私はバニラ
バニラアイスを渡し、オフィーリアも隣に座って食べ始めようとした瞬間「ああっ!」と声を上げた。
「そういえばわたしたち、まだ自己紹介してませんでした⋯⋯!」
どうしてこんな大事なことを忘れていたんだろう――オフィーリアは自分の間抜け加減に嫌気が差した。
「わたしはオフィーリア・フローベルです。オフィーリアでもフーでも、好きなように呼んでください」
「わかった。フローベル」
「えっ」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯オフィーリア」
「はい!」
名前を呼ばれ、オフィーリアは目を三日月型に細めた。
「あのっ、あなたのお名前は?」
「⋯⋯⋯⋯」
「? あ、あのー?」
少女は再び黙り込んだ。オフィーリアはらしくないその様子に首を傾げる。
彼女は長い長い沈黙の後、「バニラ」と言った。
「バニラさん」
「そう。バニラ。それが私の名前。あなたの好きなように呼べばいい」
バニラ。オフィーリアは何度もその名前を反芻する。
「とても素敵なお名前ですね! あの、バニラの花言葉はご存知ですか?」
クロードはバニラの花も育てていた。
オフィーリアはバニラといえばバニラビーンズというイメージを持っていたから、蔓状の植物を見せられたときは驚いた。
「つやつやしていて、瑞々しくてきれいな葉ですね」と言うと、クロードは「定期的に専用の洗浄剤で汚れを落としているんだ」と答えた。
「いつか花を咲かせたいんだ。あと数年はかかるけどね。でも、これだけ長い時間と手間隙をかけても、バニラの花は1日しかもたないんだ。オフィーリア、バニラの花言葉は知ってる?」
オフィーリアが首を横に振るとクロードは言った。「花言葉は――」
「永久不滅」
バニラは即答した。オフィーリアの口元が引きつる。
「ご、ご存知だったんですね。バニラさんは物知りですね、わたしは教えてもらうまで知りませんでした。ロマンチックだと思いませんか? たった1日しか咲かない花の花言葉が永久不滅なんて」
「オフィーリア。アイスが溶けている」
「あっ、いけない」
急いで溶けかけていた部分からスプーンで掬って食べる。
美味しそうにアイスを食べるオフィーリアに習い、バニラもひと匙掬って食べた。
「冷たい。消えた」バニラは呟くが「間違えた。溶けた」と言い直した。
オフィーリアはからからと笑った。
「アイスクリームですから! まるで初めて食べたような反応ですね」
「そう。初めて食べた」
バニラは同意する。オフィーリアは信じられないものを見るような目をした。
「えっ。あ、あの、美味しい、ですか?」
「美味しい?」
バニラは考えるように少し間を置いた。
「⋯⋯甘い。これは甘い。甘くて⋯⋯美味しい。それにとてもいい香りがする。これがバニラの香り」
「? バニラなんていろんなお菓子に入っているじゃないですか。クッキーとか、シュークリームとか、シフォンケーキとか。えっ、まさか」
「どれも食べたことはない。だが、どんなものかは知っている。作り方も」
オフィーリアはどこか悲しげに顔を歪めるが、すぐ笑みを作り、自分のアイスを掬って差し出した。
「チョコも美味しいですよ! はい、あーん」
バニラはオフィーリアの顔とスプーンを交互に見比べ、少し躊躇ったが差し出されたスプーンに口をつけた。
「⋯⋯こちらも甘い。けれど、同じ甘いでも違う。こちらの方がより甘みが強い。味の余韻が舌の上に長く残るように感じる」
「チョコとバニラ以外にも、たくさんのフレーバーがあるんですよ! フルーツが混ざったものは甘酸っぱいですし、砕いたクッキーを混ぜたものはサクサクした食感も楽しめます。キャラメルやチョコチップを練り込んだものも、わたしは大好きです。あっ、焼きたてのホットケーキに添えて食べると、温かいと冷たいが同時に味わえてとても美味しいんです!」
「――あなたといると、知識はあれど、私は何も知らないのだと思い知らされる」
「そっ、そそ、そんなアイスクリームくらいで大袈裟な⋯⋯。わたしはバニラさんが少し羨ましいです。知らないなら、これからたくさん初めての感動を経験できますから」
オフィーリアは優しく微笑んだ。
「次はどの味を食べましょうか? 迷っちゃいますけど、ふたりだと分け合えるから、それも楽しいですよね」
「次⋯⋯?」
「? え、えっと、わたし、変なこと言いました?」
オフィーリアは訊ねたが、バニラは「何でもない」と言い、話題を変えた。
「オフィーリアはどうしてレプリカントのパイロットをしているの」
「ど、どうしてそれを?」
オフィーリアはぎょっとした。服装から軍人だとはわかるだろうが、レプリカントに乗っているとは言っていないはずだ。
戸惑いを察したのか、バニラは「軍服を見ればわかる」と付け足した。
「そうなんですか?」
オフィーリアは羽織っている上着をまじまじと眺めた。
たしかに軍楽隊の華やかな軍服とは違う。それくらいはオフィーリアにもわかる。だが、レプリカントのパイロットの軍服も他のものと異なるとは知らなかった。
「お好きなんですか? 軍服とか、レプリカントとか」
「知識として頭に入っているだけ。好きではない」
「そうなんですか。でもすごいですよ! わたしそういうことはさっぱりで」
オフィーリアは眉を下げて笑った。
バニラは表情を変えず、もくもくとアイスを食べている。その姿を見ていると一緒に暮らしていた弟妹たちの姿を連想して、つい頭に手を伸ばした。
弟妹たちにしていたようにバニラの頭を撫でると、ぴたりと動きが止まる。オフィーリアは慌てて手を離した。
「あ、すみません! 弟と妹によくこうしていたものですから、つい。⋯⋯い、嫌でしたか?」
「そうじゃない」
バニラは言った。平坦な口調が乱れているように聴こえたのは気の所為だろうか。
「頭を撫でられるのは初めてだったから驚いただけ。嫌では、なかった」
「そうですか。よかったあ」
オフィーリアはほっと胸を撫で下ろした。
「相手によりますけど、頭を撫でられると、なんとなく温かい気持ちになりませんか」
「温かい気持ち?」
「はい。わたしの好きだった人が、こうして頭を撫でてくれたんです。⋯⋯でも、その人は先日亡くなってしまって」
そう言うとバニラの表情が僅かに変わった。
「亡くなった?」
「はい。熟練したレプリカントのパイロットだったんですけど、ローゼンクランツの新型機と交戦して⋯⋯。その人の墓地はこの街にあって、お墓参りしてきたんです」
オフィーリアははっとして口を噤んだ。
「こんな話、聞かされたって困りますよね。ごめんなさい、忘れてください」
バニラは首を振るだけで何も言わなかったが、今はそのほうがよかった。
「実はわたし、ファゴット奏者として軍楽隊に入隊する予定だったんです。でも、いろいろな手違いでレプリカントに乗ることになってしまって」
バニラはオフィーリアの話に耳を傾けている。相槌は打たないが、真剣に聞いてくれているのがわかった。
「ずっと夢だったんです。軍楽隊でファゴットを吹くのが」
オフィーリアは眩しいものを見るように目を細めた。