天使か悪魔か
医務室のベッドから戻ったオフィーリアは、オデットに記録されていた今日一日のログが完全に消えたのを確認した後、モニターの電源を落とした。
コクピットの中は完全な暗闇だった。シートの上に膝を抱えてじっとしていると、数時間前のことがまるで夢か幻に感じられた。
オフィーリアがベッドで点滴を受けている間にムゼッタは猛スピードでオデットの修理をし、急遽外出許可を取り基地を出て行ったそうだ。
ムゼッタからメッセージが届いていた。実は数ヶ月前に、男と蒸発したムゼッタの母親が見つかっていた。彼女は2年近く入院していて、病院は唯一の身内であるムゼッタを探し当て連絡が来たらしい。
彼女は余命宣告を受けていたが、まだ猶予があったにもかかわらず容態が急変し、オフィーリアが帰投したのとほぼ同時刻に亡くなったという。
メッセージの最後には『明後日には帰るから』と書いてあった。
(わたしがすぐに帰投すればムゼッタさんはお母さんを看取ることができたのかな)
(敵機の後を追わなければ⋯⋯わたしは、何も知らずにいられたのに)
バニラは人ではなかった。ローゼンクランツの新型兵器だった。ハンスを、アリアたちを無残に殺したのは彼女だった。
あの手の温もりも、美しい声も、すべて偽りだったのか。レプリカに過ぎなかったのか――そう考えるとオフィーリアはひどく虚しい気持ちになって、先程の戦闘のような憎しみや怒りさえ沸き起こらなかった。
ずるずるとシートにもたれ掛かると、ポケットの中から何か落ちる音がした。
「?」
手探りでそれを見つけ、手のひらの中でかたちを確かめる。たしかテーブルの上に置いてあったデータスティックだ。
上着のポケットに入っていたそうよ、とムゼッタは言っていた。あの事件後、オフィーリアの持ち物は一旦回収され、有益な情報は得られなかったと返却されている。身に覚えのないものだったから、後で中を確認しようとポケットに入れたまま忘れていたのだ。
(そういえばまだ確認してなかったな)
コクピットのシステムの一部を起動して、スティックを読み込む。
中身は録音データだった。自動的に再生されるざわざわとした人の声。それを一気に静めるアナウンスとブザー音。
オフィーリアは驚いて顔を上げた。
流れたのは、ヴィオレッタに代わってもらって参加したコンサートの演奏の録音だった。アリアがこっそりポケットに入れてくれたに違いないとオフィーリアは直感した。
暗闇の中、オフィーリアの眼前にオーケストラの舞台が広がる。前方にはアリアが座ってオーボエを奏で、指揮台ではサーシャが絶妙なニュアンスを込めてタクトを振っている。鈴なりの観衆の中、紫色の瞳を潤ませるヴィオレッタと、真剣に演奏を聴くバニラの姿がひときわ輝いて見える。
聴き入っているうちに、いつの間にか汪然として涙が溢れていた。
バニラの声が鮮やかに蘇る。
―― 私は、あなたの演奏が一番好き――
―― オフィーリアのファゴットの音色を聴いていたら⋯⋯あなたの言っていた『天使』の意味が、少しだけ、わかったような気がする。ステージにいるあなたは、天使のように見えた――
「⋯⋯⋯⋯ッ、ゔ、ぅ⋯⋯でっ、できない! で、で、できるわけない! ⋯⋯っ憎むなんて、できるわけない!」
オフィーリアは泣きじゃくりながら叫んだ。
「だ、だって、だって、わたしは⋯⋯!」
嬉しかった。
たとえバニラが兵器だったとしても、たくさんの人を殺したとしても、バニラの言葉が偽物だとしても、オフィーリアはバニラが生きていてくれて嬉しかった。どうしようもなく嬉しかったのだ。
バニラの身体がレプリカントでも、その胸にはたしかに心が存在していた。
音楽を楽しみ、何もない自分に寂しさを覚えていた。オフィーリアの命を救ってくれた。それなのに命じられるまま、破壊と殺戮を繰り返すだけの日々を強制されるなんてあんまりではないか。
オフィーリアはしゃくり上げながら、ハンスやアリアたちへの謝罪を延々と繰り返した。
――バニラと戦うなんてできない。それは死んでいった大切な人たちに対する裏切りになるのかもしれない。
それでも、オフィーリアはバニラを殺したくない。
・
・
・
一晩中泣き通しだったせいで、こめかみのあたりが痛む。
オフィーリアは腫れぼったい目元を隠すように深々と帽子を被り直した。寝不足もあってか他人の声がひどく耳触りで頭に響く。はやく部屋に戻って休みたかった。
ムゼッタは元気だろうか――オフィーリアは綿飴のような赤髪を持つ彼女に想いを馳せた。
唯一の親族である実母が亡くなったのだから、もっと長く休めばいいのにと思うのだが、癖の強いらしいオデットの整備を請け負えるのはムゼッタしかいないのが現状だった。
(わたしはムゼッタさんに対して、何から何まで迷惑しかかけてないな⋯⋯)
誰もが緊張した面持ちでずらりと横一列に並ぶ中、オフィーリアはこっそり嘆息した。
クロードが言うには、軍上層部の人間がやって来るとかで、わざわざパイロットを総動員して出迎えようとしているのだった。
何でもその人は、将官の一人息子で、自分たちと歳が同じにもかかわらず階級は少佐。
ギルデンスターン一といっても過言ではないほどの、卓越した技量を持つレプリカントのパイロットとして、ローゼンクランツにまで知れ渡っているらしい。
ぜひ指導してもらえないだろうか、と熱っぽく話しているのが聞こえた。これが優れたファゴット奏者だったなら、自分も彼等と同じように浮き足立っていられたのに、とオフィーリアはぼんやり考えた。
ざわめきが瞬時に収まる。到着したみたいだ。
黒いマントを翻し、タラップから降りる姿が見えた。周りの人間が揃って敬礼をするから、オフィーリアもぎこちなく倣った。
軍人特有の足音がこの空間を支配する。
その歩調には周囲にプレッシャーを与えようとするわざとらしさや、余裕や自信が垣間見えて、オフィーリアは嫌悪感を覚えた。
その足音を聴いていると、急に心臓の鼓動が速くなる。冷や汗まで吹き出る。オフィーリアは自分の体の反応が理解できなかった。
――周りの空気に当てられて緊張してしまっているのだろうか? 緊張だけで、ここまで⋯⋯追い詰められるような感覚に陥るものだろうか?
足音が近づくにつれて鼓動はますます速度をあげる。このままでは胸を突き破ってしまいそうだ。
オフィーリアは強く願った。通り過ぎて、早く通り過ぎてほしいのに⋯⋯足音はオフィーリアの前で止まった。
驚いて、思わず敬礼をといてしまう。
男は少し大きめの帽子を深々と被っていて、目元が完全に隠れている。それでも視線が自分へと向けられているのはわかる。
「オフィーリア・フローベルだね?」と、男は訊ねた。
オフィーリアはぎくりとした――どうして名前を知っているのだろう?
きちんと返答しなければ。そう思うのに、口内がからからに乾いていて思うように舌が回らず、オフィーリアは小さく頷くことしかできなかった。
男の口元が楽しげに弧を描く。
白い手袋をはめた手が帽子のつばへ伸びる。ゆっくりと脱げば、帽子にしまい込んでいた髪が肩に散らばり――オフィーリアは絶句した。
オフィーリアだけでなく、ここにいる誰もが息を呑んだ瞬間だった。
「ずっと君に会いたかった」
男はこの場にそぐわない、子どものように無垢な笑顔を浮かべた。
その髪も瞳も、オフィーリアと全く同じ銀色だった。