物語は始まらずに終わる
ブロイス帝国、その首都ヴェリビリ。
西方世界屈指の大国の、世界有数の大都市の南西の一角を、帝国が誇るヴェリビリ帝国学舎の広大な敷地が占めている。
その中心部に位置する中央教棟。その二階の廊下を、ひとりの女子生徒が歩いていた。栗色のふわふわした豊かな髪と澄んだ翠玉の瞳の彼女はずいぶんと可愛らしい、万人に愛されそうな見目の良い少女だ。
歩いていた、とだけ言うのはやや表現が不適切であろうか。
というのも彼女はまるで、忍び込んできたかのように足音を立てないようにそろり、そろりと歩いているのだ。
幸か不幸か、彼女以外に人の気配はない。放課後の、終業からやや時間の経った教室のない階なのだから無理もない。
ではなぜそんな階に生徒である彼女がいるのかと言えば。その答えはすぐに判明する。
彼女の向かう先、廊下の突き当りにひときわ豪奢な扉が見えてくる。生徒会の執務室だ。放課後のこの時間、普段通りならば生徒会の役員である上級生たちが室内で学園内の様々な執務をこなしているはずである。
今代の役員は優秀な美男美女揃いだと評判だ。会計は平民だが国内最大の大商会の会頭の子息、書記は王宮近衛騎士団長の次男で、自他ともに認める脳筋だが字は美しい。総務は宰相の三男で、トラブル対応にかけては学園内で右に出る者はいない切れ者だ。
そして副会長は第一皇子の婚約者である公爵家令嬢、生徒会長はその第一皇子だ。全員が15歳の3年生で、女子生徒のひとつ歳上。女子生徒は14歳の2年生である。
だがこの時間、執務室には第一皇子しかいないはずだ。総務の宰相子息が気を回して他のメンバーを連れ出してくれる手はずになっている。この階の人払いは書記の騎士団長子息が請け負ってくれたし、会計の大商会御曹司は執務室を訪ねる名目である書類を用意してくれた。
全ては、彼女の望みを叶えるためだ。
「あそこに、皇子がいらっしゃるのだわ」
ここに来て初めて彼女は声を出した。誰にも聞かれないよう小さく呟かれただけだが、その声には確かにある種の熱が籠っていて、吐かれた吐息とともに彼女の頬がかすかに赤く染まる。
「待っていてね、私の“運命”」
続けてそう呟いて、彼女は歩みを進める。
一歩一歩、気配と足音を殺して、着実に。自らの望みを叶えるために。
そうして、遂に彼女は生徒会執務室の扉の前にたどり着く。この扉を開ければ、そこには見目麗しい第一皇子ハインリヒ様がいらっしゃる。
きっと彼も、私のことを気に入ってくれているはずよ。だって出逢いのイベントは終えているし、反応が良かったからすでにフラグは立っているのだから。
彼女は扉のノブに手をかけた。
力を込め、遂にそれを回した。
回そうとした。
突然背後から、彼女の口元を何者かの手が塞いだのはその時である。
それまで廊下には誰の気配もなく、途中の扉も窓も一切開いてはいない。なのにその手は忽然と現れた。口を塞がれるまで彼女には何の気配も察知できなかった。
「……………ん゛っ!?」
その手は柔らかいハンカチのような布を持っていて、それで彼女の口だけでなく鼻も一緒に覆っていた。あまりに突然のことで彼女が息を呑むが、口を塞がれたせいでくぐもった息が漏れただけで、悲鳴のひとつも上げられなかった。
と、突然、彼女の全身から力が抜けた。
ぐったりとして崩れ落ちる彼女の腰を、またしても後ろから逞しい腕が抱き留める。
彼女の背後に忽然と姿を現したのは学舎の制服を着た少年だった。黒茶色の髪に黄土色の瞳の、なんら目立つところのない平凡な容姿の少年は、表情もなく無言のままで、彼女を抱えたまま現れた時と同じように忽然と姿を消した。
そして、廊下には静寂だけが残された。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
それからしばらく経って、生徒会執務室にやって来たのは三名の少年たち。
総務と書記と会計だ。
三人はノックして許可を得てから執務室内に入ったが、そこに生徒会長ハインリヒ皇子とヴィルへルミナ副会長しかいないのを見て訝しげな表情になる。
そう。最奥の会長専用の執務机に陣取って書類に目を落とす生徒会長の他には、その手前にある自分の執務机に向かう副会長の姿があるだけだ。
「会長」
「なんだ?」
「ここに女子生徒が来ませんでしたか?」
「いや、諸君らが来るまで誰も来ていないが?」
総務の質問に、会長は否と応える。
事実、執務室には誰も訪れていない。扉を開かれることもなく、誰にも邪魔されずに会長と副会長は執務に集中することができていた。
「誰か来る予定でもあったのか?」
「い、いえ…………」
「ならば問題ないだろう?」
「2年の女子生徒が陳情に来るらしい、って僕は聞いてましたけど」
「そうなのか。だが現実として来てはいないぞ?」
口ごもる書記に会計が助け舟を出すも、来ていないと言われればそれまでだ。
「まあ、今日ではなく明日来るつもりなのかも知れませんけど」
「そうかも知れんな」
会計は精一杯のフォローのつもりだったが、会長はにべもない。
「ところで、今日の執務はもうあらかた済んでいるが、君らは今まで何をしていた?」
会長が僅かに顔を上げて三人を睨めつける。本来なら役員全員で片付けるべき書類を、この日は会長と副会長だけで処理したのだ。会長としては恨み言のひとつも言いたくなるというものだ。
「もっ、申し訳ございません。ちょっと所用がありまして」
「お、俺も……すいません」
「僕も、実家から使いが来ちゃって。ごめんなさい」
「そうか。まあそういう事なら仕方ないな」
慌てた様子で頭を下げて口々に詫びる三人に、興味なさげにそう返すと会長は彼らから目線を外した。
「ともあれ、今日の執務は終わりだ。諸君ももう上がってよろしい」
そして感情の乗らない声で、彼らにそう告げた。
「……は。ではこれで失礼します」
「申し訳ありません。お先に」
「今日の分は、明日ちゃんとやりますから」
三人は口々にそう言い訳しながら、頭を下げて執務室を後にして行った。
「彼らにも困ったものですわね」
彼らが出て行った後、再びふたりきりになった執務室で、それまで一言も口を開かなかった副会長、第一皇子の婚約者ヴィルへルミナが初めて言葉を述べた。
「まあ、使えない者は切るだけだがな」
応える会長、第一皇子ハインリヒの言葉には、相変わらずなんの感情の色もなかった。
「やはり、私の頼りとするのはそなただけだなウィルマ」
「まあ。そのようなお戯れを仰られては困りますわハインさま」
一転して甘い熱のこもった言葉と眼差しを向けられ、愛称で呼ばれてヴィルへルミナは頬を赤らめつつ、やはり愛称で返答する。
ふたりは見つめ合い、微笑みを交わし合う。第一皇子と婚約者の仲は、どうやら変わらず睦まじいようである。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
翌日。
帝国学舎の職員室前の掲示板に、一枚の紙が掲示されていた。そこに生徒たちが群がって、その内容に一様に驚いてヒソヒソと声を交わし合っている。
紙にはただ、四名の生徒が退学処分を受けたという事実が書かれているだけだったのだが、処分を受けた生徒たちが異例だったのだ。
『通告
以下の者を退学処分とする
生徒会総務
コンラーディン侯爵家三男ルイス三回生
生徒会書記
ギーゼン伯爵家次男カール三回生
生徒会会計
ローゼンタール商会会頭子息ユリウス三回生
シェーファー男爵家息女ヨゼフィーネ二回生』
理由も示されずに生徒会役員が三名も一度に退学になるなど異例も異例。この掲示で初めて知った生徒たちは一様にざわめいているが、昨夜のうちに情報を得ていた目敏い貴族家の子息や息女たちは、確認だけに留めてそそくさと掲示板を離れてゆく。
「この、ヨゼフィーネって二年生は誰だ?」
「ほら、アレですわよ。男子生徒の皆様に誰彼構わず粉をかけてた、あの」
「………ああ、アイツか」
男爵家令嬢については多くの者が納得である。だが生徒会役員に関しては、理由を正確に把握している者の方が少数派であった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「それで、どうだ?吐いたか?」
「いえ、それが訳の分からないことを口走るばかりで……」
首都ヴェリビリの、皇城にある第一皇子の執務室。そこで第一皇子ハインリヒは配下の“影”からの報告を受けていた。
「どうやら他国の関与はなさそうなのですが、なにぶんにも供述の意味が不明で」
皇子の手元の報告書には、皇城地下牢の取調室で男爵家令嬢ヨゼフィーネが語ったとされる内容が詳細に記されていた。
曰く、私は乙女ゲームのヒロインで、攻略対象はみんな私を好きになる。
曰く、私は転生者で、乙女ゲームのシナリオも全て知っている。
曰く、私は最終的には第一皇子殿下と恋に落ちて妃になる。
曰く、そのためには婚約者のヴィルへルミナ様が邪魔になる。彼女は悪役令嬢だ。
曰く、最終的には学園の卒業パーティーで殿下が悪役令嬢を断罪してハッピーエンドになる。
曰く、悪役令嬢は断罪によって惨めに破滅して国外追放になる。
などなど。
「なるほど、確かに意味が分からないな」
「それで、その攻略対象というのが………」
「あの三名と私、というわけか」
「どうやらそのようで」
バカバカしい、とハインリヒは報告書を執務机の上に放り出した。本当にこんな事を言っているのなら気が触れているとしか思えない。
「あいつらの方はどうだ?」
「そちらは、どうやら単純に女に誑かされただけのようで」
「全く、嘆かわしい。あれらにもそれぞれ婚約者がいただろうに」
「その婚約者の各家はすでに婚約の破棄を通告したと」
「当然だろうな。帝室令で彼女らに瑕疵がないことを周知しておけ」
「はっ」
一礼して、そのまま“影”は音もなく姿を消した。
ブロイス帝国が誇るヴェリビリの帝国学舎は所属生徒の平等を謳っており、表向きは平民も貴族も皇族も等しく扱われる。だがそれでも貴族の序列が消えてなくなるわけではないし、学舎の敷地から一歩でも外に出れば社会規範に従わなければならない。
そのことを暗に示すため、学舎に通う貴族家の子女が寮に帯同できる侍女の人数が明確に決められている。公爵家と侯爵家は最大3名まで、方伯、辺境伯、伯爵家は2名まで、子爵家以下は1名しか認められない。
そして皇子や皇女が在籍するとなればまた話が変わる。帯同できる侍女の数に制限はなく、さらに護衛として“影”も付けられる。学舎自体に専属の騎士団があり厳重に警備されているのだが、その上さらに皇子や皇女の身辺警護のためだけに、皇族直属の“影”が配置されるのだ。
その“影”は暗部の者ゆえ、その人数も正体も明かされることは決してない。だが影に日向に、あるいは物陰に潜んで、あるいは教職員や生徒に紛れて常に皇子皇女に付き従い、いついかなる時も決してその身辺を離れることはない。
そして“影”は皇子の婚約者、つまり将来的に皇族の一員として迎えられるはずの令嬢にも少数ながら配される。つまり、第一皇子と婚約者付きの“影”たちは最初からヨゼフィーネを監視し、彼女の行動の全てを見ていたのだ。
“乙女ゲームのヒロイン”を自称するヨゼフィーネは、その“影”に皇子に近付く危険人物と判断され、人知れず排除された。
そうなるのも当然である。何か事が起こってからでは遅いのだから。
そして今、彼女は皇城の地下牢で厳しい拷問を受け、背後関係を厳しく詮議されている。同時に彼女の実家である男爵家にも捜索の手が入り、父の男爵以下関係者が軒並み捕縛されていたのだった。
本来は不審人物を遠ざけるべき側近候補の三名も、果たすべき役割を果たせなかったとして処分された。皇子の側近くに仕えながら、かの娘のごとき不穏分子に入れ上げるなど言語道断。そんなことでは将来、他国の仕掛けたハニートラップにかかって国家に重大な損失をもたらしかねない。そのような側近候補など不要である。
そして彼らの実家も子息の育成を失敗したとして処罰された。宰相と近衛騎士団長は職を辞し、商会頭はその地位を腹心の副会頭に明け渡した。いずれも理由は一切示されず、だが誰からも反対の声は出なかった。
新たな生徒会役員は処分の翌日には選任され、帝国学舎の生徒会は今日も何事もなかったかのように執務をこなしてゆく。“影”たちの業務報告は本日も一言だけ。
『本日も特に異状なし』と。




