最初の別れ
オフィーリアは口の細い如雨露から花立てに水を注ぐ。
「ふふ、これでよし」
持ってきた花束をバランスよく活けてにっこりと微笑んだ。
立ち上がり数歩さがってバランスを確認する。
思ったとおり、白い石と美しい紫の花はよく合っている。花はクロードが持たせてくれたものだった。
墓石にはハンスとポーシャの名前が刻まれている。
ポーシャの墓はエルシノア基地に最も近い街の外れにあった。だからハンスはあの基地から離れなかったんだろう。
「今日はクロードさんがホバーバイクを貸してくれたんです。最新式で、わたしが持っているのとは全然違うんです。とても静かだし、動きも滑らかで。その上、すごく軽くてコンパクトに畳めて」
オフィーリアは捲くっていた軍服の袖を戻しながら言った。
いつものようにラフな着こなしではなく、制帽を被り、第一ボタンまで留めネクタイをきっちり締めている。
「ハンスさん、ここはとてもきれいな場所ですね」
オフィーリアは辺りを見回しながら言った。
地面は緑の芝生に覆われていたし、敷地はピンクの花が咲く生垣にぐるりと囲まれていた。
閑静な場所にあるためか、時間の流れがゆったりとしているように感じられる。
「管理人さんが教えてくれたんですけど、ここは秋になると生垣のそばの樹木が紅葉して一斉に葉を落とすんだそうです。そして外側から内側にかけて、赤やオレンジの落ち葉と、芝生の緑できれいなグラデーションを作るんですって。それが秋の高く澄んだ空の色と合わさって、まるで絵画のようにきれいな光景になるんだそうです」
オフィーリアはやわらかく目を細めながらその景色を想い描く。
「これからはこんな素敵な場所でポーシャさんとずっと、一緒に眠れるんですね。ほんとうによかったです」
ハンスの遺体に縋りついて散々泣いたためか、あれからオフィーリアは涙を流さなかった。
薄情なのかもしれない。でも、あれほど幸福そうなハンスの声を思い出すと、不思議と心が安らぐのだ。
今、こうして墓標に語りかけているときも、まるで実際に会話をしているような穏やかな気持ちになれた。
ハンスはいつだって静かに話を聴いてくれたから余計にそう思うのかもしれなかった。
ここでなら――ハンスの前でならどんなことだって話せそうだ。
「⋯⋯わたし、これからどうしたらいいんでしょうか?」
オフィーリアはしゃがみ込んだ。
「このままレプリカントに乗り続けるべきなのか。それともいっそのこと退役して、どうにか軍楽隊に入る道を探すべきか」
それにしたってオフィーリアには、どうすれば今から軍楽隊に入れるのかわからなかった。
軍楽隊に入隊する条件は非常に厳しく、基本的に方法はひとつ。ギルデンスターン国立音楽院を優秀な成績で卒業し、入隊試験に合格すること。
オフィーリアは条件をすべて満たしていたものの、すでにタイミングを逃してしまっている。
プロのファゴット奏者になりたいのなら、他にも選択肢はある。
この国には軍楽隊には及ばなくても、数多の素晴らしいオーケストラがあるのだから、そこのオーディションを受ければいい。オフィーリアの実力ならばそれが可能だった。
「だけど、やっぱり軍楽隊がいいんです。それがわたしの目標でしたから」
そのために今まで突っ走ってきた。脇目も振らず、初めてファゴットに出会ったときに感じた想いを抱きしめながら。
その道のりはつらいものだった。国音に合格するまでも、入学してからも。
自分の技量の足りなさや周囲との軋轢。本番でのプレッシャー。入隊試験への不安。楽しいことばかりではなかった。
だが、軍楽隊に入ってファゴットを吹きたい。その意思は一貫としていたから、道はまっすぐだったから、多くの障害があっても迷わず前に進めばよかった。
これまで一本道を駆け抜けてきたのに、今は二股道に立たされている。それがオフィーリアを悩ませていた。
「それに、オデットのことが気がかりで⋯⋯」
ムゼッタにオデットの挙動について相談した。
ムゼッタが言うには――あくまで仮説だが、オデットに組み込まれているAIは、高度な自律的な思考を行えるらしい。
オフィーリアがコクピットで発した言葉や動き、心拍数、血圧、脳波などを読み取り、パイロットであるオフィーリアを守るための行動を起こしたのではないか、と。
その話を聞いたオフィーリアは思った。
「そんなの、まるで自我が⋯⋯心があるみたいじゃないですか。ムゼッタさんも驚愕していました。数十年前に造られたレプリカントとは思えない、って。
わたしムゼッタさんに頭を下げました。オデットの機能のこと、秘密にしてほしいって。決めるのはムゼッタさんですから、どうなるかは不明なんですけど。
――それと⋯⋯実は、テレポートのことだけは伏せてしまいました。勝手に機体のログも消してしまって。
オデットのあれはきっと、とんでもない技術ですよね。わたしなんかでもそれくらいわかります。
でも、わたしはオデットに愛着が湧いてしまっていて、取り上げられるのは嫌で⋯⋯、これが露見したらオデットと離れ離れになってしまう。よくないことだとは、わかっているんですけど⋯⋯。
もう少し、考えてみます。わたしはこれからどうするべきなのか」
オフィーリアは立ち上がり、ファゴットケースを肩に掛けた。名残惜しいがそろそろ行かねば。
このままだと、ずっとここにいたくなっていまう。
「お花は絶やさないよう、引き続き管理人さんにお願いしてきました。造花じゃ味気ないですもんね」
ハンスはポーシャが亡くなってから約二十年間、墓の管理と、花を供え続けるよう手配していたそうだ。
その役目はオフィーリアが引き継ぐことにした。
家族への仕送り、ファゴットのリードやオーバーホール等、必要経費を差っ引いても十分なほどの収入がある。
「ハンスさんにしてもらったことに比べたら全然たいしたことじゃありませんけど、わたしにできることはこれくらいしかないですから」
オフィーリアはぎこちない敬礼をした。
「それじゃあ、行きますね。時間を見つけてまた来ます。今度はクロードさんとムゼッタさんも一緒に」
そう言って踵を返し、さっさと出口に向かう。一度も振り返らなかった。
涼風に吹かれながらホバーバイクで坂を下ると、やわらかな草が波打つように揺れた。
やっぱり泣いてしまうかも、と思っていたのに少しも涙は出なかった。
それどころかすがすがしくすらある。ハンスが最期に幸せそうに微笑んでくれたから、こうやって思い残すことなく別れを告げられる。
もしも今際の際にオフィーリアが自分の気持ちを優先してしまっていたら、未だに悲嘆に暮れていただろう。
「さよなら、ハンスさん」