分岐点
「遅かったね、オフィーリア。でも来てくれてありがとう! 嬉しいよ」
気分が高揚しているのか、平時より上ずったミシェルの声も、オフィーリアの耳には入らなかった。ただただ眼前の光景に釘付けになっていた。
ミシェルが操る漆黒のレプリカント。純白のオデットと対象的なその姿は、黒鳥と呼ぶに相応しい。
その黒いレプリカントは、常人の目では捉えきれないほどの反応速度で動き回り、翼というにはあまりに歪な機械を生やした傷だらけの少女――バニラを攻撃していた。
「これが僕のレプリカント。ずっと見せたかったんだ」
ミシェルは頬を赤らめてはにかんだ。まるで親に褒められるのを期待する子どものようだった。
「名前はオディール。僕のために造られた採算度外視の試作機。君のオデットに合わせて色も黒にしたんだ。黒鳥と白鳥。素敵だろう?」
喋っているあいだもミシェルは攻撃の手を緩めない。バニラは必死に応戦していたが、ミシェルは軽々とその上をいった。
「僕の要求するスペックとデザインを両立させるのは難しくてね、完全に同じというわけではないけど、それでもなかなか良くできているだろう? まるで僕たちみたいじゃない?」
オディールは脚部に様々なギミックが仕込まれているらしく、脚技を使ったトリッキーな近接攻撃が多かった。
直線的かつ大胆、それでいて優雅でしなやか。それに重力を感じさせない精緻な機動。
そして、ミシェルの操縦はバランスの取り方が異常なまでに優れていた。
オートバランサーが働いていたとしても転倒してしまうであろう体勢でバニラの攻撃を誘い、そこからの反撃は圧巻の一言に尽きる。
まるでバレエの役柄――悪魔の娘・オディールを演じ、踊っているようである。
「思ったほどたいしたことないね」
つまらなそうに口を尖らすミシェルにオフィーリアは言葉が出なかった。
幾つもの街や基地を壊滅させ、熟練のパイロットのハンスをも倒したバニラが、いまやミシェルに押されてしまっている。
凍りついたままふたりの戦いを見ているうちに、オフィーリアはミシェルが手加減していることに気づいた。
わざと攻撃を外したり、掠る程度に留めたり。しかしギリギリまで追い詰めることは止めない。遊びで虫の手足をもぐ子どものように、時間をかけて少しずつ傷つけている。
モニターに映るミシェルは、心からこの蹂躙を楽しんでいた。
「⋯⋯どうして、」
オフィーリアはようやく言葉を搾り出した。
「どうして、こんなひどいことを⋯⋯!」
「ひどい? 僕が?」
ミシェルは首を傾げた。
「オフィーリアもわかっているだろう。これは君の仲間を殺したんだよ? ――もしかして、死んだ人たちのことなんかどうでもよくなった?」
「そんなことありません! ありませんけど⋯⋯」
オフィーリアが即座に否定すると、ミシェルは表情を和らげた。
「僕はただ、君に知ってほしいんだ。僕は、殺されていった君の仲間たちとは違うということを」
ミシェルは悠々と会話をしながら、絶妙なタイミングで機体を旋回させることでバニラの突貫を回避。その際の勢いを生かしたまま回し蹴りを食らわせる。
まるで黒鳥のグラン・フェッテのようなキレのある動きだった。
バニラの片腕は砲身へ、もう片腕はブレードと変形し、背中には大きな金属片が突き破るようにして生えていたが、どこもかしこもひどく損傷していた。
オフィーリアは何もできず、ただただ現状に圧倒されていると、起き上がろうと膝をついたバニラとモニター越しに目が合った。
無表情の中にさっと怯えの色が現れる。オフィーリア以外には気づけないであろう、ごく僅かな変化だった。
地表に叩きつけられたバニラが立ち上がるのを待ってから、ミシェルは攻撃を再開した。
オフィーリアは激しく頭を振った。もう見ていられなかった。
「やめてください! もう⋯⋯もう、いいじゃないですか! ミシェルさんが強いことは十分わかりましたから!」
そう伝えてもミシェルは攻撃の手を緩めなかった。
「ねえ、オフィーリア。これが終わったらファゴットが聴きたいな。曲は⋯⋯そう、あの子守唄がいい。僕はあまり夢見がいい方じゃないいんだけど、君がそばにいてくれたら、いい夢が見られる気がするんだ」
無邪気な笑顔で未来の話をするミシェルに、オフィーリアは絶望した。
(もうミシェルさんにわたしの声は届かない。このままじゃバニラさんは殺されてしまう)
「――オフィーリア」
か細い声で名前を呼ばれてはっとした。
バニラの声だ。幻聴なんかじゃない。バニラの声を聴き逃すはずがないという自信がオフィーリアにはあった。
バニラはオディールに嬲られながら、小さな声でオフィーリアを呼んだ。
それをきっかけに、バニラとの記憶が凄まじいスピードで脳内を駆け巡る――小さな手を繋いで歩いてまわったこと。ふたりでアイスを食べたこと。自分の演奏を一番好きだと言ってくれたこと。殺されかけたところを救ってくれたこと。緑の瞳に寂しさを湛えながら「さよなら」と告げたこと。
無意識のうちにオフィーリアの腕が操縦桿へ伸びる。
それを咎めるかのようにミシェルに冷え切った声音で名前を呼ばれ肩が跳ねた。
「僕を裏切るの?」
ミシェルはオディールを静止すると、モニター越しに、どこか稚さを感じさせる眼差しを投げかける。
「オフィーリアも⋯⋯僕を捨てるの? あの女と同じように」
双子だからだろうか、オフィーリアにはミシェルの様々に変化する心情がはっきりと読み取れた。
憤懣。憎悪。悲嘆。絶望。それらの根底にあるのは、孤独に対する恐怖だ。
オフィーリアが返答に窮するとミシェルは声をあげて笑った。邪気のない、子どもじみた笑い方だった。
「わかった」
ミシェルがそう言って手元を動かすと、オディールがブレードを装着した右腕を掲げる。
「あれがいるからいけない。あれが僕の家族を惑わす」
ブレードの刀身が二つに割れ、その間に光が収束し始める。
あれがどういう武器なのかオフィーリアにはわからなかったが、非常に強力なものなのだろうということくらいは察しがついた
バニラは倒れたまま上体を起こすが、それで精一杯といったふうで、あの武器からは到底逃げられそうにない。
「待って、ミシェルさん! やめて!」
回線は切られてしまった。説得しようにもミシェル側が通信を拒絶している。
助けなければ、と思うが先ほどのミシェルの台詞が重圧となり、指の一本も動かせない。
バニラはローゼンクランツのレプリカント。
ミシェルはたったひとりの双子の弟で、これまで影から支えてくれていた存在。
どちらを取るべきかなんて決まりきっている。決まりきっているのに――オフィーリアの意思は決まりかけていた。
いよいよオディールの右腕がバニラへ向けられる。そのときオフィーリアの耳に、もう一度微かな声が聴こえた。
「⋯⋯⋯⋯て」
オフィーリアは目を見開く。
バニラの声が鼓膜を震わせ、脳へと伝わり、その意味を理解した瞬間、銀の瞳からどっと涙が溢れた。
「⋯⋯助けて、オフィーリア」
オフィーリアは深々と息を吸い込む。そして絶叫した。――オデット、と。
モニターからバニラは消え、代わりにこちらへ武器を向けるオディールの姿が映る。
オフィーリアはすぐさまオデットの腕を正面に向け、電磁シールドを展開した。押し寄せる光の洪水を真っ向から受け止める。
過負荷を告げるけたたましいアラートは、まるでオデットの悲鳴のようだ。
その凄まじい威力にシールドの出力はたちまち低下する。モジュールから火花が飛び散り、弾け飛んだ機器の破片が顔や体に突き刺さる。
このままではオデットごと自分も消滅してしまう。
そんなことはわかり切っていたが、それでも持ちこたえなければならなかった。後ろにはバニラがいるのだ。せめて、逃げるくらいの時間は稼いでおきたかった。
「あああああああああああ!」
オフィーリアは苦痛のあまり叫んだ。
視界が強烈な閃光に焼かれ、オデットごと自分も飲み込まれてしまう。そう思った直後、ぴたりと攻撃が止まった。オフィーリアは血を吐きながらシートに倒れた。
どうしてと思いながらも、霞む目を凝らしてコクピットの状態を確かめる。
震えるように必死に呼吸を繰り返しながら、操縦桿に手を伸ばそうとして、ふと気がつく。左腕がない。
うすらぼんやりとした視界の中で、右腕だけが彷徨うように宙を泳いだ。そういえば右足の感覚もなくなっている。つまりはそういうことだった。
アリアの腕を思い出して、オフィーリアは少しだけ微笑んだ。お揃いだ、と思った。
「⋯⋯オデット」
息も絶え絶えに呼びかけると、答えるようにひび割れたモニターがぽう、と点滅した。
その反応に安堵したとき、ミシェルの声が聴こえた。
だが、少して途切れた。
オフィーリアは瞑目した。見えずともミシェルの身に何が起きたのかわかってしまったのだ。目尻から涙が一筋流れ落ちた。
オフィーリアはゆっくりとまぶたを上げて言った。
「オデット⋯⋯、あと一回だけ、がんばってくれる?」
声帯は無事で幸いだった――これでオデットに最期の願いを聞いてもらえる。
「わたしたちを、連れて行って」
オデットが光り輝き始める。先ほどの光とは違う、あたたかく優しい光だった。
「誰もいないところへ」
・
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バニラは眼前の光景に衝撃を受けていた。
さっきまで離れた場所にいたオデットが今は目の前に立っていて、自分を庇って規格外な威力の荷電粒子砲を受け止めている。
「オフィーリア!」
バニラはオフィーリアを助けようと起き上がる。
散々痛めつけられ、身体の状態はひどいものだったが、オフィーリアのことを思えば不思議と動けた。
だが、黒いレプリカントは唐突に攻撃を止めた。
その上、信じられないことに搭乗ハッチを開放し、コクピットからパイロットが出てきたのだ。愚行としか言いようがない。
ミシェル・ベルンシュタイン――彼のことは知っている。ローゼンクランツでも恐れられている若き天才パイロット。そして、やはりオフィーリアとまったく同じ銀色の髪と瞳を持っていた。
「オフィーリア⋯⋯」
ミシェルはオデットの惨状に膝をついた。顔からは血の気が失せ、目はこぼれ落ちそうなほど見開かれている。わなわなと震える唇はチアノーゼをおこしていた。
ミシェルは気が狂ったように「オフィーリア」と繰り返す。それ以外の言葉を忘れたように。
滂沱の涙を流しながら、血が滲むほど頭皮を掻き毟る哀れな姿。そこに先ほどまでの残虐な姿は見当たらない。
オフィーリアによく似た外見のミシェルを撃つことには強い抵抗を感じる。
バニラは逡巡したが、ミシェルを苛んでいる悪夢のような悲しみが少しでも収まれば、その感情をそっくりそのまま自分への憎悪に転換することは容易に推測できた。
すぐさま照準を定めるとコクピットごと狙い撃った。
変形した身体を人間の姿へと戻したバニラは、自分の手のひらに視線を落とす――オフィーリアを撃ち殺してしまったようなぞっとする感覚のせいか震えが収まらない。
バニラはオフィーリアのもとへ行かなければと、オデットを見上げた。
いつの間にかオデット全体が淡く発光し始めていた。
輝きが増すにつれ視界が激しくぶれる。そして、バニラが事態を把握するよりも先に目の前の景色が入れ替わった。