ep1:沈黙が壊れるとき
「……御影俊彦」
薄暗い会議室の中、ユイの冷えた声が響いた。
「年齢38歳、食品加工会社の営業課長。妻、御影詩織とは結婚10年目。子供はいない。仕事は堅実で、生活は質素。借金もない……」
「ごく普通の男ですね」
書類にも目を向けずに、隣の月影ルカが呟いた。
「一見、平凡ナリ」ユイは書類を指先で弾いた。「だが、3カ月前から行動が変わったナリ」
「変わった?」
「急にジムに通い始めたナリ。40歳近くなって、今さら体づくりナリか?」
「……不自然ですね」
ルカは静かに微笑んだ。その笑みは、どこか陶酔にも似た異様さを帯びていた。
「さらに3日前、御影俊彦は自宅から1時間も離れたホームセンターでビニールロープを購入しているナリ」
ユイは淡々と続ける。
「その翌日、妻の詩織は自宅で死亡したナリ」
「ロープの購入だけでは、証拠としては弱いですね」
「それはもちろんナリ」ユイの指が資料の隅を叩く。「だが、司法解剖の結果、妻の頸部には絞扼痕があったナリ。そして、爪の間からはロープの繊維片が検出されたナリ」
「面白いですね」
不意にルカが言った。唇には、微かに冷たい笑みが浮かんでいた。
ユイが顔を上げる。
「何が面白いナリ?」
「人間はね、ユイ様。追い詰められると、自分でも信じられない行動を取るんです。普段は善人の顔をしている男が、ある日突然、狂気に堕ちる。……その瞬間が、ワタクシはたまらなく好きなんです」
ユイの目が険しくなる。
「……ルカ。ワガハイは、悪趣味な妄想を聞きに来たんじゃないナリ」
「ええ……もちろんです」
ルカの声は穏やかだったが、その笑みは、何かが狂っていた。
「事実を、きっちり証明して差し上げますから」
翌日、ユイは御影俊彦が取り調べを受ける様子を映した映像資料を見つめていた。
「……俺は、やってません」
痩せこけた顔に深いクマを刻み、御影は震える声で繰り返していた。
「俺は、そんなこと……してないんです……」
「……嘘だ」
ユイは無意識に呟いていた。
「どうしてそう思うんです?」
ルカが、顔を覗き込むように尋ねた。
「ワガハイの経験則ナリ」
ユイは画面を指さした。
「“やってない”と繰り返す者は、罪の意識に怯えている証拠ナリ」
「ふふ……さすがです」
ルカの声は艶を帯びた。
「けれど、もっと面白いのはね……」
彼女の指が、画面の隅に触れる。
「ほら、あの目……。御影は、“何か”に怯えてますよ。自分がやったこと以上の、何かに」
ユイは目を細めた。
「……ルカ」
「はい?」
「貴様は、狂ってるナリ」
ルカは、頬を紅潮させたまま、ただ静かに笑った。
「……狂ってるのは、人間のほうですよ」
その声は、どこか甘やかで、異様に楽しげだった。