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第1話


翔子ちゃん、と呼ばれた子は、はい、と返事して立ち上がった。

「あのー、まだ理解が。」


 一年ほど寝たり起きたりを繰り返していた母が、とうとう儚くなってから一か月。

近所の人たちに助けられて、お葬式を上げて、しばらく茫然としていたが、ふと

「私が死んだら、この人に連絡して。」

と弁護士の名刺を渡されていたのを思い出した。


 それまで全然聞いたことのない名前だったので、電話をかけるのに3日ほどためらい、でも母の遺言だし、と思い直して、連絡を取った。

 その日のうちに、その名刺の弁護士がやってきた。

「弁護士の木村です。」

渋いおじさんは、母が持っていたのと同じ名刺を出した。

「はい。」

翔子はそれを受け取って、おんなじだなぁ、と見比べた。

「佐藤亜希子さん、つまりあなたのお母さんから、遺言とその執行について委託されています。」

「はぁ。」

まあ、二年前から具合が悪かったから、準備の期間はあっただろうな、と思う。

でも、そんなに貯金とかなかったはずだ。

ちっちゃいアパートに娘と二人で住み、近所のスーパーで朝から晩までパートしていた。


 「あの、借金とか?」

恐る恐る聞くと、木村弁護士は目をパチパチさせて破顔した。

「いやいや、金銭面での心配は無用です。それよりも、あなたに伝えなくてはならない事があります。まず、佐藤亜希子さんには兄弟がいます。あなたのおじい様、おばあ様もご健在です。」

「は。」

翔子はびっくりして、こちらも目をパチパチさせた。

「親戚はいないと聞いていました。」

「連絡を絶っていらっしゃったので。まあ、最初から説明するので、座りましょうか。」

 そう言われたら、中に入れない訳にいかない。

 まあ、弁護士だし大丈夫だろう。

 小さなダイニングテーブルに、向かい合って座る。


「ええと。そもそものあたりからお話しします。」

「はぁ。」

「佐藤亜希子さんは、旧姓藤沢亜希子さんと言います。佐藤優仁さんと駆け落ちしたために、ご実家と疎遠になられました。」

「駆け落ち。」

なんだ、そりゃ。

そんなダイナミックな単語、実人生で聞いたのは初めてだ。

木村弁護士は咳払いをして、話を続けた。


「今から二十四年前の話になります。亜希子さんは高校の交換留学生としてロサンゼルスに滞在していたそうです。そこで、路上で絵やアクセサリーを売っている佐藤氏に出会った。亜希子さんは指輪を買ったそうです。

 その時はそれだけでしたが、その後三年ほどして、二人は東京で再会したそうです。」

「ああ。その辺はちらっと聞いたことがあります。」

 運命の出会いだったのよ、と母は言っていた。

 とにかく父は、めちゃめちゃ男前だったらしい。母は猛アタックして父と付き合い始め、その後結婚した。

 しかし駆け落ちとは知らなかった。

「佐藤氏は、その時も路上でアクセサリーを売っていたそうです。亜希子さんもまだ女子大生だったので、ご実家の方も、まさか本気で結婚したいと言い出すとは思っていなかったとのことです。」

「はぁ。」

女子大生。

「亜希子さんの方も、大反対されてムキになったなったんでしょう。ある日お財布だけ持って、いなくなってしまった。」


 翔子は絶句して、まじまじと弁護士の顔を見つめた。

「で、駆け落ち?」

「まあ、そんなところです。」

しばらく沈黙が流れた。

父の写真はあまり残っていない。何枚かあるにはあるが、髭面で髪もボサボサ。イケメンには見えない。

売れない画家だった。

翔子が小さい頃、路上売りの際に雨に降られ、肺炎を起こしてあっという間にこの世を去った。

亜希子と翔子を描いた油絵など、何点かまだ残ってはいる。愛にあふれてはいるが、上手いかは分からない。


 「それでですね。」

弁護士は言葉を継いだ。

「近年体調を崩していた亜希子さんは、先日私の方に連絡をしてこられて、何かあった時はあなたを頼むと言い残されました。」

「は。」

どういう関係なんだろう。

「私は、亜希子さんのご実家の顧問弁護士をしております。」

顧問弁護士。

「ご実家の方も、亜希子さんが出て行かれたことを後悔なさっていて、ずっと探しておいででした。近々対面なさる予定でした。」

「はぁ。」

もう、はぁしか出てこない。

翔子は立ち上がった。

「ちょっとコーヒーでも入れます。」


 母はコーヒーの味にうるさかった。温度や淹れ方に気を配り、狭いキッチンなのにサイフォンも置いていた。

 ここしばらくは出番がなかったが、頭を整理するため、わざと引っ張り出してきた。


 お湯を沸かしながら、コーヒー豆をゴリゴリ挽き、一つずつ考える。

 とにかく初めて聞く単語が多すぎた。


 まず、父と母は駆け落ちだった。

 確かに母は世間知らずのポヤポヤお嬢という感じはしていた。

 結婚前の話は聞いたことがない。

 小学校で、「敬老の日におじいちゃんおばあちゃんにお手紙を書きましょう」みたいなイベントでも、「あなたのおじいちゃんおばあちゃんはもう亡くなったしねぇ~」とやりすごしていた。

 母がいつも話すのは、結婚生活がいかに幸せだったか、という事だけだった。

 しかし今聞いたところだと、実家はどうもなかなかの金持ちらしい。


 顧問弁護士!

 弁護士ってあれだ。三十分の相談で、五千円とか取られるやつだ。

 時給でいちまんえん。

 ふおおおお。

 今行っているバイト、高校生は時給1100円だよ。


 ま、それは置いといて。

 母が幸せだったら、それはそれでいい。で?

 死んだ後の事は、親戚にお任せと。

 うーん。金持ちの親戚。なんか嫌な予感しかしない。


 豆をセットして、コーヒーが落ちるのを待つ。

 カップを二つ温めて、コーヒーを注いだ。


「えーと。それで。もうお葬式も終わってしまいましたけど。親戚の人と対面とか、どうするんですか?」

「そうですね。もうそろそろこちらに着く頃ですが。」

「えっ!今日?」

 コーヒーをこぼしそうになる。

「ここに?」

「亜希子さんのお姉さんですよ。会えば分かります。」

 ここに来るったって、ダイニングの椅子は二脚しかないし、この三畳ぐらいの部屋に大人三人は、人口密度が高くて息苦しくなりそうだ。

 隣の和室は、自分の勉強机と箪笥と敷きっぱなしの布団とで、見せられたものではない。

 母が生きていた時は、そこにもう一枚布団を敷いていた。

「ホントにここに来るんですか?」

「まあ。」

 木村弁護士は、部屋を見回した。

「すぐ引っ越すことになりそうですが。とりあえず今日はここに来られます。」

「はああ。」

 ピンポーンとドアチャイムが鳴った。

「私が出ましょう。」

 木村弁護士が立ち上がる。

 ドアを開けた。


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