第16話
この成績じゃすこし危ないんじゃない?と言われつつも、壮太は歩いても通える一番近い公立の高校に、進学希望を出した。翔子が進学するとしたら、おそらくそこだろうと思った。
「親孝行?」
「そんなんじゃねぇ。」
あれから二度、校内で翔子を見かけたが、いつも一人だった。アパートの前を通っても、翔子には出会わない。さすがにピンポン押すほどの勇気はない。
しかし高校入試間近になって、冬休みの間だけの塾に行った帰り道、寄り道したら翔子がいた。
一年前と同じように、暗い中、外階段に座っている。
「何してんの。」
前と同じように声をかけた。やはり返事はない。
「メロンパン、食う?」
今度は、余計な手間は省いた。翔子の表情が動いた。
「食べる。」
前の時は、あの粉々のメロンパンを受け取らせるのに、ちょっと時間がかかった。
「ん。」
しょっちゅう買って帰るので、家族にはすっかり大好物だと思われているメロンパンを差し出す。
「ありがと。」
「風邪ひくなよ。」
しかし同じ時間に行ったからと言って、そこにいつも翔子がいるわけではなかった。
曜日だ、と気が付いたのは、もう高校入試も終わって、卒業式も終わって、春休みに喫茶店の手伝いをさせられている時だった。
俺ってバカだな。
スケジュール帳を見直して、翔子に会ったのが月曜日だったのを確認した。
あー。月曜日は基本的に部活がない。塾も1回しかかぶらなかった。そりゃ会えねーはずだ。
次の月曜日に、「コンビニに行く」と言い訳して家を出てくると、やっぱり階段のところに翔子が座っていた。
「おばさん待ってるのか?」
声をかけた。
「うん。」
翔子はうなずいた。
「月曜日だけ遅いんだな。」
「うん。」
「メロンパン、食う?」
「うん。」
翔子はメロンパンを受け取ると、その場でパクつき始めた。
「あのさ、学校に空手部あるだろ。」
「うん。」
「俺の道着とか一式やるからさ、ちょっとやってみねぇ?後輩に頼んどくし。」
中学入ってから始めた空手で、去年の夏の都大会組み手の部七位に食い込んだ。黒帯や茶帯の中に一人だけ緑帯が混じったので、ちょっと騒がれた。
後輩に頼めば面倒見てくれるだろう。
翔子は結局空手部には入らなかった。そんな暇がないという事だったが、その代わりに壮太は時折アパートを訪れて、空手を教えることにした。
簡単な形、突きや蹴り。いくらか護身術がわりにはなるだろう。翔子がそれで、クラスの男子をぶっ飛ばしたことは、壮太は知らない。
その次の春。
「うち喫茶店やってんだけどさ。手伝いに来ねぇ?」
「中学生はバイト禁止されてる。」
翔子は即答だった。たぶん前にもバイトしようとしたのだろう。
「だからさ、手伝い。バイト代出ないけど、まかないが出る。」
「賄いって何?」
「スタッフ用のご飯が食べられるってこと。」
前もって、壮太は父に頭を下げたのだった。
「小遣いいらないから。店の手伝い俺もするし。何とかならねぇ?」
「ふーーーーーーーーん。」
マスターは腕組みをしながら、意味ありげに唸った。
「だってさ、小牧さん。」
「ほほぉーーーーーーーーーぉ?」
壮太の母は、こちらも意味ありげにウインクした。
「まあ、いいんじゃないの? あんた、勉強もちゃんとしてね。」
翔子は夕方の五時から七時までの二時間だけ、壮太の父の喫茶店で手伝うようになった。
亜希子が一度だけ挨拶に来たらしいが、その時に応対した父が
「スーパーのパートなんかより、銀座でホステスやった方がよっぽど儲かるだろうになぁ。」
と言って、母に怒られていた。
そんなことはもう、翔子の父が死んだときにとっくにアドバイスされていたのだ。翔子の母は美人だった。スーパーで品出ししている間にも、彼女目当ての男性客が、何人もナンパしていくような。
翔子のためにも再婚したほうが良い、と何度か勧められたのに、亜希子はそれを全部断ったらしい。
「パパの絵に価値が出た時、翔子がそのお金を受け取れなかったら困る。」
と言っていたと、後で翔子から聞いた。
そんなの価値が出れば、の話じゃん、と壮太は思ったが、亜希子には亜希子の思う所があったのだろう。
とにかく、翔子は毎日喫茶店の手伝いにやってきて、食器洗いとか掃除とか一生懸命やって、帰りにマスター特製サンドイッチを食べて帰るようになった。
うちはコーヒー屋さんだ、というマスターの信念のもと、最初は本当にコーヒー専門店だったのだが、それではやっていけないというので、だんだんソフトドリンクを置いたり、サンドイッチやホットドッグ、スコーンなどの軽食も出すようになった。
夜の七時にそんな軽食を食べにくるお客もいないから、余っていたらどれでも食べてよかった。
ただし、壮太が高校から帰ってくるのは、部活終わって七時とか七時半とかだったし、家は喫茶店から少し離れていたから、翔子とはほぼ入れ違いだった。むしろ会えなくなった。
翔子は、マスターとはどんどん仲良くなっていったのに、壮太の事は「メロンパンのお兄ちゃん」からほぼ変化なしだった。
「あーつまんねぇ。」
壮太がぼやくと、母は
「あんたも報われないわね~。」
と笑った。
その後、翔子は高校生になって、きちんとバイト代が出るようになり、接客もするようになる。
壮太が改めて翔子とまた話をするようになったのは、マスターがぎっくり腰をやったせいで、喫茶店を手伝わざるを得なくなった大学一年の夏休みからだった。
「翔子ちゃんに会いに行ってきなさいよ。」
母が夕食時に、そう言った。
「え、いいの?」
壮太が聞くと
「あしたから私、夏休みだから。あんたにばっかり喫茶店手伝わせるの、悪いでしょ。康太もいるし。」
「えー。バイト代だしてくれよー。」
弟がブーブー言うのにひと睨みくれると、母はマスターが作ったハンバーグを箸で切って、一切れ口に運んだ。
「ちゃんとケータイ充電しておくように、説明するのよ?翔子ちゃん、ちょっと浮世離れしたところあるから。」
「分かった。」
壮太の声が跳ねた。
さっそく明日の天気をスマホで調べ始めた息子に、
「今はやめなさい。」
と母はたしなめた。
夏休みに入ってからおとなしかった息子が、やっと元気になったようだ。よかった。




