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天使のレプリカ  作者: 涼佳
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優しい人

 シミュレーターのハッチが開き、差し込む光が目に痛いほど突き刺さる。しかしオフィーリアは荒い呼吸を繰り返したままで、外に出ようとはしなかった。体の震えがおさまらず、抱きしめるように二の腕を掴む。

――怖かった。これがシミュレーションだということが頭から吹き飛んでしまうくらい、何もかもがリアルだった。ブレードでコクピットを貫かれたとき、ここで死んでしまうんだと思った。

 もう二度とファゴットを吹けなくなって、家族にも友達にも会えなくなって、ぐちゃぐちゃになって死んでしまう未来が見えた。オフィーリアは半ばパニックに陥って、身体を丸め、頭皮を掻きむしった。

「フローベル!」野太い声で名前を呼ばれて、オフィーリアの肩が跳ね上がる。

「いつまで閉じこもっているつもりだ。さっさと出て来い!」

「はっ、はい!」

 上半身を外に乗り出すと、腕を掴まれシミュレーターからまろび出る。そして床に叩きつけられた。背中の痛みに蹲るオフィーリアの上に暗い影が落ちる。恐怖で動けずにいると、今度は胸倉を掴まれ、無理やり立たされた。息苦しさに顔を歪めると、エドマンド・エベール大尉が目に嗜虐の色を浮かべて笑った。

「残念だったな、今は助けてくれる人間がいなくて」

今はクロードがいない。だから誰もオフィーリアを助けてくれない。――クロードと友人になってから、エルノシア基地での生活はだいぶ改善された。

 オフィーリアが過度に虐げられるたびにクロードがエベールを制止してくれたからだった。上官に逆らって大丈夫なのか、そんなことをしたら自分のように嫌われてしまうんじゃないか、とオフィーリアは危惧したのだが、クロードは「平気だよ」と言って笑うばかりだった。実際、その言葉の通り、クロードが庇いたてるとエベールはすぐに手を引いた。媚びた笑みを添えながら。

 どうしてだろう、とオフィーリアは首を傾げたが、理由はすぐにわかった。

 クロードは自分の家の影響力をよくわかっていたのだ。庇ってもらえるのはとても助かるし、嬉しかったけれど、同時に申し訳ない気持ちにもなった。クロードは実家の影響を疎んでいた。クロード自身ではなく、名門家の次男としてしか見ていない人々を嫌っていた。オフィーリアはそんな彼に実家の権力を使わせてしまうことの罪悪感に苛まれていた。

「一体どうやって誑かしたんだ?」

 オフィーリアを遠巻きに見る人たちがクスクスと笑った。彼らもオフィーリアがクロードに近づくのを良しとしていなかったからだ。

 胸倉を掴んでいた手が離れ、オフィーリアは床に崩れ落ちた。

「た、誑かしてなんか、」

 言い切る前に平手打ちされた。頬が焼けるように痛い。視界の端が涙で滲む。

「それじゃあどうやって近づいたんだ?」

 オフィーリアは口を噤んだ。

(話したってきっとわかってもらえないし、そもそもわたしが何を言ってもこの人は気に入らないんだ。それなら、もう余計なことは言わないでやり過ごしたほうが……)

 ふいに高い位置でひとつにまとめている髪を引っ張られて、オフィーリアは悲鳴をあげた。髪がぶちぶちと何本か抜ける音が伝わる。

「こんな気持ち悪い髪の女、どこがいいんだろうな」

 痛みはつらいが、髪色については罵られることに慣れているため動じなかった。しかし、エベールの次の行動には目を剥いた。

 ポケットから折りたたみ式のナイフを取り出し、軽く振って開いた。オフィーリアの顔ほどもある刃渡りのナイフだ。エベールはそれを見せつけるように光にかざした。

「……ひっ!」

 鋭く冷たい刃がぴったりと首筋に当てられる。少し力を込めて滑らせるだけで皮膚の下の頚動脈が切れるだろう。恐怖で身動きが取れない。

 ナイフが首から離れたかと思えば、突然、頭皮の痛みから解放された。それと同時に髪を束ねていたゴムが床に落ちる。続けて頭上からキラキラしたものが降ってきた――自分の髪だった。

「あ、ああ……」

 オフィーリアの人生で起きたつらい出来事の大半は、この銀髪によるものだったが、この忌々しい髪を好きだと言ってくれる人もいた。だから、無理やり切られたことにより、その人たちの優しさも踏み躙られたみたいに感じた。

 オフィーリアは地面に散らばる髪をぼんやりと眺めてから、ゆっくりとエベールへと目を向けた。髪色と同じ銀の瞳は激しい怒りを孕んでいた。エベールは一瞬だけ気圧され、そして、そんな自分に猛烈に腹を立てたようだった。

エベールはオフィーリアの腹部を蹴った。薄い腹に硬いブーツのつま先がめり込み、身体が吹き飛ぶ。その勢いで背中をシミュレーターに打ち付けた。

 ざわついていた周囲が、冷や水を浴びせられたようにいっせいに静まりかえった。オフィーリアは芋虫のように蹲りながら、込み上げる胃液を抑えた。視界がぐらぐらと揺れている。立ち上がろうと腕に力を入れるが、立ち方を忘れたように崩れ落ちた。

 エベールの笑い声が沈黙を突き破った。一頻り笑った後、オフィーリアの左肘をその場に縫いとめるように踏みつけた。

「な、何を……」

 オフィーリアは顔を上げた。エベールと視線が重なる。瞳の奥にどこか狂気的な、危うい色が浮かんでいる。

「気に入らないんだよ。楽器で遊んでいるだけで優遇されているような奴は」

 エベールのもう片方の足が上がる。その瞬間、エベールがこれからしようとすることに気づいて、オフィーリアは青ざめた。

(この人は、わたしの手を……!)

「潰してやる」

 エベールの足が迫ってくる様子がとてもゆっくりに見える。オフィーリアは死に物狂いでもがいた。指を潰され、ファゴットを、夢を、すべてを失うヴィジョンが脳裏を駆け抜ける。

「そこまでにしておけ」

 オフィーリアはいつの間にか閉じていたまぶたをおそるおそる開いた。がっしりとした古傷だらけの手が、エベールのブーツを掴んでいる。

「やり過ぎだ。それ以上やるとお前にとっても都合の悪いことになる。わかっているだろう」

 だいたい四十代半ばくらいだろうか。大柄の男性がオフィーリアを庇うように膝をついてエベールを睨んでいる。日に焼けた肌にくすんだブロンドの髪。目尻には深い皺が刻まれ、こめかみのあたりには痛々しい傷跡がある。上着は羽織っておらず、黒い半袖のTシャツからは鍛え上げられた筋肉が見てとれる。

 周囲の士官が彼を見てひそひそ言葉を交わしている。「どうしてあの人が?」と囁く声が聴こえた。この人はそんなに偉い人なのだろうか?

 エベールは舌打ちすると、オフィーリアをぎろりと睨めつけて踵を返した。足音が聴こえなくなった頃、張り詰めていた緊張の糸が切れて、ようやく肩の力を抜くことができた。

「あ、あの……」

 声を出すと腹部がひどく痛み涙が滲む。オフィーリアのその様子に、彼は眉間に皺を寄せた。

「骨折しているかもしれないな。すぐ医務室に行ったほうがいい」

 オフィーリアはシミュレーターに手をついて何とか立ち上がった。このくらいの痛みならひとりで歩けそうだ。

「す、すみません。わたし、ひとりで大丈夫ですから」

「そういうわけにはいかないだろう」

 そう言って抱きかかえようとするが、オフィーリアは頑なに断った。よく知らないが周囲の反応からして有名な人のようだし、これ以上注目を集めるのは避けたい。だからといって彼も引いてくれそうになかった。

「はいはーい!」

 膠着した空気を突き破るような明るい声色のほうへ目を向けると、癖のある赤毛の女性が人波を掻き分けながら駆け寄って来た。

「すみませんっ! 通してもらえます?」

 軽くよろけながらふたりのいる中心部にやってきた彼女は、オフィーリアたちと違い、所々に汚れの付着した白いツナギを着ている。

 彼女はつかつかとオフィーリアへ歩み寄ると、背中と膝裏に腕を入れて抱き上げた。所謂お姫さま抱っこだった。「ひぃっ」と、オフィーリアの口から情けない悲鳴が漏れる。とっさに彼女の体にしがみついた。

「自分が医務室に連れて行きます! 同性のほうが何かと都合がいいでしょうし」

 満面の笑みを浮かべて言う彼女に、彼は目を軽く細めた。怒らせてしまったらどうしよう、とオフィーリアは身を竦ませる。だが、予想に反して彼はふっと口元を緩めた。

「それもそうだな。頼む」

「了解でーす! すみませーん、ケガ人が通るのでどいてもらえますか!」

 彼女がよく通る声でそう言うと、ざわつきながらも、それぞれ自分の持ち場に戻り始める。

 首を伸ばして振り返ると、立ち去ろうとする彼と目があった。強面だが、その瞳の奥に優しい色が灯っているのを、オフィーリアはたしかに見て取った。

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