流るる雲。
とりあえず舞台は変わりますが、まだ名前だけの国や地名がでてきます。この世界の関係性がある程度書き切れるまでご容赦ください。
夜空に浮かぶ上弦の月。
冴え冴えとしたその輝きを海面は受けとめ、こまかな光の波紋を生みだしている。
イズモ国のイザサ。
巨大な内海への入口となるこの浜は、多くの船の出入りを見守り、倭の北岸に並ぶ国々をつなぐ海洋交易の拠点となってきた。
その穏やかな潮騒に耳を済ませるように、高床の神殿が佇んでいる。深い森を背に、見上げるほど高く建てられた床面。正面からは、砂浜に向かって長い階段が延ばされている。篝火によって浮かび上がる朱塗りの柱たちは、まるで星々へ手を伸ばそうとする行列のようにも見えた。
この神殿の一画に設けられた居室のなか、一人の男が窓辺に腰掛けている。左右にいちど結ったうえで肩まで伸ばした髪は艶々とし、髭は薄く丁寧に整えられている。その端正な身だしなみから、神殿の中でも位階の高い存在であることが察せられる。
「失礼します」
居室の扉を開けて、さらに一人の男が入ってきた。こちらは作業着とも思える麻の袷を直用し、髭も豊かに蓄えられている。
「フヒトか。遅くまでご苦労さま」
入ってきた男に、居室の主らしき男は優しく微笑んだ。
すぐに机の置かれた中央へと移動し、板間に敷かれた厚布に腰を下ろす。机上には、手元をほのかに照らす小さな灯明皿。胡座をかいてから手招きをし、フヒトを向かいに座らせた。
「さきほど、先日帰還した船の検分が終わりました」
「そうかい。まずは航海をぶじに終えられて良かったよ」
「懸念されていた鉄も、当初の予定通り入手でき上々の成果でした」
イズモは、倭の北岸の国々と交易するだけでなく、大陸から伸びる半島にまで定期的に船団を送り出している。安全な航海ではない。しかし外の文明からもたらされる貴重な物資、そして高い技術が、イズモという国の活力を支え、長い歴史と文化を育んできた。いま二人を照らす灯明皿も半島で買いつけられたものだ。
「それはさておき、みなはもう落ち着いたかな」
「……あの天変地異ですか」
しばらく前の夕刻、太陽が欠けていくという不吉な現象が国中で目撃された。人々は混乱し、このまま太陽が昇らないのではないかと一晩中恐れおののいたという。
「ヤチホさまがすぐに触れをだし、大陸では過去に幾度も記録されている日蝕と呼ばれる現象だと説明してくださいましたので。なにも恐れる必要はないのだと、諸官も、民もいまは安心しております」
「たいした混乱がなくて良かった。かつての大陸では、あれは王の失政に対する天の怒りだと騒ぎだす者もいたようだが」
「そのようなこと!ヤチホさまの治世に異を唱えるものなどイズモにはおりません」
冗談めかした口調だったにも関わらず、フヒトは大声で否定する。その様子から、彼がいかにヤチホという主に心酔しているかが見て取れた。
「ありがとう」
かるく微笑むヤチホの目はいつものように静かで優しく、灯火に照らされた面は神秘的にさえ映る。そんな彼に向かって声を荒げたことは、フヒトを恥じ入るような気持ちにさせた。
「さて、こんな時間に訪れてきたということは他にも報告があるんだろう?」
「はい。ヤマトでの叛乱ですが、宮殿の焼失により、やはり女王の遺体も印璽も確認できなかったようです。ただ……」
イズモでは、倭の国々にさまざまな情報網を張り巡らせている。日々の安全な交易に欠かせないものであり、他の為政者たちの想像を超える速さで各国の動きを伝えくれる。ヤマトの情勢についても、つねに継続して報告があげられていた。
「あの混乱の中から逃げ延びた者もいたようです」
「ほお」
相槌は打ったものの、ヤチホにとって驚きではなかった。あくまで防衛の隙をついた急襲であり、兵数からして王都全体を包囲できるわけもない。ならば脱出者がいるのは無理もないだろうと。
「クマノの軍勢が城柵を超える前に、高官であるトシゴリが複数の配下と共に巫女を一人連れだす姿が目撃されていました」
「危機を察した女王の手配かな。ならば印璽なども持ち出されたかもしれないね」
「おっしゃる通りかと」
「まあ、たとえ印璽があったとしても、いまの魏が動くとも思えないけど」
半島の状況についても定期的な報告を受けている。今回の船団においても、重要な目的のひとつである鉄の入手が困難になるかも知れない。そう危惧していたほど、いまは不安定な状況なのだ。
「帰還した船からの報告でも、昨年に帯方郡太守が戦死したあと、いまだ魏による半島統治は安定していると言えないようです」
「それでもイキマは内心穏やかで居られないだろうな。女王亡き後の国政に正当性を欠くうえ、イト国のニニギにでも渡れば反旗のきっかけになる」
「たしかに」
外交的にはさしたる効果がなくとも、かつて魏から認められた倭王としての立場は諸国に対して大きな威光を示す。その正当性の在処を証明するのが印璽なのだ。
「トシゴリたちがいずれイトに向かうとしても、まず目指すはキビ国か」
「いかがしましょう。東のタニハあたりから追手を向かわせますか。巫女連れの足ならば間にあうかも知れません」
「いや、兵を動かしても、その少人数を捉えられるとは思えないな」
おそらく街道を避けて山中を移動しているだろうし、ならば発見するのは不可能に近いとヤチホは思考する。
「そうだな、キビを少し突いてみれば、その者たちの動きをつかめるかもしれない」
「と、言いますと?」
「ヤマトからキビまで、すぐに兵を動員できるほど大きな国は存在しない。けれど、印璽を持つほど重要な人物が逃げ込んでくれば、それでも追撃を恐れて東に防備を固めるはず」
「たしかに」
「そこに予想外の方向から攻撃されたら、なにより先に船で逃がすだろう」
「穴海を監視しておけば、その先の行動が把握できるわけですか」
キビには、イズモと同じく天然の地形を利用した大きな良港がある。島に蓋をされた波の穏やかな湾、それを「穴海」と呼んでいた。ここを中心に、海岸線に沿って長く発展したという国の形状もイズモと似ている。
「しかしながら……」
「ヤマトとクマノの次なる目的がわかるまでキビとの衝突は避けたい、かな?」
「はい」
「ならば……、ウラの民を動かすか」
「あの怨人どもをですか?」
かつて水耕稲作の普及によって。人々は集落としての定住を始めた。多くの人手をかけるほど多くの食が確保でき、より多くの人を養うことができる。この循環は集落を邑に育て、国へと発展させた。
しかし、この流れに背を向け、平野に降りず山間に生きつづける民たちがいる。それが、ウラだった。
彼らは簒奪を厭わない。獲物が、森にあるか野にあるかの差でしかない。
とはいえ、いまや少数となった彼らでは、国という巨大な集団と正面から戦う力はすでにない。山中に一定の縄張りを守って生きのびている。
ただ狩猟で鍛えられた能力は戦において絶大であり、ときに彼らを臨時の兵として雇う勢力もあった。なにか鬱屈を晴らすような、まるで怨みをぶつけるような戦いをするウラを、人々は怨人と呼んで忌避している。
「彼らは少数だけど、山側からキビを少し混乱させるだけで良いからね。交渉役は、スクナでいいかな」
「それは、危険な役ではありませんか?」
「別に直接出向く必要はない……、といってもスクナなら行きそうだな。まあ、きっと上手くやってくれるよ」
イズモにおいてスクナは、ヤチホと並ぶ指導者だった。基本この神殿から動かずに指示をだすヤチホに対して、スクナは国中を飄々と歩きまわり、その目にした実情から策を実行する。どちらも国にとって欠かせない存在であり、その一方を危地に送ることをフヒトは心配した。
「さっそく適当な報酬に兵糧と武具も用意して、ウラに接触させてくれるかな」
「……了解しました」
しかしながら、こうした決定についてヤチホの判断はつねに正しかった。ゆえにフヒトは、求められた役割だけを迅速におこなえるよう手配の算段を考える。
さらに夜更けまで、他の細々としたことを打ち合わせてから、フヒトは席をたった。
後姿を見送ったヤチホは、ふたたび窓から月夜を眺める。外の篝火はすでに消えかけて弱々しく、おかげで星々がより輝いて見えた。
(日輪が欠けたあの日。国々を照らしてきた光は、ひとたび閉じた)
クマノが動いた。
すでにクナも呼応しているだろう。
ヤマトの半身であるイトは遅かれ早かれ反攻にでる。
そこにキビは巻き込まれるに違いない。
他にも、さまざまな国が選択を迫られていく。
──さて、イズモはどうするべきか。
この地には古くから、他とは違う役割と理がある。それは、なにがあろうと守らなければならない。国の覇権などとは無関係に、イズモは自らの路を違えてはばならない。ヤチホは、そう戒める。
(いずれ、剣と鏡と玉がひとつの手に統べられるまで、ふたたび光が射すことはないだろう)
では、その資格を持つ者は、いったいだれなのか。
少なくとも自分ではないことは、痛いほど理解している。
ならば、なぜウラを動かしてキビに仕掛けるようなことをわざわざするのか。
イズモの国主としての強大な力を、常世ではなく現世で使ってみたいという野望があるのではないか。それが許されないと知りながらも抑えきれない反抗ではないのか。
「ああ、またスクナに呆れられるな」
すでに高く昇った月に流れる雲がかかり、つぶやいたヤチホの薄笑いまで深い暗闇に沈んでいく。
まだまだ手探りなので、ご感想などいただけるとありがたいです。