期待と希望
クロードの部屋はオフィーリアに与えられている部屋の数倍の広さだ。
備え付けか自前かは知らないが、調度品も高価そうなものばかり。天井に吊り下げられたシャンデリアははスズランの形をしていた。グランドピアノまで置いてある。
だが、何よりオフィーリアの視線を釘付けにしたのは、壁一面を覆い尽くさんばかりの植物たちだった。
棚にはプランターがずらりと並べられていて、そのどれもがかわいい花をたくさん咲かせている。
2メートルほどの高さの透明なガラスケースの中には暖色の照明が灯り、その中にも花が咲き乱れている。なるほどこれは小さな温室なのだ。
その隣にある、遮光カーテンに覆われたケースの中にも花が咲いているに違いない。角に置かれた大きな水槽にも花が咲いている。花園に迷い込んだような錯覚を覚えるほどだった。
物珍しさゆえに、オフィーリアは無遠慮に室内を見回すが、クロードが気分を害した様子はなく、むしろ誇らしげだった。
「す、すみません! 無遠慮に人の部屋をじろじろと……」
「いいんだよ。そこに座ってて、今お茶を持ってくるから」
クロードはオフィーリアを白緑色のソファーに座らせるとキッチンへ引っ込んだ。
オフィーリアは自分の存在感を消すように身を縮めながら、なんとなく数歩先に鎮座しているグランドピアノに目を向けた。カバーがかかっているが、名だたるメーカーのグランドピアノだとわかる。おそらく自前だろう。
ピアノを見つめていると、心臓が締めつけられるように痛んだ。
「気になる?」突然、キッチンから顔を覗かせたクロードに訊ねられ、オフィーリアの肩が跳ねた。
「え、ええ、まあ……」
オフィーリアは目を泳がせながらうなずいた。国音の入試や授業で何度も弾いた楽器だ。ファゴット程ではないが思い入れはある。
「うちの両親が根っからのクラシック音楽家 好きでね、無理やり持たされたんだ。ちょっとだけ弾いてみせようか」
クロードはピアノのカバーを取り払い、鍵を差し込み、大屋根を開けた。ピアノ椅子に座り、鍵盤蓋を開け、鍵盤に指をのせれば、クロードが精悍な顔立ちをしていることもあり、その姿はまるで一流のピアニストを描いた絵画のようだった。
クロードは深々と息を吸い込み、そして奏で始めた――不協和音を。
(えっ、え?)
オフィーリアは自分の耳を疑った。弾いているのはピアノを習いたての子どもが弾くような曲なのに、まるでふざけてデタラメに弾いているようではないか。しかし、ピアノと向き合うクロードの表情は真剣だ。額に汗が滲んでさえいる。わざとは思えない。
ピアノを始めたばかりの子どもの発表会より悲惨な演奏を終えたクロードは汗で濡れた顔をハンカチで拭いながら苦笑した。
「どう? ひどいもんだったろ? 幼い頃からわざわざ高名な講師を呼んでピアノとチェロを習わされたんだけど、おれには音楽の才能がちっともなかったんだ。これでもまだマシな方で、チェロは比べ物にならない程ひどかった」
「こ、こ、これ以上……ですか」オフィーリアは先ほどの演奏を思い返しながらつぶやいた。
「そう。親はプレッシャーをかけてくるし、チェロの講師はものすごく厳しいしで、それ以来音楽というものが苦手になってしまって。学校の授業も全部サボっていたくらいなんだ」
オフィーリアは口を開きかけたが、その前にクロードは再びキッチンへと消えていった。
自分がピアノに興味を向けたせいでクロードにつらいことを思い出させてしまった――オフィーリアは陰鬱な気持ちから逃げるように、視線をテーブルの上へと移す。脚が四つ葉のクローバーのかたちをした、かわいいガラスのテーブルの上には、白い陶器の花瓶には赤、白、オレンジ、ピンク、青、紫の花が活けてある。
「きれいなポピーですね」
クロードはテーブルにティーセットを置きながら目を丸くした。
「ポピー? それはアネモネだよ」
クロードは向かいのソファーに座ると、アネモネの隣にポピーの写真を投影し、ふたつの違いを丁寧に説明をしてくれた。
「そ、そうだったんですか……。白いアネモネを贈られたことが何度かあるんですが、ずっとポピーだと勘違いしていて」
「アネモネには色んな花言葉があるけど……白いアネモネの花言葉は希望、期待、真実だ」
「希望、期待、真実……」
「贈り主はフローベルさんに希望を託していたのかも知れないね」
クロードはそう言いながら、青々とした葉が揺れる透明のポットから、淡い色の液体をグラスに注ぐ。昨日摘んばかりのハーブを使った、水出しのフレッシュハーブティーだそうだ。
「……おいしい」
口当たりが良く、新鮮なハーブの香りが鼻から突き抜ける。全身に清涼な風が吹き抜けるような爽やかさ味わいに表情がほどけた。
「よかった。気に入ってもらえたみたいだね。お菓子もあるから良かったらどうぞ」
クロードは青い花が描かれた陶器の入れ物の蓋を取った。中にはパステルカラーの花びらが入っている。
「これは……お花、ですか?」
「花の砂糖漬けだよ」
オフィーリアは手のひらにのせてしげしげと眺めた後、勧められるがままに口に運んだ。砂糖漬けというから甘ったるい味を想像していたのだが、思っていたよりもすっきりとした甘さだ。
「これもおいしい。わたし、お花を食べたのは生まれて初めてです」
「他にも」クロードはオフィーリアの斜め後ろを指差した。「あの棚に並んでいる花は全部食べることができるんだ。砂糖漬け以外にもいろいろな方法で」
「デュトワさんはお花が大好きなんですね」
花のことを話すクロードの瞳には純粋な子どものような輝きがある。クロードはうなずき、それから急に改まった調子で言った。
「ああ。――だから話してみたかった。フローベルさんはおれと同じだから」
オフィーリアは首を傾げる。発言の意味がよくわからなかった。
クロードは一呼吸置いて言った。「フローベルさんも望んでここに来たわけじゃあないんだろう」
その言葉にオフィーリアの身体がびくりと揺れる。
「ど、どうして、知って……?」
「フローベルさんはここでは有名人だから。あの国音を卒業し、軍楽隊の入隊試験にも合格したのに、レプリカント部隊を志願した変わり者だって」
「っ、違います!」
オフィーリアは激昂した。そんなふうに思われているなんて我慢ならなかった。
「わ、わ、わたしは! こんなところなんか来たくなかった! 軍楽隊に入りたくて、そのためにずっとずっと頑張ってきたんです! 民間のオーケストラに入団しなかったのも、い、いつか、何かの間違いだったんだって、わかってもらえて、軍楽隊に入隊させてもらえるかもしれない。そう、思ったからで……」
オフィーリアは膝に乗せていた手をかたく握りしめた。そうしなければ今にも声を上げて泣いてしまいそうだった。
ふたりの間に沈黙が訪れた。クロードがそれを破ったのはしばらくしてからだった。
「子どものときから花が好きだった」クロードは言った。「男のくせに、とからかわれたことは何度もあったけど、そんなこと、おれはちっとも気にしなかった。好きなものは好きなんだからしょうがないし、それに、心の底から何かに夢中になっている最中は、誰に何と言われようと平気なものだから。わかる?」
オフィーリアがうなずくと、クロードは嬉しそうに口元を綻ばせた。
「おれの将来の夢は花に携わって生きていくことだった。研究者でも、農家でも、花屋でも、フラワーコーディネーターでもいい。花に関わっていけるのなら何でもよかった。だが、そういう訳にもいかなかった」
クロードの微笑みが自嘲に変わった。
「両親が許してくれなかった。おれは次男だし、兄がいるから自由にできると思っていたんだが、両親はおれを跡取りに考えていたんだ。花なんてくだらないと散々言われたよ。無理やり士官学校に放り込まれたのも、今ここにいるのも、おれを矯正するためなんだろうな」
無意識のうちに眉間に力が入る。クロードの境遇は今の自分とどこか似通っていると感じた。
「でも、ここも案外悪くないんだ。今もこうやって自由に花を育てられているし、それに、偉い人はデュトワ家の子息だからって気を使ってくれるんだ」
クロードはにっこりと笑ってみせたが、無理をしているのは明らかだ。オフィーリアは悲しくなった。
「フローベルさんの事情を知ってすごく驚いた。国音を卒業して、軍楽隊の入隊試験にも合格したような人がこんな場所にいると思ってもみなかったから。おれと同じような境遇なんだろうなと思っていて、やはりその通りだったから。やりたいことが叶わず、望まない環境に押し込まれて。……フローベルさんなら、おれの気持ちをわかってくれるかも知れない、共感を得られるかもと期待してた。だから、話をしてみたかったんだ」
ごめん、と一言付け加えてクロードは口を閉じた。オフィーリアは何と言っていいかわからず、クロードから顔をそらした。重々しい空気が室内を支配する。オフィーリアは目を伏せたまま、この状況をどうすべきか悩んでいた。
真っ先に強い人だ、という感想を持った。
こんなふうに、他人に対して己の本音を、弱さを打ち明けるのはとても勇気のいることだ。そしてクロードにだけ、弱音を語らせるのはずるいことだとオフィーリアは考えた。
「……す、すみません」逡巡した後、オフィーリアはすっくと立ちがった。「ちょっと待っててください」
それだけ言うと、オフィーリアはクロードの呼び止める声も無視して外へ飛び出した。向かうのは自室。慌ただしく部屋に入り、ファゴットケースのショルダーストラップを引っつかむと、全速力で来た道を戻った。
クロードはぽかんとしたまま、オフィーリアの一連の行動を見ていた。それからオフィーリアの肩にかかっているケースを指差して訊ねる。
「それ、もしかしてファゴット?」
「そうです。あ、あの、よかったら」オフィーリアはいったん言葉を区切った。音楽嫌いのクロードにこんな提案をするなんて馬鹿げている。でもとにかく、そうしなければいけないような衝動に駆られたのだ。
「一曲、演奏させてもらえませんか。お茶のお礼に……あと、それから……わ、わたし、デュトワさんに伝えたいことがあるんです」
「伝えたいこと? ファゴットで?」
「ふ、ファゴットで」
クロードは目を瞬く。オフィーリアは内心混乱していた。
(わたしは何を言っているんだろう? デュトワさんに伝えたいことなら、なんとなくだがあるような気がする。だけど、それが何なのか自分でもよくわからない……)
「それじゃあ、お願いするよ」少しの間の後、クロードは落ち着いた声で言った。
オフィーリアは大きく目を見開くと、何度もうなずいた。
すぐにケースを床の上に置いて、リードを水に浸けている間にファゴットを組み立て始める。クロードはオフィーリアの隣に移動してその作業を眺めた。
ファゴットは4つに分解される。ダブルジョイント、テナージョイント、ロングジョイント、ベルジョイントである。
オフィーリアはまず、大小ふたつの穴が空いているダブルジョイントを手に取った。持った手がキーに触れないようにしながら、小さい方の穴にテナージョイントを差し込んだ。それから隣の少し大きい穴にはロングジョイントを差し込み、留め金でテナージョイントと固定した。次にロングジョイントにベルを差し込む。
「キーがたくさんあるな……。1、2、3、4……うわっ、左親指だけで10個!」クロードは口元を引きつらせた。「恐ろしいな……。それで完成? こうやって実物を間近で見ると、思っていたより大きく感じるな」
「だいたい1.3mほどですから。管をふたつに折り畳んだ形状なので、全長はその倍になります。――ええと、あとはこのハンドレストという右手を支えるパーツをダブルジョイントに取り付けて、ネジを締めて固定します。それから、」
オフィーリアが細い銀色の管を手に取るとクロードはにやりと笑った「それは知ってる! リードだろ?」
「す、すみません。これはボーカルです……」オフィーリアは気まずそうにテナージョイントにボーカルを差し込んだ。
「そっか……」
「あっ、で、でもこれにリードを取り付けて吹くんですよ! ほら、こうやって」
オフィーリアはリードケースから、青い糸を巻きつけたリードを取り出し、ボーカルに取り付けた。首に楽器を支えるためのストラップをかけ、それの留め金をファゴットの金具に引っかけた。立ち上がってストラップの長さを、口を開けたときにリードが入る位置に微調整した。そしてファゴットを左斜めに構えて見せた。左手は胸の前辺り、右の手は右の腰辺りに位置する。
一言断ってから、オフィーリアは手早く音出しとチューニングを済ませる。
――やはり、音の鳴りも指の回りも良くない。オフィーリアは心臓の鼓動で胸が破れてしまいそうな感覚に襲われた。
……緊張がさらに音色を不安定にする。今すぐ基礎練習を徹底的にやりたい衝動に駆られたが、クロードを待たせるわけにはいかない。
自分が言い出した癖に、貧血にも似た感覚に足が竦む。そうだ、この基地にやって来て初めてファゴットを吹くのだ。ファゴットを始めてからほとんど毎日練習していた。こんなに長い期間吹かなかったのはこれまでなかった。
オフィーリアは軽くお辞儀をし、楽器を構えて、じっとファゴットへと意識を傾けた。その瞬間、室内の空気がピンと張り詰め、クロードは思わず息を殺した。オフィーリアは数秒瞑目したのち、リードをくわえ、息を吹き込んだ。
クロードが目を見開く。オフィーリアが吹き始めたのは、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番プレリュードだった。
チェロの聖典を、ファゴット独特の、あたたかく柔らかさのある、豊かな響きの音色で奏でるオフィーリアは、これまでのようなおどおどした弱々しさはなかった。聴いている方も背筋がピンと伸びるような堂々とした空気を纏い、それでいてとても幸せそうだった。
実際、オフィーリアは幸せでたまらなかった。弦楽器の曲であるため、なるべく曲を途切れさせないタイミングで必死になってブレスを取りながらも、一音吹き鳴らすたび、多幸感と充足感が全身に染み渡るようだった。演奏に集中しながらも、オフィーリアは頭の片隅で、ふと、国音の入学試験を思い出した。
(あのときもすごく緊張して。でも、わたしはファゴットが好きだから、愛しているから――わたしには夢があったから頑張れたんだ)
約2分半の短い演奏が終わった。リードから口を離すと同時に、クロードが静かに泣いていることに気づき、さあっと青ざめた。
「すっ、すみません……! トラウマだって言っていたのに、わ、わたしが無理を言ってしまったばっかりに」
「違うんだ」クロードは涙まじりの声でそう言いながら、何度も首を横に振った。「悲しくて泣いているんじゃないんだ。……感極まってしまって」
「か、感極まる? えっ、何にですか?」
「フローベルさんの演奏以外に何があるって言うんだ!」クロードは涙を拭いながら強く言った。「フローベルさんの演奏を聴いて確信した。君はまだ夢を諦めていないってわかったよ」
「……そんなこと、ないです」
オフィーリアはテーブルの上の花瓶に視線を移した。
瑞々しく、色鮮やかなアネモネ。これを育てるのにどれだけの労力を費やしたのだろう。
アネモネだけではない。他の花々に対しても、水やりの回数とか、温度管理とか、肥料とか、土の配合とか、日当たりとか、それぞれ違った育て方が求められるのだろう。クロードはそれを日々の訓練と並行しながらこなしている。
「わたし、ここに来てから一度もファゴットを吹いていなかったんです。一度もですよ? 自分で選んだくせに、毎日泣いてばかりで……。逃げていたんです。デュトワさんはわたしたちは同じような境遇だと言いましたけど、全然そんなことないんです。こうやって一生懸命、花を育てているデュトワさんと同じにしていいような人間なんかじゃないんです、わたしは」
「いや、それは違う」
クロードは強い口調で否定した。
「おれは士官学校を経ているけど、フローベルさんはそうじゃないし、慣れないことばかりで余裕がなかったんだ。自分を責めるのは間違ってる。――おれ、こうやって花を育てながら、心のどこかで諦めていたんだと思う。親に逆らわず流されていれば楽だし、こうやって趣味で花を育てていられれば、もうそれでいいか、って。だけど、胸にぽっかり穴が空いたような虚しさはずっと消えなかった。……ファゴットを吹くフローベルさんはとても幸せそうだった。そうだよな、好きなことをしているときって、楽しいものだよな。おれ、そういう気持ちを見失っていた。ありがとう、フローベルさんの音色が気づかせてくれた。簡単には叶わないだろうし、今すぐにってわけにはいかないけど、やっぱり自分の夢を諦めたくない」
クロードはオフィーリアの元へ歩み寄ると、手を差し出した。「フローベルさん、おれと友達になってくれないか?」
オフィーリアははっとして顔をあげた。
「フローベルさんとなら、これから頑張っていける気がするんだ。――フローベルさんはどうする? 自分の夢、諦める?」
「わたしは……」
久しぶりに吹いたファゴットは楽しかった。欠けていた体の一部を取り戻したような、そんな感覚がした。それほどにまで大好きなものを、どうして諦めることができるだろう?
オフィーリアは差し出された手をおそるおそる握り返した。
「わっ、わたしも、諦めたくないです! だから、あの……よろしくお願いします!」
「うん、こちらこそよろしく。なあ、せっかくだからフローベルさんのこと、オフィーリアって呼んでもいい?」
「えっ、ええと…………は、はい……」
「オフィーリアもおれのことクロードって呼んでほしいな。友達になれたんだから」
「で、でも、そんな、いきなりはちょっと、その……」
口ごもっているとクロードの眉が悲しげに下がる。オフィーリアは慌てて「く、く、クロードさん……」と消え入りそうな声音で名前を呼んだ。
クロードは照れ臭そうに、頬を赤く染めてはにかんだ。
「ありがとう、オフィーリア」