エピローグ:残響
雨が降っていた。
冷たい雨音が、夜の闇に沈むビルの窓を叩く。
その音は、静寂の中に鈍く響いていた。
ユイは、事務所のデスクに座り、薄い紙の束を見つめていた。
──御影俊彦、懲役14年。
裁判の終結を記した報告書は、どこか痛々しいほど無機質だった。
ユイは、その紙に手を伸ばし、指でなぞる。
まるで、そこに刻まれた名前の持つ“重さ”を感じ取ろうとしているかのように。
「……声なき声に、耳を傾けるナリ」
そう言った自分の言葉が、ふと脳裏をよぎる。
(声なき声……)
御影俊彦は、最後まで「殺していない」と訴えていた。
彼が何を守ろうとしたのか、何に縋りたかったのか。
──それはもう、わからない。
正義は勝ったのか。
それとも、狂気が勝ったのか。
その問いに、ユイは答えを見出せないまま、息を吐いた。
「……結局、何が正しかったナリか」
重苦しい空気が、ユイの胸にのしかかる。
「ねえ、ユイ様」
背後から、静かな声が響いた。
「またそんな顔をしてる」
ルカだった。
いつの間にか傘も差さずに入ってきたのか、肩に濡れた髪が張りついていた。
それでも、ルカの表情は穏やかで、どこか満ち足りてさえ見えた。
「……なんの用ナリ」
「“声なき声”が、まだ耳に残ってるんでしょう?」
ユイは答えなかった。
「ワタクシね、思うんです」
ルカは窓際に歩み寄り、雨の降る夜を見つめながら言った。
「人って、壊れかける瞬間が一番正直……。
でも、壊れきったあとに残るものは、もっと深い“何か”があるのかもしれないって」
「……“何か”とは?」
ユイの問いに、ルカはゆっくりと振り返る。
「……後悔、かもしれない」
ユイは目を細めた。
「貴様が、“後悔”なんて言葉を口にするとは思わなかったナリ」
ルカは笑った。
その笑顔は、どこか儚かった。
「ワタクシはね、ユイ様」
ルカは、ユイの隣に座り、静かに声を落とした。
「本当は……ワタクシが壊れた人間なのかもしれない」
ユイは、ルカの顔を見た。
その目は、まるで“何か”を失い続けた人間のように、空虚に揺れていた。
「ルカ……」
「ねえ、ユイ様」
ルカはふと、笑った。
「ユイ様は壊れないでくださいね。……誰かみたいに」
ユイは、その“誰か”の正体を尋ねなかった。
──ルカが語るべき相手が、きっと存在していたのだろう。
「……貴様こそ、壊れるなナリ」
「ふふ……」
ルカの笑みは、かすかに震えていた。
「ユイ様がいるなら、壊れなくて済むかもしれません」
そう呟くルカの声は、どこか少女のように脆かった。
「……ルカ」
ユイは、黙ってルカの肩に手を置いた。
その肩は、小刻みに震えていた。
翌朝、雨は止んでいた。
御影俊彦が遺した“声なき声”は、もう誰にも届かない。
けれど、ユイの耳には、今もその“何か”が静かに響いていた。
「……人は、静かに狂う」
それでも、その狂気の先にある“何か”に、耳を澄ませるべきなのかもしれない。
ユイはそう思いながら、ルカの背中を見つめた。
その背は、どこか脆く、痛々しく、今にも崩れそうだった。
けれど──
それでも、その背中は、ユイにとってたった一つの「人間らしさ」だった。