ふたりとも好きだから
「ムゼッタ、さん⋯⋯? 何を⋯⋯」
オフィーリアは立ち上がろうと足に力を入れようとするも目眩にも似た強烈な眠気に襲われ、うまくいかず、とうとう倒れ込んでしまった。
ムゼッタは無言のまま、手早くオフィーリアの身体を肩に担ぎ上げた。
ムゼッタに担ぎ上げられている間も、抵抗しようとしたが、全身が弛緩してしまっていて、腕を動かすことさえできない。意識を保つので精一杯だった。
ムゼッタはオデットの搭乗ハッチを開き、ぐったりした身体を操縦席に投げ入れた。
「ま、まって、ムゼッタさん」
「あたしのこと、あの男から全部聞いたんでしょう。あたしたちの関係は作りものだったの」
ムゼッタは淡々と言った。
「毒だと思った? 大丈夫、ただの睡眠薬だから。フーはオデットの中で眠ってて。⋯⋯これがあたしの最後の仕事」
「やっ、やだ!」
オフィーリアは駄々をこねる子どものように声を張り上げた。引き止めたいのに頭がうまく回らない。それでも必死で言葉を紡ぐ。
「わ、わた、わたしは、それでも、ムゼッタさんが好きだから。友達だって、思ってるから⋯⋯死んでほしくないから、」
ムゼッタは目を丸くした。深くため息を吐き、オフィーリアの頬にキスをした。
「フーは、あの男とは全然似てないわね」
そして額を合わせて微笑した。この瞬間だけは、楽しそうに歌を歌い、頬を赤らめながら恋を語り、オフィーリアを明るくサポートしてくれたムゼッタだった。
「さっきの言葉、そっくりそのまま返してあげる」
「ま、まって! いかないで、ムゼッタ、さ⋯⋯」
「おやすみ。いい夢を」
オフィーリアの必死の制止もむなしく、ムゼッタはハッチを閉じた。
暗闇の中、ますます強烈になってゆく眠気と戦いながら、おぼつかない手つきでなんとかモニターに出入り口の映像を映したときには、ムゼッタは再び扉の脇に立っていた。まさに解錠する寸前だった。
「ムゼッタさん!」
オフィーリアは叫んだ。
当然、聴こえているはずもないのに、その呼びかけに応じるようにムゼッタが振り返る。
モニター越しに目が合い、ムゼッタは泣きそうな顔をした。「ごめんね」と唇を動した。その謝罪には複数の意味が込められているように感じた。
ドアが開くと同時に、オフィーリアは耐えきれずシートの背もたれに倒れ込んだ。
視界が白く霞み、コクピットの外から聴こえる銃声もずっと遠くからのもののように聴こえた。
腕から力が抜け、だらりと垂れ下がったとき指に何か触れた。
それはシースに収めているナイフのグリップだと気づいたとき、オフィーリアの霞がかっていた頭が少しだけクリアになった。
ナイフを掴み、抜き取る。これまで一度も使われたことのない大振りの刃は曇りひとつなくきれいなままだ。
逆手に持ち直し、深く息を吸い込んだ。鋭利な刃を見つめていると、髪を切られた際の記憶が蘇り、手が震えた。少しでも気を抜けば落としてしまいそうだ。
湧き上がる恐怖心を抑え、右太ももの外側に向かって一気にナイフを振り下ろした。
「! っゔ、ぁあ」
眠気が激痛によって吹き飛ばされる。ナイフが手から滑り落ちた。オフィーリアは傷口を手のひらで抑えながら歯を食いしばった。痛みに額から脂汗が滲む。
震える手でコクピットに備え付けてある救命キットを引っ張り出し止血する。あえて痛み止めは使わなかった。また眠りそうになっては元も子もない。
「はっ、はあっ! ムゼッタさんを助けないと。オデット、ハッチを開けてください!」
いつもなら声に出せばすぐにハッチが開くのに、オデットは応えてくれない。まるでオフィーリアの言葉を無視するように、一切の操作を受け付けなかった。
「っ、どうして!? どうして反応してくれないの?」
思いつく限りの操作を試みるが、オデットはいっこうに動かない。じりじりと焦燥感が募ってゆく。
クロードのようにたくさんの血を流して倒れているムゼッタ――恐ろしい光景が頭を過ぎり、オフィーリアは取り乱した。
「開けてくれないなら動いて! ねえ、動いてよ! ムゼッタさんのところに行きたいの!」
拳で何度もモニターを叩いた。それでもオデットは反応を示さない。次第にオフィーリアの叫び声が涙混じりになる。
「ねえ、どうしていつもみたいに応えてくれないの!?」
オフィーリアは懸命に訴えかけた。
「オデットはいつだってわたしを守ってくれたじゃない! 助けてくれたじゃない! どうしてムゼッタさんのことは助けてくれないの!?」
爪が割れ、皮膚が裂け、拳に血が滲んでも叩き続けた。肩を震わせしゃくりあげる。
「こ、このままじゃ⋯⋯」
オフィーリアは言った。
「このままじゃムゼッタさんが⋯⋯ムゼッタさんが⋯⋯、ムゼッタさんが死んじゃうよ!」
それは数十分の間のことであったが、オフィーリアには永遠に感じられた。
オフィーリアは滂沱の涙を流しながら放心していたが、微かに聴こえた耳に馴染む音に意識を取り戻した。
オデットの駆動音だ。今なら、と思い操縦桿を握った。
今度はすんなりと動いてくれた。横たわるクロードの遺体を傷つけないよう慎重に出入口へとオデットを移動させ、器用にドアをこじ開けた。
ひどい有様だった。あたり一面に弾痕や焼け焦げた跡、血飛沫が飛び散り、原型を留めていない死体がいくつも転がっている。
ムゼッタはすぐに見つかった。ドアの向かいの壁にもたれかかるように倒れていた。
オデットの手でそっと掬い上げると、指の間からどろりとしたものがたくさんこぼれた。死んでいるのは一目瞭然だった。
天窓の真下、ちょうど光が差し込む場所にクロードとムゼッタの遺体を並べた。
オフィーリアは空虚な心持ちでふたりを眺めていた。
悲しみも怒りも、憎しみも何もなかった。眼前にはクロードとムゼッタの死という事実が横たわっているだけだった。
・
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どれほどの時間が流れただろう。
通信が入った。多少の雑音の後「オフィーリア」と、誰かに呼ばれて、視線だけをモニターに移した。
――ミシェルだ。美しい微笑を浮かべていたが、オフィーリアの姿を目の当たりにした途端、余裕たっぷりの態度が崩れた。
「! オフィーリア、どこかケガを?」
「違います。これは⋯⋯」
言葉は途中で萎んでしまった。ミシェルはすべてを察したのかほっとしたように「オフィーリアが無事ならそれでいいんだ」と笑った。
「オデットに乗れたんだね。安心したよ。僕が助けに行けたらよかったんだけど、そういう訳にもいかなくなってしまって。今はどこに?」
ミシェルも同じような状況にあるはずなのに、どうして笑顔でいられるのだろう、とオフィーリアは不思議に思った。
「⋯⋯まだ格納庫です」
「これから指示する場所に来てほしい。君に見せたいものがあるんだ」
ミシェルは明るく言った。機嫌の良さが抑えきれていない口調だった。
「見せたいもの?」
「そう。余計なことは考えなくていい。位置情報を送るから、できるだけはやく来て」
ミシェルの口調には、穏やかながらも有無を言わせぬ響きがあった。オフィーリアは反射的に頷いた。
「それじゃあ、待ってるね」
通信が切れる。直後にミシェルの現在地が転送された。ここから数キロ離れた場所にいるようだった。
こんな時にそんな場所でいったい何をしているのだろう――オフィーリアにはミシェルの意図がさっぱりわからなかったか、それでもとにかく今は従うほかない。
もう一度、クロードとミシェルに目を向けた。
ふたりはもう起き上がることはない。だが、オフィーリアの中では今も鮮やかに笑いかけてくれている。
オフィーリアは祈るように強く目を閉じると、ミシェルの元へ向かった。