ユーモレスク
ブーツの踵が石畳を軽やかに鳴らす。
オフィーリアはグリーンスムージーを飲みながら、同じように食べ歩きをする人とぶつからないよう、ゆっくり歩を進める。
両サイドにはおしゃれなアンティーク食器や時計、色鮮やかな花など多種多様な屋台がずらりと並んでいて、眺めているだけでも楽しかった。
飲みきったカップをゴミ箱に捨て、次はどこに行こうか考える。
墓参りの後、街に出ると露店があちらこちらに並んでいてやけに活気があった。
何か催しがあるのかは知らないが、オフィーリアはこの際とことん楽しまねば、とあちこち見て回っていた。
街角ではモーツァルトの『弦楽四重奏第14番』を弾いている人たちがいた。足を止めて耳を傾ける。
あたたかく、うっとりしてしまう甘美な歌い回し――心から音楽を楽しんでいるのが伝わってきて、自然とオフィーリアの気分も華やぐ。
しばらく進んだ先の開けた場所ではドヴォルザークの『管楽セレナード』を演奏している人々が。
さらに進んだ先にある広場では『星条旗よ永遠なれ』をファゴット4本に、スネアドラムとピッコロを加えて演奏している人たちがいた。
オフィーリアはそわそわする気持ちを抑えつつ、羨ましげな視線を投げかける。
(わあ、懐かしい。いいな、わたしも混ぜてくれないかな。ファゴットがダメなら、スネアでもピッコロでも)
いや、やっぱりファゴットじゃないとだめだ。オフィーリアは首を横に振った。スネアドラムなら多少叩けるが、ピッコロはまったく吹けないのだから。
街頭スピーカーからはドヴォルザークの『ユーモレスク』の変ト長調第7番が流れている。ピアノ独奏ではなく、ピアノ伴奏を伴ったヴァイオリン独奏だ。オフィーリアはこちらの方が好みだった。
好きな曲に耳を傾けていると、自然と足取りも軽くなる。
浮かれきっている自身に小さく笑いを漏らしていると、足元に何かがぶつかり、オフィーリアはバランスを崩した。
「ぎゃっ!」
肩に掛けた楽器ケースをとっさに腕に抱え込んだせいで、バランスを取れず思い切り尻餅をついた。
ファゴットケースの重みもあってとても痛い。ケースは頑丈さがウリの特注品で、落としてしまっても平気なのだが、身体が勝手に動いてしまった。
痛みに呻きながら顔を上げると、燃えるように赤い髪に緑の瞳の少女が立っていた。
ファゴットに気をとられ足元がおろそかになり、ぶつかってしまったらしい。
「あっ、あなたは⋯⋯!」
オフィーリアはあんぐりと口を開けた。
数ヶ月前、基地から抜け出した夜に出会った幼い少女だった。服装は以前とまったく同じ。白いTシャツにカーゴパンツ。
彼女にとっても予期せぬ再会だったのだろう。わずかに目を見開いている。
少女はこの街の住人だったらしい。だからあの晩、あそこにいたんだ、とオフィーリアは納得した。
「すっ、すす、すみませんでした! あの、ケガはありませんか?」
「平気」
少女は簡潔に言った。
「あなたは」
(やっぱり、すごくきれいな声⋯⋯)
聞き惚れていると、彼女は重ねて「あなたは平気?」と訊ねた。
「えっ、あ、わたしですか? だ、大丈夫です! ほら、もう全然元気!」
オフィーリアはさっと立ち上がった。その際、臀部が痛んだがなけなしのプライドで堪えた。
「そう」と、少女は言い、ほんの少し躊躇って「⋯⋯私はあなたに、謝らなければならないことがある」と続けた。
表情に変化はないが、纏う雰囲気はどことなく気まずそうだ。
「謝らなければならないことですか?」
思い当たる節が見当たらず、オフィーリアは首を傾げた。
「⋯⋯あの晩、あなたが貸してくれたカーディガンを勝手に着て帰ってしまった」
「カーディガン?」
オフィーリアはここでロイヤルブルーのカーディガンの存在を思い出した。
「ああ、そんなのいいんですよ。あれはわたしが勝手に押しつけたようなものですし、気にしないでください」
「それだけじゃない」
少女はオフィーリアの目を見つめながら言った。
「先日、燃やしてしまった」
「え? も、燃やしたって、どういう⋯⋯?」
「そのままの意味。私のミスで燃やして、とても着られるような状態ではなくなってしまったから処分した」
その言葉にオフィーリアは青ざめた。
「あれは糸も特注の手編みのようだった。だから、同じものを返すことができない。⋯⋯ごめんなさい」
確かにあれはオフィーリアの手編みだ。養母に分けてもらい、肌触りのいい、素材の配合もオリジナルの上質な毛糸を使い、時間をかけて編んだものだった。
だが、そんなことはどうでもよかった。
「燃えたってことはケガは!? ケガはありませんか!? 火傷してしまったんじゃ⋯⋯!」
オフィーリアは少女の華奢な腕や首元に視線を走らせる。幸い火傷の痕は見当たらなかった。
「⋯⋯あなたは、カーディガンよりも私の火傷の心配をするの?」
「カーディガンはまた編めばいいんですから。あの、もしかしてあの後も気に入ってずっと着てくれていたんですか?」
少女は控えめにうなずいた。
「それならあの色とデザインでサイズがぴったりのものを編みましょうか? あれを編んだのはかなり前で、当時はまだ編むのが遅かったんですけど、今はもっと早く編めますから。あなたくらいのサイズなら尚更です。――それにしても、ケガがなくて本当によかったです。命は⋯⋯」
オフィーリアはハンスの姿を思い浮かべながら言った。
「命は替えがきかないものですから」
少女は囁くような声量で何かつぶやいたが、突然始まった金管八重奏の音色にかき消されてしまった。
「それに、わたしもあなたに謝らないといけないことがあります」
オフィーリアは心底申し訳なさそうな表情をする。「お姉さんのこと、わたしなりに調べてみたんですが、うちの基地にはオデットという名前の女性はいないみたいで⋯⋯」
「そう」とだけ少女は言った。
平然とした様子に、悲しませてしまうかも、と身構えていたオフィーリアは拍子抜けした。あまり期待されていなかったのかもしれない。
「あ、あの、おひとりですか?」
おそるおそる訊ねると、少女は無言でうなずいた。「えっと、これから用事とか、あったりします?」
彼女は「予定はあるが、まだまだ先。時間はある」と答えた。
オフィーリアは破顔した。
「その、よかったら一緒に街を回りませんか? ひとりよりふたりのほうが楽しいですし! わたしが何でもご馳走しますから!」
これではまるで誘拐犯のような口ぶりだとオフィーリアは後悔したが、少女はわずかに眉をよせただけだった。
「⋯⋯理由がない」
彼女はこう言ってから、少し考えて付け足した。
「私にはあなたと行動する理由がない」
「えっ。り、理由、ですか」
その言葉にオフィーリアはうつむいた。
彼女の言うとおりだ。でも、どうしても彼女と一緒にいたかった。
もし、カーディガンを燃やした代わりに、と言えば素直に従ってくれるかもしれないが、それは絶対にしたくなかった。
少女はとてもきれいな声をしていた。オフィーリアはそれに似た声を聴いたことがあるような気がしてならない。
だが、誰の声に似ているのか思い出せなかった。もっと彼女の声を聴いていれば思い出せるかもしれない。それに、
「あっ、あなたの声が好きなんです!」
オフィーリアは勇気を振り絞って出して言った。
変質者と思われても仕方ない発言だ、と頭の冷静な部分で思う。
「私の声?」
「そうです! 前に会ったときからずっとそう思っていて。だからもっと聴いていたいんです。気持ち悪くて、失礼なことを言っているのはわかってます。けど、ほんとうにきれいで⋯⋯よく言われませんか?」
少女はかぶりを振った。
「そんなこと、初めて言われた」
「そうなんですか?」
オフィーリアは目を丸くする。
子ども特有の幼さを残しつつ、大人の女性のような美しさも併せ持つ。磨りガラスを思わせるような繊細な響きはまるで天使の声。これほどの美声の持ち主はなかなかないだろうに。
「あの、だから、その、一緒に」
おずおずと手を差し出す。
少女は感情の見えない緑の瞳で、オフィーリアの白い手のひらをじっと見つめた。
――やはり、こんな不純な動機ではだめだったろうか。緊張で汗が滲む。
恥ずかしくなって手を引っ込めようとした瞬間、一回り小さい手が載せられた。
「わかった。あなたと行動を共にする」
「えっ! あ、あの、いいんですか?」
「嫌ならやめる」
「あっ、違うんです!」
オフィーリアは花が咲くような笑顔で少女の手を握った。
「断られると思っていたから、びっくりしただけです――嬉しいです! ありがとうございます!」
オフィーリアは彼女の手を引きながら、まずどこから見て回ろうかと歩いてきた道のりを思い返した。
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それからふたりでいろいろな店を見て回った。
見て回った、というよりはオフィーリアが彼女を連れ回した、の方が正しいが。
子ども服の店に入り、オフィーリアはひとりはしゃぎながら、彼女にワンピースやブラウスを当ててみた。
素材がいいため、どれもよく似合っていた。オフィーリアは縫製や材質をきっちり見極め、ほんとうに良いと思った服は買ってあげようとしたが、「必要ない」とばっさり切り捨てられた。
次に楽器店に入ったオフィーリアはリード材を買い込んだ。
少女の、これまでに一度も楽器に触れたことがないという発言に、オフィーリアは死ぬほど驚いた。ギルデンスターンではとても珍しいことだ。
しかし知識は非常に豊富で、楽器の構造やメーカーなどには非常に詳しかった。
クロードとムゼッタへのお土産に、おいしそうな焼き菓子を買った。彼女にも買い与えようとしたが、やはり断られた。
おしゃれな雑貨屋に入り、今度こそはと、瞳の色と同じ緑のガラス細工がついたヘアピンをプレゼントしようとしたが、これも断られた。
少女と手を繋いでいると、わたしにもこんな小さな時期があったのだなあ、とオフィーリアはしみじみ感じ入った。
背丈だって30センチ以上低い。175センチのオフィーリアの胸下あたりに赤い頭がある。
そういえばオフィーリアがファゴットと出会ったのは、ちょうど彼女くらいの歳だった。
「たくさん歩きましたね」
オフィーリアは声を弾ませて言った。
「休憩しましょうか。ええと、あそこのベンチに座りましょう」
その言葉に少女はこくんとうなずいた。
その口数の少なさにすっかり慣れていたオフィーリアは、戸惑うことなく彼女の手を引いた。
ショッピングの間、彼女はほとんど喋らなかった。無視しているというわけではなく、単に寡黙なだけらしい。
だが、言葉が必要なときには簡素ながらもきちんと答えてくれる。
それに嘘を吐かない。オフィーリアは彼女のそういうところがとても好ましかった。
「ごめんなさい、あちこち連れ回してしまって。足は痛くありませんか?」
「大丈夫」
「よかったです」
オフィーリアはにこにこ笑いかけながらベンチに楽器ケースを置いた。
「それはファゴット?」
少女は訊ねた。
「は、はい、そうですよ。よくわかりましたね」
ケースの中身言ったっけ? とオフィーリアは首を傾げたが、彼女の前でリード材を購入したことを思い出した。それで察したのだろう。
視線を前方にやると、アイスクリームのワゴンを見つけた。オフィーリアの瞳が輝く。
「あっ、アイスクリーム食べませんか? わたし買ってきますから、ファゴット見ててください!」
「待って。私はいらな⋯⋯」
少女の言葉を最後まで聞かず、オフィーリアはワゴンへ駆けて行った。
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少女は無表情のままその後ろ姿を見送り、次に黒いファゴットケースを眺めた。
こんな高価なものを出会って数時間の相手に預けるなんて、あの人間は危機感が欠けている、と彼女は思った。
これまでの自分の行動を思い返してみても、自分はそこまで信頼されるようなことはしていない。ただ、ついてまわり、意見を求められれば答えた。それだけだ。
オフィーリアは両手にコーンを持って小走りで戻ってきた。
そして「はいっ! チョコレートとバニラ、どっちがいいですか?」と言いながら差し出した。
少女はアイスクリームではなく、オフィーリアの表情を観察する。
すると、本人も無意識のうちに視線が、ちらちらとチョコレートに移っていることに気づいた。
彼女は言った。「バニラにする」