第20話
十二時に時計が鳴るまで、まだ20分以上あった。
間が持たない。
「あれ、早めるとか出来ないんですか?」
和登が聞いた。
「あー。俺詳しくないから。一回壊れたら、ドイツまで修理に出さないといけないんで、触りたくないんです。」
壮太は言い訳して肩をすくめた。
ちょっと豆の焙煎具合を見て来る、と二階へ上がっていったマスターを恨む。
なんだよ、焙煎具合って。
うちは焙煎は他の店にお願いしていて、自分のところではやっていない。
和登は軽く肩をすくめた。
「まあ、いいか。コーヒーでも飲んで、ゆっくり待つか。」
カッコウ時計のカッコウを見に来たんだと聞かされて、壮太は少しあきれる。
そういえば昔、同じことがあった。
時計の窓から飛び出してくるカッコウを、まだ中学生の翔子は口を開けて見ていた。
「鳩?」
「カッコウ。ほら、胸のところに模様があるだろ。ま、ほとんど一緒だけどな。」
ブレンドを、と和登に注文されて、壮太は翔子を見る。
「注文は?」
「あのー。同じので。」
「はいよ。」
いつものブレンドとは違う、翔子用のブレンドを、サイフォンにセットした。
「あ、これママが持ってた。」
翔子は目を瞬かせる。
「どこに置いたっけ。納戸の荷物の中に、入れっぱなしかも。」
余計なことをするなぁ、と和登は思うが、喫茶店にサイフォンがあるのは仕方ない。
もし万一、記憶が戻ったとしても、翔子を渡さなければ済むことだ。
「あれは、扱いが面倒だよ。わざわざ底をアルコールランプであぶるとか。豆をかき混ぜないととか。」
「あ、そ、そうですね。」
和登の指摘に翔子は恐縮しながらも、サイフォンから目が離せない。
コーヒーが落ちてきたので、それをカップに入れて、壮太はテーブル席の二人の前に置いた。
「どうぞ。」
一口飲んだ和登は、不思議な顔をする。
「ここのブレンドは、ずいぶん軽いな。甘味が強い?」
「お好みを言っていただければ、次は調整しますよ。」
「私は、おいしいと思います。」
翔子は嬉しそうに言った。
おいしい。好きな味だ。そうだ、いつだったか好みを言って、作ってもらった味だ。
その時、ふいにカッコウ時計が鳴り始めた。
ポッポ、ポッポ。カッコウ、カッコウ。
あわてて席から立つ。
ゆっくり十二回、時計の小窓から出たり入ったり。グレーのグラデーションの体に、胸元だけ三角の模様が並んでいる。
あれは、カッコウだよ。
鳩じゃないの?と聞いた翔子に、そう答えたのは父だった。
まだ小学校に上がる前、一度だけ父と、喫茶店に入ったことがあった。
なにか父の絵の仕事のことで人と会わなくてはならなくて、近くの喫茶店を指定されたのだった。
初めて見た仕掛け時計に、翔子は感動して、11時に出てきた鳩がまた出てくるのを、さらに1時間、ずっと辛抱強く待ち続けた。
時計から三つ下がった松ぼっくりが、じりじり動くのも見た。
「サイダーでいいかな?」
とおじさんが翔子に出してくれた。
じっと時計の前に立っている翔子に、
「お父さんを静かに待てるなんて、えらいね。」
と声をかけてくれた。
その後父が死んで、喫茶店に行く機会はなくなった。
次にその時計を見たのは。
「そーちゃん。」
「・・おう。」
急に呼びかけられて、壮太はトレーを取り落としそうになる。
「この時計さ、ずっとあるよね。」
時計から目を離さずに、翔子は言った。
壮太は応じる。
「ずっとあるな。親父が新婚旅行で行ったドイツで、一目ぼれして買ったんだってさ。」
「聞いたことある。」
翔子はまだ時計を見ている。
「そーちゃん。」
「おう。」
「お昼だよ。」
「そうだな。」
「サンドイッチある?」
ランチのお店、予約してたのになぁ、と思いながら和登はキャンセルのメールをお店に送った。
翔子はどうやら、全部思い出したらしかった。
出会った頃の、ちょっと硬い感じが戻ってきている。
「よかったね。全部思いだせて。もう何も心配ないね。」
サンドイッチを食べながら和登がそう言うと、翔子は無言でうなずいた。
「映画、どうする? すこし時間をずらそうか。」
「すみません、今日はもう帰りたいです。」
「そうか。仕方ないね。」
さて、どうしたものか。
まあ、そもそも付き合ってたわけではなさそうだし、ここはさっさと撤退して、「そーちゃん」からのフェードアウトを狙うのが最善か。
「じゃあ、これ食べたら、帰ろう。」
カッコウ時計も見たことだし。
翔子は伏し目がちにうなずく。憂い顔も、やっぱり美しい。
カウンターの中で、マスターが意味ありげに壮太に目交ぜをしているので、壮太はハァと大きなため息をついた。
「なあ、翔。」
翔子はぴょこんと顔を上げる。
「そんな暗い顔すんなよ。なんだよ、何かうまくいっていないことがあるのか?」
壮太に聞かれて、翔子は言葉に詰まり、慌てて冷めたコーヒーを飲んでごまかした。
「みんな、よくしてくれるから、大丈夫。」
「じゃあ、なんでそんな顔してるんだよ。辛いことがあるんなら、言えよ。」
「つ、辛い事なんてないよ。」
「だったらさ。」
和登が手を挙げて遮った。
「お兄さんね、翔子ちゃんにかまうの、やめてくれないかな。」
カウンターから出て来かけた壮太は、立ち止まった。
「なんだよ、友達の心配しちゃダメなのかよ。」
「かまいすぎなんだって。この前も、うちの弟が翔子ちゃんに構い過ぎて、自分の彼女ともめてたからね。君だって、大学にいる彼女ともめるのイヤだろ。」
「だから、それな!」
壮太はずんずん近寄って、翔子を見た。
「俺、大学に彼女なんていねぇよ。誰がそんな出任せ言ったか知らないけど、俺、フリーだから。ていうか、翔子の事、ずっと好きだったんだけど? なんならお前の事、彼女にしたいと思ってたんだけど? お前はどうなんだよ。」




