無力感と罪悪感
薄暗い部屋だった。ブラインドの隙間から差し込むごく僅かな光が、室内を仄暗く浮かび上がらせている。
光の加減が変わるたび、膨らんだ毛布の隙間の銀髪がちらちらと煌めいた。
ベッド脇のモニターから電子音が聴こえる――ムゼッタかクロードだろう。
オフィーリアは応答しようとしたが、どうしても体が動かずぼんやりとするばかりだった。
インターホンは止まり、代わりに端末に着信が入った。オフィーリアは音声入力で応答した。体は動かずとも声だけならなんとか出すことができた。
『オフィーリア。おれだよ、クロード。開けてもらってもいいかな?』
オフィーリアはもぞりとベッドの中で身じろぎし、「何の用ですか」とかすれ声で言った。
『腹が減ってると思って、パン粥とすりおろした林檎を持ってきた』
オフィーリアはゆっくりと瞬きをし、「⋯⋯少し、待ってもらっていいですか」と言った。
のろのろとベッドサイドへ手を伸ばし、処方された複数の種類の安定剤を十数錠飲んだ。
掛け布団を被り、目を閉じ、胎児のように丸まって薬の効果が現れるのを待つ。
オフィーリアがクロードに応じられる状態になったのは30分ほど経った後だった。
「どうぞ」
一声で自動的にロックが解除される。クロードがベッドの傍に座る気配を感じとって、オフィーリアは軋む体を起こした。
「お待たせしてしまってすみませんでした。体がひどく重くて⋯⋯」
痛ましい姿だった。銀髪は艶を失ってぱさつき、目の下には濃いクマがくっきりと主張していた。唇は乾いてひび割れたところから血が滲んでいる。
クロードはサイドテーブルにトレイを置いて、オフィーリアの肩に自分の上着を掛けてやった。
「せっかく来てくださったのに、こんな格好ですみません」
「そんなのいいんだよ。それより、食事にしよう。保温容器に入れてあるからまだ温かくて美味いよ」
「申し訳ないんですが、食欲が全然なくて⋯⋯」
「ムゼッタから聞いたけど、オフィーリア、ほとんど食べてないんだろう?」
「栄養剤の注射をしてますし、診察時には点滴も受けてますから大丈夫ですよ。お水は飲んでますし」
「水は飲んでるって、それは薬を飲むためじゃないか」
クロードは眉を下げた。オフィーリアは申し訳ない気持ちになり「なら、少しだけ」と言い、お盆を受け取ろうと手を伸ばす。
だが直前でさっと引っ込められオフィーリアは目を丸くした。
クロードは渋い表情でオフィーリアの包帯に覆われた両手を見つめていた。
「悪い、配慮が足りなかった。その手じゃスプーンを持つのもつらいよな」
そう言ってパン粥を掬ったスプーンを口元へ運ぼうとするクロードに、オフィーリアは「大丈夫ですよ」と固辞した。
「包帯だらけでひどいように見えますけど、見た目だけですよ。
傷口はきれいに縫ってもらってほとんど塞がっています。ズタズタになった手指の神経も腕のいいお医者さんに繋いでもらいました。
剥がれた爪も、今はチップをつけていますが、数日で完全に再生するそうです。爪がないと細かい動作ができませんから助かりました」
「! じゃあ、ファゴットを吹くのに支障は」
「包帯が取れたら大丈夫だそうですよ」
「そっか、それはよかった」
クロードは心底ほっとした様子で微笑んだ。
「おれ、オフィーリアの吹くファゴットが好きだから」
オフィーリアは何も言わず、久しぶりに動かす表情筋が引きつるのを感じながらも、ぎこちなく微笑み返した。
「本当に自分で食べられる? 無理してないか?」
「平気ですよ。⋯⋯いただきます」
息を吹きかけてからスプーンを口に運ぶ。パンに温かいミルクがたっぷり染み込んでいて、弱った体に染み入るような優しい味だ。
しかしどうしても食欲が湧かず、パン粥を二口、林檎を一口食べてスプーンを置いてしまった。
「すみません、せっかく持ってきてくださったのに」
「オフィーリアが気にすることないよ」
クロードは少し躊躇って「⋯⋯あんな悲惨な目にあった後なんだから」と呟いた。
「そうですね――色々ありましたから」
ここ数週間のうちに起こった様々な出来事が次々に浮かび上がる。
アリアたちが死んだこと。
軍楽隊だけでなく民間人も徹底的に殺されたこと。
バニラの遺体は見つからなかったが死亡認定されてしまったこと。
自分だけが生き残ってしまったこと。
気を失っているうちに何もかもが終わってしまっていたから、繰り返される尋問では何も答えられなかったこと。
「おれなりに少し調べてみたんだけど、おそらく今回も、その⋯⋯」
「ローゼンクランツの新兵器ですか」
淡々と言ったオフィーリアに驚きながらも「ああ」と、クロードは気まずそうにうなずいた。
「でも、いったい何のために?」
「これはおれの予想だけど、新型の威力を実際に使用することで確かめ、データを取るためなんじゃないかな」
「⋯⋯実験ってことですか」
そんなことのためにアリアやヴィオレッタ、アルフレード、サーシャは殺されたのか。想像したら胃から吐き気がせり上がってきて、とっさに口元を押さえた。
「⋯⋯すみません。また気分が悪くなって」
「いや、こちらこそ申し訳ない。おれが無神経だった」
オフィーリアはぼんやりとテーブルの上に置いているアリアたちの遺品を見つめた。
「アリアたちのお葬式に参列したんです」
オフィーリアは感情の読み取れない声音で口火を切った。
「アリアのご両親にはとても良くしてもらっていたのに、わたしはアリアを助けられませんでした。それなのにおふたりとも、わたしを責めないんです。
アリアのご両親だけじゃない。他の遺族の方もなぜかわたしを責めないんです。ひとりだけ生き残ってしまったのに。なんでかな、不思議ですよね
なにが『わたしの大切な人を守りたい』ですよ。無力のくせに。アリアの言った通りです。バカみたいですよね。
⋯⋯どうして。どうしてわたしなんかが、わたしだけが、生き残ってしまったんだろう⋯⋯」
「そんなこと言わないでくれ⋯⋯おれは、オフィーリアが生きていてくれてよかったと思っている。」
クロードは沈痛な面持ちでオフィーリアの肩に触れる。
オフィーリアもクロードの立場なら同じことを思ったぢろうな、と予想した。
「罪悪感に苛まれてつらいだろうけど、それは」
「ああ、いいんです。知ってますから」
オフィーリアは淡々とクロードの言葉を遮った。
「セラピストの方からも何度も何度も聞かされましたから。長いお休みを頂けましたし、お医者さんからの指示通り、薬を飲んでカウンセリングも受けています。だからクロードさんはわたしのこと、気にしないでください」
そう言いながらオフィーリアは睡眠導入剤の瓶から数錠取り出し、常温水と共に飲み込んだ。
「すみません、少し疲れました。眠りたいのでひとりにしてくれますか」
「あ、ああ。わかった⋯⋯邪魔してごめんな」
オフィーリアは再びベッドに横たわった。
薬の効果に加え、疲れもあってか、どっと眠気が押し寄せる。
毛布を掛け直してくれたクロードにお礼を言いたかったが、薬の効果のせいで喋るのも億劫だった。
頭まですっぽり掛け布団を被り、心地よいまどろみの中を泳いでいると、何とはなしにハンスが死んだときのことを思い出した。
あのときもつらくて、涙が枯れるのではと思えるほどに泣いて。
それでも死の事実をすんなりと受け入れられたのは、ハンスが最期に幸せそうに笑ってくれたかだ。
――それが今はどうだ?
悲しむどころか、未だにアリアたちが死んだ実感さえがなかった。きっと受け入れたくないんだ、とオフィーリアは心中でひとりごちた。
まだアリアたちが生きていると信じていたかった。
たとえ、腕だけになった姿や血塗れの遺品を見せられても、葬儀に出席しても、名前を呼べばひょっこり現れて、今までのように笑いかけてくれるんじゃないかという希望を捨てられない。
死を認められない。
認めてしまえば、オフィーリアの中の彼女らは今度こそほんとうの意味で死んでしまう。
あれからファゴットは吹いていない。たとえ手のケガがなくても吹いていないだろう。
ここにきたばかりのときのように、疲れていて楽器を吹く気力も残っていないわけではない。ファゴットを吹こうとすると、どうしてもバニラのことを考えさせられてしまうのだ。
(⋯⋯バニラさん)
あの稚い少女も殺されてしまったのだろうか。
自分の奏でるファゴットを聴きたいと言ってくれた。
繋いだ手は、落下する瓦礫からかばう際に抱きしめた体はとても小さかった。
聡明なバニラは、これから何にだってなれるはずだった。彼女には未来があった。
そして、ほんのわずかの間にそれを奪われてしまった。
ふたりで過ごした時間は短くても、オフィーリアはバニラのことが好きだった。
――もし、あのときに戻れるとしたら、今度は絶対に、あの小さな体を抱きしめて離さない。何があっても守ってみせる。
そんな夢想に浸りながら、オフィーリアは泥のような深い眠りに身を任せた。