた斧がぶら下がっている。彼の額には、魔物の爪痕らしき傷跡が生々しく残っていた。

「あれを見ろ」男が指さす先には、半壊した壁にめり込んだ、冒険者らしき人物の遺体があった。「あいつは、昨日の夜、ダンジョンの入り口付近で発見されたんだ。体には無数の傷。魔物との戦闘痕跡はあったが、致命傷は…まるで、身体の内側から食い破られたような跡だったとギルドの奴らが言ってた」

 カイルはゾッとした表情で遺体を見つめる。その遺体から立ち上る、腐敗とは違う、どこか甘く、しかし悍ましい異臭が、彼の胃を掴む。

「最近、迷宮の奥から、記憶を食らう魔物が出現しているらしい。生きてる人間の記憶を読み取り、心の隙を突く幻影を見せて惑わす。そして、油断したところを…食い破る。まるで、魂の飢えを満たすように、内側から食い尽くすんだ」

 男はそこまで言うと、深くため息をついた。「俺たちの街も、もう安全じゃねぇ。魔物がダンジョンの外にまで出てくるようになったら、どうなるか…先日も、街の家畜が夜中に襲われたって話だ。あれも迷宮の魔物の仕業だって噂されてる。子供たちも、外で遊ばなくなり、学校の机には、魔物図鑑や護身術の本が山積みにされてる。こんな生活、いつまで続くんだ…」

 ルシアは彼らの会話を背中で聞きながら、静かに迷宮の奥へと歩を進める。街の人々が魔物の脅威にさらされている現状、そして迷宮の生態系の異常さが、彼女の心をさらに固くする。静けさが欲しかった。ただ、それだけ。

「おい、待てよ! お礼もまだだ!」

 カイルの声が、静かに響く迷宮の闇に吸い込まれていく 。ルシアは、振り返らなかった 。彼女の心には、ミラの薬代と、弟妹を守らなければならないという、ただ一つの「責任」だけがあった 。そして、その「責任」の向こう側で、いつか訪れるであろう「静かな暮らし」を、彼女は夢見ていた。それは、ガラス細工のように脆く、しかし何よりも大切にしたい、家族の温もりに包まれた日々。誰かの悲鳴を聞くこともなく、血の匂いを嗅ぐこともなく、ただ、静かに、ゆっくりと時間が流れていく世界。かつて両親と共に過ごした、あの頃のような…しかし、決して戻らない、遠い日の記憶の残骸。彼女の願いは、泥沼に咲く一輪の純白の蓮のように、汚れなき輝きを放ちながらも、その根は深く、苦い土壌に張られていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ