ムゼッタ
検査の結果、幸い骨や内臓に損傷がないことがわかった。それでもオフィーリアの白い腹部には、自分でも目を背けたくなるほどの痛々しい痣が広がっている。時間が経つにつれて、張り倒された頬も変色し腫れ上がった。
何よりショックだったのはナイフで切られてしまった髪だった。
耳より前に生えている両サイドだけは胸下の長さを残しているが、ポニーテールの結び目を切ったせいでトップ周辺は短く、襟足は少し長めになってしまっている。
そのあまりに不揃いで悲惨な髪型に、オフィーリアは自室の鏡の前で茫然とするしかなかった。
「⋯⋯髪、大丈夫?」
その声にはっとして振り向いた。赤毛の彼女は心配そうにこちらを見つめている。
医務室へ運んでくれた後も、彼女はずっとそばにいてくれた。治療中も手を握り、気を紛らわせるために話をしてくれたのだった。
あのくすんだブロンドの男性はハンス・ウェーバーというレプリカントのパイロットだそうだ。
このエルシノア基地でいちばんの古株で、いちばん腕のいいレプリカントのパイロット。
「ハンスはね、元々あたしと同じレプリカントの整備士だったのよ。けど、17歳の頃に操縦技術の非凡な才能を見込まれてパイロットに転向したんですって」と、彼女は説明してくれた。
そんな人がどうして助けてくれたのだろうとオフィーリアは不思議に思ったが、それは彼女も同じようだった。ハンスは決して悪い人ではないが自ら積極的に他人と関わろうとしないらしい。オフィーリアとはまったくの初対面だというのに。
オフィーリアは鏡から目を逸らした。
「だ、だ、大丈夫です。髪なんてそのうち伸びますし」
その言葉に彼女は目を三角にした。「全然大丈夫じゃない! きれいな髪なのにあんまりよ!」
きれいな髪。彼女のその発言に、オフィーリアは数秒、呼吸を忘れた。
「光に当たるとキラキラして、雪みたいで。とってもきれいで素敵な髪色だわ。それなのにエベールの糞野郎、こんなことして絶対に許せない! レンチでボコボコに殴らなきゃ気がすまないっての」
憤りながらまくしたてる彼女を眺めていると、オフィーリアは胸の奥がじわりと温まるのを感じた。
銀色の瞳から涙が一粒こぼれる。それを皮切りに次々と頬を伝って落ち、膝にシミを作った。
「どっ、どうしたの? まだどこか痛い? もしかして痛み止めが切れちゃった?」
「ち、違う、違うんです⋯⋯わた、わたし、嬉しくて。こんな髪なのに、きれいって、言ってもらえて」涙で言葉が詰まりそうになりがなからもたどたどしく続ける。「その上、まったくの赤の他人であるわたしのために、お、怒ってくれて」
涙で濡れた両目を乱暴に拭うと、オフィーリアは微笑んだ。
「ほんとうに、ほんとうに、ありがとうございます」
彼女は一瞬、目線を下に向けた後、笑顔を浮かべて言った。
「⋯⋯あー、いいの! これも計算してやったことだもの」
「計算?」
「そんなことより、あたし、あなたの髪をずぅーっと触ってみたかったの! ね、触ってもいい?」
「えっと⋯⋯ど、どうぞ」
「ありがとっ。――うわあ、さらっさら! あたしの髪とは全然違うわあ」
彼女は立ち上がり、オフィーリアのことなどお構いなしに両手で髪をかき乱す。犬を撫でるような手つきだ、とオフィーリアは少し口元を緩めた。
「あっ! そういえば自己紹介がまだだったわね。あたしはムゼッタ。レプリカントの整備員やってる24歳!」
「あ、わたしは」
「オフィーリア・フローベル23歳。ギルデンスターン国立音楽院を卒業して、軍楽隊の入隊試験にも合格したにも関わらず、レプリカント部隊への配属を希望してここにやって来た、でしょ?」
オフィーリアはぎょっとした。
「わ、わたしは希望してないです! というか、どうしてわたしの経歴を⋯⋯」
「ふふ、ここで知らない人はいないわ。あなたは自分が思ってる以上に有名なんだから」
そういえばクロードにも同じことを言われたのを思い出した。
いつもは知らない場所で自分の噂話をされるとつま先から冷えるような嫌な感覚を覚えるのだが、ムゼッタの言葉はさほど不快ではなかった。
「名前がオフィーリアってことは、愛称はフーよね。ね、これからフーって呼んでもいい?」
「えっ、ええっと、どうぞ……」
「やった! あたしのことも好きなように呼んでね、フー!」心ゆくまでオフィーリアの髪を撫で終えたムゼッタは、椅子に座り直しながら言った。「あたしね、ずっとフーのことが気になってたの」
オフィーリアは首を傾げた。
「どうしてですか?」
「フーがここの人間じゃないからよ」
「⋯⋯⋯⋯」
(ここの人間じゃないって、どういう意味なんだろう⋯⋯浮いているってこと? それは事実で、わたしはクロードさん以外とは全然馴染めていないけど。でも、そんなこと、本人に面と向かって言わなくても⋯⋯)
ムゼッタはオフィーリアの思考を見透かすように微笑むと目を伏せた。
「あたしは16歳のときに整備士として腕を見込まれてから、ずっとこのエルシノア基地で働いてるの。
赴任したての頃は友達や恋人ができるかな、なーんて夢見たりしてたんだけど、そううまくいかなかったわ。同僚の整備員はみんなあたしよりずっと年上だったけど、とても親切ないい人ばかり。
だけど、士官学校を卒業してレプリカントのパイロットとしてやって来た連中はもう最悪。高慢で感じ悪くて。もちろんそういう人間ばっかりじゃないんだろうけど、あたしが接した奴らはそんなのしかいなかった。
――だから、フーのことを聞いたときは気になって、ワクワクしてしょうがなかったのよ。あの国音を卒業したエリートはどんな子なんだろう。士官学校卒の連中みたいにプライドのかたまり? それとも芸術家気質の変人なのかしら、って。正直に言うと興味本位、好奇心ね」
ムゼッタは目を伏せるのをやめ、真摯な眼差しをオフィーリアに投げかけた。
「でも、エベールの糞野郎に酷い目に合わされているのを見て、自分が恥ずかしくて情なくなった。フーが何か訳ありでうちの基地に配属されたのはなんとなく察していたのに⋯⋯ごめんなさい」
ムゼッタのヘーゼルの瞳が次第に潤みだす。オフィーリアはあわあわと助けを求めるように視線を彷徨わせるが、この場には自分とムゼッタのふたりしかいない。
オフィーリアはそんな情けない思考を振り切るように眉間に力を込める。
(だっ、だめ! こんなのじゃだめ! わたしはまた誰かに頼ることばかり考えている。⋯⋯わたしは、わたしに優しくしてくれた人から逃げたくない)
「し、知りたいです。わたしも、ムゼッタさんのこと」
オフィーリアはたどたどしく言った。大丈夫だ。思ったことをそのまま伝えればいい。
「わ、わたしの生活の中心はずっとファゴットで。なので、レプリカントのことは今勉強中で、知らないことばかりで。ええと、だからムゼッタさんがわたしに興味を持ってくれているのなら、わたしのことなんかで良ければいくらでも教えます! あの、その代わり、ムゼッタさんのことも教えてくれませんか?」
オフィーリアは立ち上がった。両手をぐっと握りしめる。興奮しているからか、体の痛みは気にならなかった。
「わっ、わたし、ムゼッタさんと友達になりたいです」
「――あたしと、友達に?」
「たとえ好奇心がきっかけでも、こんなわたしを気にかけてくれて、親切にしてくれて、とても嬉しかったです。それに、ムゼッタさんは、わ、わたしのこと、貶したり殴ったりしないですし⋯⋯」
オフィーリアは自分で言っていてなんだか悲しくなった。再び眼球の表面が熱くなる。
「あたしなんかでいいの?」ムゼッタはの言葉は弱々しく、だが期待の響きが込もっていた。「あたしと、友達になってくれるの?」
「はっ、はい! ぜひ」
ムゼッタが笑った。純朴で、太陽のようにあたたかい笑顔だった。「これからよろしくね、フー!」
そう言ってムゼッタはオフィーリアにそっとハグをした。ムゼッタの高めの体温が心地よく、どっと疲労感と眠気が押し寄せてくる。
(今日は、いつもの悪い夢も見ないでぐっすり眠れそう⋯⋯)
「フー! どうしたの!? 目を覚まして! まだ、どこか具合が――」
ムゼッタの焦ったような声を遠くに感じながら、オフィーリアは眠気に抗うことなく目を閉じた。