もうひとつの運命
「場所は薄汚い路地裏のゴミ箱の中。たまたま通りかかった人が泣き声に気づいたんだ。
ろくにミルクも与えられていなかった上、風邪を拗らせ肺炎を患っていたため、ひどく衰弱していたそうだ。あと5分発見が遅れていれば死んでいたらしいよ」
オフィーリアは絶句した。同じ双子なのに、自分が捨てられた状況とあまりに違いすぎる。実母の考えがわからなかった。
乳児をそんなところに捨てるなんて、そんなのまるで――殺すつもりみたいじゃないか。
「体調が完全に回復した後、僕は施設に引き取られた。
そこではこの髪と目の色が薄気味悪いと嫌がらせもされた。まあ、あんな連中、簡単にあしらえたから何とも思わなかったけれど。
ベルンシュタイン夫妻に引き取られたのは6歳のときだ。夫妻の間には子どもがなく、跡取りに相応しい養子を探しにやって来たんだ。
取り入るのは容易いことだった。まず義母の同情を引き、頭も悪くないのだとさり気なく教えてやるだけで僕は気に入られ、その日のうちに引き取られた」
ミシェルは軽く言ってのけたが、実際、6歳の子どもがそれを行うのはとても難しいのだろう。
オフィーリアは自分が6歳だったころを思い出して、やはりミシェルは優秀なのだとあらためて実感した。
「夫妻が望むいい子を演じるのは、苦痛ではなかったけれど楽しくもなかった。唯一の楽しみは楽器を習うことだった。さっきも言ったように僕はクラシック音楽が大好きだから、楽器と触れ合える時間は幸せだった」
そう言ったミシェルの目は優しく、口元は緩んでいた。きっと、本人も気づいていないうちに。
「だけど僕にはあまり才能がなかったし、そもそも跡継ぎとして引き取られたのだから、音楽を志すことなど許されなかった。
だから、せめてもの慰みに軍楽隊のコンサートにはよく行っていた。養父のコネもあってチケットは簡単に手に入ったからね。軍楽隊のコンサートに行きたいあまり、自分のような孤児の為にという建前でコンサートを企画したりね。
そのコンサートでオフィーリア、君を見つけた。とても驚いたよ。すぐに身元を徹底的に洗い、双子だと知った。
――嬉しかった。あのときは本当に嬉しかったよ。常に孤独を感じていた僕にとって、オフィーリアの存在は神様からの贈り物のようだった。
オフィーリアのことを調べるうちに、僕と同じように君もファゴットが好きだと、そして軍楽隊に入ること夢見ていると知り、僕は君に夢を託そうと決めた。そのために最大限の援助をしよう、と」
「! もしかして、うちに寄付をしてくれたのは⋯⋯!」
「僕だよ」
ミシェルはにっこりと笑った。
「リリー・フローベルなら私利私欲に目が眩んで浪費せず、必ずオフィーリアのためにファゴットを買うと確信していたから」
頭がくらくらする。以前、ムゼッタが言っていた言葉が脳裏を過ぎる。
―― もしかしたら実の両親とか、兄弟とか、親戚とかだったりしない? フーの容姿は特徴的だから、特定は簡単でしょ?――
―― ほんとうに心当たりはない? お願い、よく思い出してみて――
「オフィーリアは僕の期待を裏切らず、ギルデンスターン音楽院に合格したね。
⋯⋯ああ、合格したのは紛れもなく君の実力だから安心して。あそこは誰にも手の出せない、清廉潔白、不正が一切行なわれない領域だから。
僕も忙しかったけれど、オフィーリアが参加するコンクールや演奏会にはできる限り行った。夢を託した相手が日に日に上達し、夢に近づく姿を見守るのは幸せだったよ。
――そうだ。幸せ⋯⋯だったのに⋯⋯」
穏やかだったミシェルの表情に僅かに影が落ちる。
「去年の冬、僕は、僕が捨てられていた路地裏を訪れた。
その日も雪が積もっていて、浮浪者さえいなかった。とても静かでね、そこにいると、まるで世界でひとりきりのような気分になったよ。
じっとしていると足元から凍りついてしまいそうだった。それくらい寒かったんだ。いつの間にか降り出した雪が肩に薄く積もり、手足の感覚がなくなって、まつ毛が重く凍るまで立ち尽くして⋯⋯
それだけの時間をかけてようやく理解した。母がなぜ僕をこの場所に捨てたのか」
ミシェルは一呼吸おいてから口を開いた。
「僕を、愛していなかったからだ」
泣きそうな声だ。よくよく観察すれば、ミシェルは表情に乏しい人間なのだとオフィーリアは気づいた。
たとえつらいことや泣きたいことがあっても、完璧な微笑みを浮かべて、常に自分の気持ちを押し殺していたのだろう。
そのミシェルの完璧な微笑みに、今、ヒビが入ろうとしていた。
「手にかけることすらしてくれなかった。愛されていないなんて、とっくの昔に気づいてた。でも、僕は認めたくなくて、ずっと事実から目を背けていた。わからない振りをしていたんだ。
理由を考えたよ。何度も何度も、気が狂いそうになるくらいに。どうして僕は愛されなかったんだろう? ――どうしてオフィーリアは愛されていたんだろう?」
そのヒビからぱらぱらと細かい破片がこぼれ落ちる音をオフィーリアは聴いた。
さらに大きな破片が少しずつ浮き上がり、剥がれてゆくにつれて、ミシェルがこれまでに溜め込んできたものが溢れ出す。
「オフィーリア、君はたくさんのものを持っていたね。
母の愛。『オフィーリア』という自分だけの名前。血は繋がってなくとも無償の愛情を与えてくれる家族。心の底から夢中になれるもの。夢に向かって共に歩む友人たち。そして――叶えたい夢。
どれも僕が持っていないものだ。⋯⋯どれも僕のものになりはしないけれど、そんなにたくさん持っているのなら、ひとつくらい奪ってもいいと思わない?」
ミシェルは顔を背けて口元を抑えた。肩をわずかに揺らしながらも堪えていたが、やがて隠そうともせず笑い出した。
それはもう先ほどまでのものとは180度異なる笑い方だった。
「君が軍楽隊ではなく、レプリカント部隊に配属されるよう、裏で手をまわしたのは僕だ」
その言葉を聞いた瞬間、オフーリアは呼吸すら忘れた。続いて、全身からさっと血の気が引くおぞましい感覚に襲われる。
入隊試験に合格するまでの日々が、凄まじいスピードで脳裏を過っては消えてゆき、最後にハンスの声が残った。
――軍上層部に目を付けられているということはないか?――
オフィーリアは思い出した。壊れたハンス機のコクピット。そのモニターに映った赤銅色の髪と明るい瞳の人物。
それは現在、目の前に座っているミシェル・ベルンシュタインだった。
(ハンスさん、わたしのために調べてくれていたんだ⋯⋯)
「ここでの生活はつらかった?」
オフィーリアは答えられずうつむき、膝に置いていた手を握り締める。ミシェルは芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「ああ、訊くまでもなかったね。レプリカントに乗ったことがない君が、こんな場所に放り込まれて、命の危機に晒されて。つらくないわけがない」
ミシェルの隣に大きな半透明のスクリーンが展開する。そこに映るオデットのコクピットで泣きじゃくる自分の姿に、オフィーリアの心臓が悲鳴を上げた。
(この人は、わたしの機体のログも監視して⋯⋯!)
「でも、いいこともあったよね?」
ミシェルはオフィーリアの様子に気を良くしたのか、声のトーンをわずかに上ずらせながら続けた。
「ここでは親切にしてくれる友人ができたね。クロードとムゼッタのふたりだ」
オフィーリアの肩が跳ねた。ミシェルとの会話を反芻したが、クロードとムゼッタのことを話した覚えはなかった。
「ムゼッタはいい友人を演じてくれただろう? クロードとも気が合ったようで何より。――もしかして君は、彼らが純粋な好意だけで手を差し伸べてくれたと思っていた?」
何でもいいから答えなければと思ったが、話し方を忘れてしまったように声が出ない。
それでも無理やり「⋯⋯どこまで、ふたりは」と搾り出した。
「ムゼッタにはオフィーリアをサポートし、君の言動や行動、機体のログも全てこちらに送るよう命令してある。
クロードは何も知らないけれど、今年入隊する隊員から、成績優秀、人格円満で、君のように望まぬ境遇にあるという条件に当てはまる人物を徹底的に洗い出し、同じ基地に配属させた。彼は右も左もわからない君に対して、とても親切にしてくれただろう? 悩みを共有してくれただろう?
ハンス・ウェーバーはイレギュラーな存在だったけれど、結果的に彼は君のことを救ってくれたからよかったよ。
任務のときは必ずクロードと行動を共にするよう命令していたけれど、成績は良くとも実践経験の乏しい彼だけでは力不足だったようだったから。
ああ、そういえば一度、別行動もさせられていたね。エドマンド・エベール。あれは君に何もさせるなというこちらの指示に逆らい、勝手に出撃させ、髪を切り、あまつさえ手を潰そうとして⋯⋯。怖かったよね? 安心して、僕が責任を持って処分しておくから」
ミシェルは軽く拍手をした。
「はい、これでネタばらしは終わり。どう? 僕が憎い?」
ふたりの間に静寂を伴った時間が流れた。
その間、ミシェルはオフィーリアの一挙一動も見逃さないためか、蛇のような目つきで凝視していた。