怨嗟の緒。
(わたしは逃げた)
ヤマトの王都を脱出して以来、その思いはトシゴリの心の奥にずっと、重たいしこりとなってわだかまっている。
敵襲の第一報を受けてすぐさま剣を取り、急いで宮殿に向かおうとしたとき。ナシメがやってきてトヨさまと共に逃げ出すよう指示してきた。
かつて、彼に従うようにして大陸への使者という役割に就いた。無事に重責を果たし、ナシメが率善中郎将、自分が率善校尉の官位も与えられた。おたがいにそのような虚名など必要ないとうそぶきつつも、内心ではひどく嬉しかったものだ。
いずれも宮殿の門戸を守る要職である。つまりヒミコさまの側近であることを天下に宣言されたに等しい。これ以上の褒賞などあるものか。二人して、それが本音だった。
そのナシメから「おまえは逃げろ」と言われたのだ。
なぜ最後までヒミコさまの側に侍らせてくれないのか。裏切りだとさえ、トシゴリには感じられた。
しかしナシメは、国の宝である印璽と、ヒミコさまが肌身はなさず持っていた鏡を差し出し懇願した。「これらと共にトヨさまを守り抜いてほしい」と。
結局のところ、トシゴリは命令に従うよりなかった。使命の重要性を考えれば、いま王都に居る人物でふさわしい者は他にいない。
遠くから聞こえはじめた戦いの音を背中に聞きながら、彼は逃走を開始した。
(いままた、わたしは逃げ出すのか)
襲撃者たちの格好を見ると、さきほど山中で遭遇した山の民とおなじ部族に違いない。ならば目的は略奪だ。
いまは集落の城柵を挟んで押しあっているが、破られればすべての財はもちろん、命さえも奪われ尽くすだろう。
かといって自分の使命は、なによりもトヨさまを守りイト国をめざすこと。ここで安易に危険を犯すわけにはいかない。またも逃げ出すしかないのだ。
「迂回路を探すぞ」
「……はい」
そう命じたトシゴリの表情には、深い苦悶が刻まれている。その表情が持つ意味を知るからこそ、部下たちは黙って従おうとする。彼らもまた、故国を捨ててきたという罪悪感を、あらためて突きつけられていた。
そのとき──。
「見捨てるのですか?」
葛藤する彼らが呑み込んだその想いを、トヨがそのまま言葉にした。
「前方でなにか不穏な動きがあります。ここは安全のためにも近づかぬ方が良いかと」
「わたしには見えません。けれど、なにが起きているかはわかります。他国の民とはいえ、命が危険にさらされているのですよね。救けることはできませんか?」
「われわれの使命は、なによりもまずトヨさまの身をお守りすることです」
トヨの問いかけに対してトシゴリは「できない」とは答えなかった。
つまり無力さゆえに諦めたのではなく、立場ゆえに選ばされたのだ。だからいま、こんなにも思い悩んでいる。それならば……。
トヨは杖を手に立ち上がり、背筋を伸ばし、面をあげて静かに告げた。
「ならば、ヤマトの巫女として命じます。いま危険にさらされている民を救いなさい。……いえ、どうかお救いください」
このとき、草叢の中で身をかがめている兵たちは反射的に頭を下げた。その姿は、まさに神殿でかしずく者たちのように見えた。
「それは……託宣ですか?」
「はい」
トヨは迷わず肯定する。
ヤマトの民にとって「託宣」とは神の言葉に等しい。軽々しく使うことが許されるものではない。それを、よりによって彼らを危地へ向かわせるため使っている自分は非道だと想う。
けれど、いまの彼らをこのままにしてはいけないとトヨは切実に感じていた。
ここまでの行程が、どれほど過酷で、どれほど苦痛であっても、彼らは挫けずに歩を進めてきた。援けあい、支えあい、補いあいながら前を向いていた。
しかも、そうした境遇の原因とも言える自分に、彼らはいつも優しさを失わなかった。
ここで二度目の逃亡を選択してしまえば、もはや振り絞ってきた気力は続かないだろう。それは、決して望ましい結果には繋がらないとトヨは確信していた。
「……」
タモカ、イクナ、そしてヤナテの3人が、すがるような目でトシゴリを見つめる。
やがて顔を上げたトシゴリの表情からは、苦悶の表情が消えていた。
「拝受いたします」
「頼みます。トシゴリさま」
「とはいえ、この人数で加勢しても無駄に終わるでしょう。城柵を越えられる前になんとかして敵を退かせるしかありません」
「おまかせします」
撃退ではなく、退却を狙う。その方針を定め、あらためてトシゴリは周囲の地形を見渡す。
川の流れや山の形状などから目的のあたりをつけ、それぞれの兵に指示を出す。
「一刻を争う。急ぐぞ」
──それからしばらくのち。
集落の近くを流れる川の下手から煙が立ちのぼった。
「はじまったな」
毛皮の衣を着込んだ男たちの集団を見下ろしながらトシゴリはつぶやく。
5人ほどが、集落の襲撃を遠目に見ていたが、やがて煙に気づいてなにやら相談をはじめる。やがて様子を見るためか、2人が慌てて走り出していった。
「よし、いくぞ」
後ろで控えていたタモカに声をかけ、一気に斜面を駆け下りる。
手足や頭まで毛皮を着込んだ首領らしき男を自分が狙い、残り2人はタモカが得意の槍で牽制する。あらかじめ打ちあわせた手筈となるような位置取りを狙う。
重要なのは討ち取るのではなく、手傷を負わせることだ。集落を襲っているやつらを呼び寄せても間に合わない。そう思わせれば、退却を選ぶ可能性は高くなるだろう。
決して歩の良い賭けではないが、そもそもこの策を立てるにあたってトシゴリには気づいたことがあった。敵の装備が不自然なのだ。
人里との交易を嫌う山の民には入手困難なはずの鉄製武器が、ほぼ全員にゆきわたっている。それほどの準備をしたのなら、より周到に仕掛けるはずだ。
ところが実際には統率がとれておらず、各々が好き勝手に城柵に取りつこうとしていた。つまり声の届く範囲に指揮役はいない。なにか目的があったとしても、それに対する真剣さが足りていないのだ。ならば不意のできごとが起これば、襲撃そのものに執着しないのではないか。
負傷しているヤナテにはトヨさまの護衛をまかせ、足の速いイクナには枯草を集めて火を点けさせた。突然煙が上がれば、敵はそこに新たな集団が現れたと思うはずだ。
偵察に向かう動きをつかめれば、遠見している場所を特定して急襲し、慌てた敵を撤退に導くことができるかもしれない。
そう考えたのだが、煙を待つまでもなくすぐに目的の集団を発見できた。拍子抜けではあったものの、おかげであらかじめ有利な高所に潜むことができたわけだ。
「てめえら、いつのまに」
背後からの襲撃に気づいた全身毛皮の男が、犬歯を剥き出しにした獰猛な顔で睨みつけてくる。すぐさま剣を振りかぶり襲ってきた。
ぶおん、という風切音をともない恐るべき速さで襲ってくる剣先。しかし、その動きはあまりに大振りだった。剣の軌道がわかりやすいおかげで、間合いさえつかめば避けるのは容易だった。
しかもその勢いの激しさから仲間さえも加勢もできず遠巻きに立ちすくむ。すかさずタモカが間に入り、分断された相手を槍の間合いで引きつけた。
(剣よりも堅杵でも振ったほうがお似合いだな)
一合、二合と間合いを読み、四合目にして相手が振り下ろした隙に反撃を入れる。しかし、これは浅かった。
「びびってんのか。痛くもねえ突きだな」
反撃に身をよじりながら、それでも自分が圧倒していると思ったのか男は獰猛な笑みを浮かべる。
(やはり慣れないか)
トシゴリが構えているのは、反りのついた幅広の刀身に片刃の武器。いわゆる刀だ。
先の戦いで壊れた愛用の剣に代えて持ってきたが、どうやら突きには向いていない。
かつて魏から下賜された品々に二振りほど含まれていたもので、それを女王の厚意によりナシメと分けあった。日頃から腰に帯刀はしていたが、実用するには恐れ多く、戦場で革鞘から抜くのは初めてだ。
有利と感じた敵は、さらに勢いよく斬りかかってくる。
また何度かぶつかり、勢い余った相手の背中が露わになった。そこに狙いすまして刀を振り下ろす。
(こうか?)
剣のように叩きつけるのではなく、刀身の反りに合わせて流すように力をかける。すると刃は厚い毛皮ごと相手の肩口を斬り裂いた。
さすがは大陸の刀匠によるもの。正しく振れば凄まじい切れ味のようだ。
「ガダさま!」
イクナに相対していた2人が、血を流しつつ腰を落とした首領を見て叫ぶ。
「てめえ、戦いの最中にぶつくさと馬鹿にしやがって……。なにもんだ」
馬鹿にしていた訳ではないが、その膂力は脅威すぎるものの、武器の技量の面では相手にならない。おなじ山の民でも、朝に対峙したやつに比べると大きく劣っていた。
「どうする、まだやるか」
「畜生め。その顔は覚えたからな。……退くぞ!」
苦しげな声と視線には明らかな屈辱と、それに倍する怨嗟が込められていた。
仲間の片方が、腰に下げていた銅盤を激しく打ち鳴らす。
ぐわん。ぐわん。鈍く大きな音があたりに響く。おそらくは集落までも届いているだろう。
肩を借り、それでもこちらを睨みつけながら逃れていく男の姿を、トシゴリは静かに見送った。
「ほんとに逃がして良かったのですか?いっそ首を跳ねたほうが」
「ここで首領、ガダとかいったか。やつを討てば、集落を襲っているやつらが一斉に報復に向かってくるが良いのか?」
「……かんべんですね」
(まあ後をつけて探るぐらいのことはしたかったが)
この結果だけでも予想以上なのだ、それ以上はさすがに望みすぎだろう。
自戒しつつ、トシゴリは「いくぞ」と声をかける。
集落を襲っていたやつらも、どうやら散りつつあるようだ。
タモカやヤナテ、そしてなによりトヨの無事を確かめるためにも早く合流したかった。
そこでふと、ガダの落としものに目がいく。まだ鍛えられたばかりの真新しい鉄剣──。
(ほんとうに目的があったのなら、まだ終わりではないだろう)
民を救えという託宣。
トシゴリには、まだそれに応え終えた気になれなかった。