予兆の記憶。(前編)
物語としてはインターバルなのですが、長くなってしまったので分割しました。
「トヨさま、でしょうか?」
宮殿での午後からの勤めに備えて、与えられた居室で身支度をしていたとき。
とつぜんタモカと名乗る人がやってきた。
「……はい」
「ご一緒に、お願いします」
けっして乱暴な扱いをされたわけではなかった。
けれど目の見えない自分にとって、ただ一方的に手を引かれることが怖かった。
足がすくんでしまい、とても満足に歩けない。
その様子に困惑したのか、彼はすぐに立ち止まる。
「すみませんでした。けれど時間がないのです」
目が見えないことの不自由に気づいた彼は、すぐに謝罪をしてくれた。
それから、意を決したように一歩近づいてくる。
「……失礼。つかまってください」
とつぜん自分を抱えあげ、そのまま彼は足早に進み出す。
男に抱きかかえられていることは、不思議と不快ではなかった。
少ない言葉ながら、とても急ぐ深刻な事情があるのだろうと悟れた。
なにより自分を害する気持ちを、まるで持たないことは伝わっていた。
だから、素直に身を任せるほかはなかった。
二人はいちど館を出て、また別の館に入っていく。
そこでトシゴリさまに引きあわされ、遅れてヤナテさまとイクナさまもやってきた。
「事情は後ほど説明します」
その「説明」を受けたのは、結局夜になってからだった。
ヤマトの都がどこかの軍勢にとつぜん襲撃されたこと。
ヒミコさまが大切な印璽とともに、自分を連れて脱出するよう命じたこと。
まずはキビ国をめざし、状況次第では遠いイト国に向かう予定であること。
河原でおこした火を囲みながら、トシゴリさまはひととおりを話してくれた。
「ヒミコさまがトヨさまに渡すようにと」
最後にそう言って、この小さな鏡を手に持たせてくれた。
翌日からは、ただひたすらに山中を進んだ。
自分にとっては、ただ背負子に座って荷のように運ばれていく毎日。
なにもすることのできない無力な時間のなかで、よぎるのは不安ばかり。
他の巫女たちはどうしただろう。
なによりヒミコさまは無事なのだろうか。
いくら考えても答えなどなく、ただ無為に日は過ぎていく。
惨めにすら感じる自分を慰めてくれたのは、首から吊るして懐に入れている鏡だった。
眠る前に取り出し、滑らかに磨かれた鏡面に指をすべらせるのが習慣になっていた。
(……トヨ)
驚かせぬように、労わるように、いつも静かに呼びかけてくれるヒミコさま。
鏡をなでていると、その声が聞こえるような気がした。
不安な心に、少しだけ落ち着きをもたらしてくれた。
──しかし、あの夜だけは違った。
いつものようにそっと鏡に触れると、とつぜん胸のうちへと闇が湧きあがってきた。
光を失った視界の、さらに深い奥底に、暗い奔流があふれてきた。
なにごとかと飛び起きようとする。
けれど、まるで闇につかまれかのたように、身じろぎすらできない。
ただ呆然とするしかない自分の脳裏に、なにかが映し出されていく。
それは自分がもうながく失った、風景というものだった。
しかしそこにあるのは、大切にしてきた思い出、わずかな幸福の記憶からは程遠い。
山の中、矢で射られ、剣で狙われ、槍で切り結ぶ、見知らぬ人々。
……見知らぬ?いえ違う。わたしは彼らを知っている。
矢傷から血を流し、それでも無茶をして石を投擲している人。
(あれは、きっとヤナテさまだ)
樹の間をすばやく移動し、懸命な表情で敵にたち向かう二人。
(たぶん、イクナさまとタモカさまだ)
頭上からの攻撃をとっさに剣の腹で受け、危うく死地を脱した人。
(まちがいないトシゴリさまだ)
ここまで、無力なわたしを支え、手を引き、気づかい、優しく語りかけてくれた。
いつも大切にしてくれた。
声で、肌で、気配で、なによりもぬくもりで、わたしは彼らを知っている。
さらに場所は一転し、大勢の人々が剣や槍で傷つけあい血を流す、あまりに凄惨な景色となる。
その合間に、みなの姿がまじる。
隠している痛みをこらえながら、自分をかばおうとするヤナテさま。
枯れ草をかかえながら、一刻を争うように懸命に走るイクナさま。
槍を振る手に、かすった頬に、こまかな血傷が増えていくタモカさま。
いちどでも触れれば容易に手足が千切れそうな剣を、何度も躱しつづけるトシゴリさま。
この先を、もう見たくはなかった。
訪れるかも知れない結末を知るのが恐かった。
かつて、この目が光を拒むようになった日のこと。
父が、かばった母とともに、眼の前で斬り捨てられる光景。
いまよりもっと幼かった自分の見た、忘れ去りたい瞬間。
(やめて!!)
すでに閉じられた目を、さらに固く、固く、結んだとき。
まるで意識を飲み込むようにして、闇の時間は終わりを告げる。
そのまま、深く眠ってしまった夜。
なにごともなかったかのように朝を迎え、闇に告げられた一日がはじまった。
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