初恋とチョコレート
ピアノの鍵盤からクロードの指が離れる。
「今日はここまでにしておきましょうか」と、オフィーリアは言った。
「そうだなー。今、何時?」
クロードは椅子から立ち上がるとぐっと伸びをした。オフィーリアは壁掛け時計に目をやる。
「10時です。夕食のあとから弾き始めたから、もう3時間近く練習していたんですね」
クロードは苦笑しながら、ペンでびっしり注意点やアドバイスを書き込んだ楽譜を閉じて椅子の上に放った。
「その割には全然うまくならないけどな」
「そっ、そんなことないですよ! 最初の頃とは比べ物にならないくらい上達してます!」
クロードはおどけた調子で「なら、この調子で練習続けたら、いつかは国音のピアノ科に入れる?」
「ええと、それは⋯⋯」
「はは、冗談だよ。幼少期から散々英才教育を受けておいてこんなレベルじゃあ国音に合格するなんて夢のまた夢だろ?」
その通りだ。オフィーリアは気まずそうに視線を泳がせた。
クロードにピアノを教えてほしい、と依頼されたのは、ムゼッタと友達になった翌日のことだった。
きっかけはレプリカントの操縦などについて教えてもらうばかりで心苦しいオフィーリアが、わたしにも何かできることはないだろうか、と訊ねたことだ。それからは空いた時間を見つけてはクロードにピアノのレッスンをしていた。
「それにしても、オフィーリアはピアノも上手いんだな。教え方も、今までのどの講師よりわかりやすいよ」
「ど、どうもです。入試は専攻の他に副科にピアノもあるので」
「オフィーリアがこれだけ弾けるなら、ピアノ専攻の人たちはもっとすごい?」
「それはもう、次元が全然違いますよ。わたしなんかと比べるのは失礼なくらいに」
「そうか。やっぱりおれに国音受験は無理かー」
今度はオフィーリアが苦笑する番だった。
十数年のブランクがある上、音楽や楽器に苦手意識を持つクロードにピアノを教えるのは、思っていた以上に根気のいる作業だった。練習を始めてから数分で気分が悪くなってしまうクロードが、初級者向けの簡単な練習曲を止まらず最後まで弾けるようになったときは、それはもう感涙ものだった。
「でも、どうしてまたピアノを弾こうと思ったんですか?」
クロードの頬がほんのり色づく。
「⋯⋯ファゴット吹いてるときのオフィーリアがすごく楽しそうだったから」
「えっ、それは⋯⋯⋯⋯ありがとう、ございます⋯⋯」
オフィーリアが嬉しいやら恥ずかしいやらで、むずむずする表情筋と戦っていると、ポケットから電子音が聴こえた。
「すみません。サイレントにするの忘れてて。すぐ切りますね」
「え? あっ、ああ! いいんだ。おれに構わず出てくれ」
「? じゃあちょっと失礼しますね」
端末の画面にはムゼッタの名前があった。通話ボタンを押すと、焦ったようなムゼッタの声が耳に飛び込んできた。
『やっと出た! フー、今どこにいるの!』
「ど、どうしたんですかムゼッタさん。そんなに慌てて」
「誰?」クロードがこっそり訊ねる。
「お友達です」オフィーリアは小声で答えた。
『ねえ、質問に答えて。どこにいるの?』
「く、クロードさんの部屋です」
『クロード?』ムゼッタの声音には険があった。『もしかしてクロード・デュトワのこと?』
「そうです」おどおどしながら答えると、ムゼッタの雰囲気が変わった。
『――待ってて、すぐそっちに行くから』
「えっ、ムゼッタさん? ……切れちゃった」オフィーリアは暗くなった画面に首を傾げる。
「どうした?」
「あの、ムゼッタさんがこっちに来るって」
突然鳴り響く激しいノックの音に、オフィーリアとクロードは無言で戸惑いの視線を交わした。ムゼッタが来たのだろう。
クロードが出入り口のロックを解除すると、ムゼッタはオフィーリアの元へ駆け寄り抱きしめた。頭を撫で、頬ずりし、着衣の乱れがないか確認しながら訊ねる。
「フー! 無事だった? 変なことされてない?」
「へ、変なこと?」
「よかった。まだ何もされてないみたいね。心配したのよ。あたし、フーの部屋の前でずっと待っていたの。それなのにいつまで経っても戻ってこないから。⋯⋯無事で良かったわ」
安堵のため息と共にそうつぶやくと、ムゼッタはオフィーリアの肩に顔を埋めた。うなじは薄っすら汗ばんでいたし、ムゼッタの身体から伝わる鼓動は早かった。それだけ自分を心配してくれたのだと思うと、申し訳なさと同時に、胸から指先にかけて温かいものが広がった。
「ところで、」ムゼッタは顔を上げると、状況が理解できず立ち尽くしたままのクロードに目を向けた。
「どうしてフーがデュトワのお坊ちゃんなんかの部屋にいるわけ?」
「あっ、それはクロードさんがわたしの」
「エベールのくそったれから助けてやってる見返りに付き合えとか要求してんじゃないの? やだやだ、これだから士官学校卒のエリートは嫌いなのよね!」
「ムゼッタさん!」オフィーリアは思わず声を荒げた。「そ、そういう言い方は、や、やめてください! クロードさんはわたしの友達です! わたしにレプリカントの操縦を教えてくれていて、そのお礼にピアノのレッスンをしているんです!」
ムゼッタとクロードが目を丸くするが、一番驚いているのはオフィーリア自身だった。
(どうしよう、怒鳴ってしまった。ムゼッタさんは何も知らなかっただけなのに、わたしを心配してくれただけなのに)
「――ごめんなさい!」
ムゼッタは沈黙を切り裂くように叫んだ。クロードに向かって床に膝と両手をつき、額を擦りつけるように頭を下げた。突然の訳のわからない行動にオフィーリアは狼狽えた。
「あたし勘違いしてたわ。てっきり脅されていいようにされているのかとばっかり」
謝罪するだけなのに、ムゼッタはどうしてこんな珍妙なポーズをしているんだろう。オフィーリアは首を傾げた。そうされていると、こっちが悪いことをしているような気持ちになってしまう。
「もういいから頭をあげて」クロードは言った。
その言葉にぴくりと反応を示したムゼッタは、顔色をうかがうようにそっと頭を持ち上げた。
クロードは片膝をついてムゼッタへ手を伸ばす。わざとらしくなく、しかし上品な所作だった。育ちの良さが滲み出ていて、自然にこういう対応ができるクロードに対して、オフィーリアは感嘆した。
ムゼッタは差し出された手と微笑みを浮かべた顔を何度も見比べて、おそるおそるその手を取った。
「あ、ありがとう……」ムゼッタは消え入りそうな声で言った。
耳まで赤く染まっていて、赤毛と同化してしまいそうだ。
不意にガン、と金属音が響いた。
なんだろう、と視線を下げたオフィーリアの口元が引きつる。
「これは、」クロードがそれを拾い上げた。
レンチだった。細かい傷だらけでよく使い込まれているのがわかる。これで殴れば、たとえ女性の力でも十分な殺傷力がありそうだった。
「これいいな。強そうだ」クロードはからからと笑った。
「でしょ?」ムゼッタは軽く胸をそらしながら得意げに言った。
クロードがそれを軽く振ると風切り音がする。
その恐ろしい得物は自分を撃退するために持ってきたというのに、当の本人は子どものように邪気のない笑顔でレンチを弄びながら、それの威力や有用性について喋っている。物騒な話題なのにふたりとも楽しそうだ。
初めは剣呑とした雰囲気を纏っていたムゼッタも、今では「クロード」と親しげに呼んでいる。クロードの人当たりの良さに当てられてすっかり打ち解けているようだった。
ひとり蚊帳の外に置かれたオフィーリアは口元に手を当てて微笑んだ。一時はどうなることかと思ったが、ムゼッタもクロードも大切な友人。そのふたりが親しくなって嬉しくない訳がない。
再び時計に目をやるともう11時過ぎだった。急に眠気が押し寄せてきてあくびをすると、クロードとムゼッタはようやくオフィーリアの存在に気づいた。
「ごめんね、フー。つい話し込んじゃって。そろそろ戻ろうか」
「そんな、わたしのことはいいんですよ。お構いなく」
「いや、明日も早いし部屋に戻ったほうがいい。――オフィーリア。これ、よかったら食べて」
クロードはそう言いながらきれいな包装紙とリボンでラッピングされた、円形の包みを差し出した。
「チョコレートだよ。前に君が好きだって言っていた店の。この前実家から連絡があって、そのときピアノを習っていると話したら両親が狂喜乱舞してさ、レッスンのお礼に、と送ってきたんだ」
「わあっ、嬉しいです! あの、ありがとうございます、と伝えてもらえますか」
「わかった。それと、」
クロードは屈むとオフィーリアの耳元に唇を寄せた。「優しい友達ができてよかったな。おやすみ」
オフィーリアははにかみながら、「はい、おやすみなさい」と返してムゼッタと共にクロードの部屋を後にした。
閑寂とした廊下にふたり分の足音が響く。
オフィーリアは横目でムゼッタの様子を伺い見る。彼女の先ほどから様子がおかしいのだ。
ムゼッタは眉間にはシワを寄せ、顎には手を当てて、「でも」や「いやいや、そんなはずは⋯⋯」のような意味の通らない言葉をつぶやいている。
そんなムゼッタの頬はまだ赤みを失っていない。そういえばクロードと話している最中もずっと赤らんでいた。
「ムゼッタさん。あの、体調が悪かったりしませんか?」
「どうして?」ムゼッタはきょとんとした。
「クロードさんと話しているときからずっと顔が赤いから、もしかして熱があるのかと思って」
「そ、それは⋯⋯!」
ムゼッタはオフィーリアの手を払いのけると、ぺたぺたと両手で皮膚の温度を確かめる。
「違うの! あたしは別にクロードのことなんて」
「き、嫌い、ですか⋯⋯?」
オフィーリアが悲しげに訊ねれば、ムゼッタは腕を組んで唇を尖らせた。
「そんなんじゃないわよ! お坊ちゃんのくせに意外と話がわかるし、気取った感じもないし、すごーくいい奴だった。あたし、偏見で目が曇っていたわ。反省しなきゃ」
「よかった。ふたりが仲良くなってくれて、わたしも嬉しいですから」オフィーリアはにこにこしながら言った。
ムゼッタの顔がますます赤く染まる。
なんだか様子がおかしいような気もするけど、これ以上は触れないほうがいいと直感し、自室のドアに着くまで口を閉ざした。
「あ、そうそう。大事なことを忘れてたわ」
解錠しようとした瞬間、ムゼッタはぽんと手を叩いた。
「やっと今年新しく入ったパイロットの人数分のレプリカントが用意できたのよ」
ムゼッタの言葉の意味をのみ込めず、オフィーリアは首を傾げた。
「だーかーらー、パイロット一人ひとりに専用のレプリカントが与えられるってこと!」
「え、パイロットってそれぞれに専用の機体が与えられるんですか?」
「当たり前じゃない。フーの大好きなファゴットで例えてみなさいよ。ファゴットを仲間内で使いまわしたりする? みんなそれぞれ自分にあった楽器を持ってるでしょ?」
「そ、 それはそうですけど…⋯⋯」
オフィーリアは戸惑いながら目を伏せた。
理屈は通っているが、だからといって不安がなくなる訳ではない。
楽器とレプリカントを一緒にされても困るし、技術も知識も圧倒的に劣っている自分が専用の機体を与えられても、うまく扱える自信がない。すぐに壊す自信ならあるが。
暗い思考にどっぷり沈み込んでいると、視界が赤に覆われた。
「なーに落ち込んでるの」
ムゼッタはオフィーリアの肩に腕を回してぐっと引き寄せた。
「そうやってすぐ悪い方向に考えるのはフーのよくない癖よ。大丈夫、フーはひとりじゃないわ。あたしやクロードがついてるじゃない。なんとかなるわよ」
「む、ムゼッタさぁん⋯⋯」
ムゼッタの言葉に思わず涙ぐむと、泣き虫ね、と笑われた。
「多分、明後日には与えられると思うわ。じゃあね、おやすみなさい」
「は、はいっ。おやすみなさい」
オフィーリアはムゼッタの後ろ姿がすっかり見えなくなるまで見送ってから部屋に入った。
ソファに座り、少し考えてからチョコレートの箱のリボンを解き、包み紙を取った。
思わずわあ、と声が出る。透明な円柱形の箱には一粒一粒、カラフルなセロファンで個包装された大好きな銘柄のチョコレートが詰まっている。
試しに一粒食べようかと手に取った。チョコレートの甘い香りが鼻腔をくすぐられうっとりするが、ぐっと堪えて箱に戻した。
こんな素敵な贈り物をひとりで食べてしまうなんてもったいない。