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天使のレプリカ  作者: 涼佳
23/56

ポーシャの指輪

「⋯⋯⋯⋯」

「⋯⋯⋯⋯」

 無言が続く。オフィーリアは時折ハンスの横顔を窺い見ながら、必死に会話の糸口を探していた。

(き、気まずい⋯⋯でも今日のこと、謝らないと⋯⋯)

 オフィーリアが口を開きかけた瞬間、

「軍楽隊に転任したいとは思わないのか?」

 ハンスの唐突な問いにオフィーリアは息を詰まらせた。

「少し聴いただけのおれでもわかるほど、いい演奏だった。あれだけのものを持っているんだ、こんな場所で燻ぶっているのは勿体無さすぎる」

「わ、わたしも、できることならそうしたいです」

 オフィーリアは唇を噛んだ。

「でも、いくら抗議しても聞く耳もってくれなくて、どうしようもなくて」

「⋯⋯軍上層部に目を付けられているということはないか?」

「えっ、じ、上層部?! そんなこと、絶対ありません! わたしはただの一般人ですよ」

 慌てふためくオフィーリアとは対照的にハンスは落ち着き払っていた。軽く目を細めて、思考を巡らせているようでもある。

「今のところ、軍楽隊に異動になりそうもないですし⋯⋯。だから、今はとにかくここでできることを頑張ろうって、そう決めてたんですけど、全然だめで⋯⋯。ハンスさんにもクロードさんにも迷惑をかけてしまって、も、申し訳ないです⋯⋯」

 陰鬱な心持を隠すように膝を抱え直す。涙がこぼれそうになって、ズボンを強く握り締めた。

 ハンスは黙ったまま、懐からスキットルを取り出した。それをオフィーリアに差し出す。

「ウイスキーだ。飲むか?」

「あ、ありがとう、ございます」

 反射的に受け取ってしまう。キャップを開けると、スモーキーなピートの強い薫香が漂ってくる。

 ハンスはもうひとつ、自分の分のスキットルを手に取っている。

「ウイスキーは嫌いか?」

 オフィーリアは首を横に振った。

 胸が温かいもので満たされる。慰めてくれている――勘違いかもしれない。

 でも、その不器用な気遣いが今は何よりも嬉しかった。

「⋯⋯いっ、いただきます!」

 暗い気持ちを払拭するように一気に煽ると、ハンスが狼狽しながら「お、おい!」と言った。

 ウイスキーは焼けるような喉越しを伴って食道を滑り落ちる。上等なウイスキーだ。数ヶ月ぶりのアルコールは格別な味がした。

「すごくおいしいです! あっ、すみません! こんないいウイスキーを、もったいない飲み方をしてしまって」

「いや、好きに飲むといいが⋯⋯」

 けろりとした様子で笑うオフィーリアに、ハンスは目を丸くした。

「実はわたし、お酒が大好きなんです! おいしいお酒なら何でも好きですけど、ウイスキーとか、ウォッカとか、テキーラとか、ジンとか、特に蒸留酒が好きで」

「なら、いい」

 ハンスは安堵するように口元を僅かに緩めた。

「気分は悪くないか?」

「大丈夫です! わたし、いくら飲んでも酔わない体質なので。学生時代は練習とかコンサートの後とか、頻繁に飲み会やパーティーがあったんですけど、飲み比べでは一度も負けたことないんですよ!」

 ハンスが「意外だな」と呟く。オフィーリアは「よく言われます」と苦笑した。

「おいしいウイスキー、ほんとうにありがとうございました。次はわたしがとっておきのお酒を用意しますね!」

 今度はテキーラが飲みたい。テキーラとライムと塩が、ぐるぐるとオフィーリアの頭の中で回り出す。

「あ、そうだ」

 オフィーリアはポーチの中から目的のものを手のひらにのせてハンスに差し出した。

 クロードの両親からのプレゼント――カラフルな包装紙に包まれたチョコレートだった。

「ウイスキーのおつまみといえばチョコレートですよね。甘いものは大丈夫ですか?」

「ああ」

 ハンスは包み紙を破かぬよう丁寧に剥がして口に放り入れた。

 むぐむぐと咀嚼し「ヘーゼルナッツか」と呟いた。

 がっしりとしていて、いかにも歴戦の軍人といった風貌のハンスがチョコレートを頬張る姿は、かわいらしいとオフィーリアは思った。本人には口が裂けても言えないが。

 ごつごつした古傷だらけの指がもうひとつチョコレートを摘む。

「⋯⋯あ、」

「どうした?」

 オフィーリアの口からぽろりと零れ落ちた言葉を、ハンスは敏感に拾い上げる

――目が反らせなかった。ハンスの左薬指にはめてある指輪から。

「あ、いえ、その⋯⋯きれいな、指輪だなって」

「? そうか?」

 ハンスはしげしげと薬指を眺めた。

 もともとは美しいプラチナであったろうそれは、長い年を経て細かな傷だらけになり、くすんで本来の輝きを失っている。

 それに加えて、あまりにハンスの手に馴染んでいたためまったく気がつかなかった。

「ゆ、指輪するなんて、ハンスさんっておしゃれなんですね! 少し意外です」

 オフィーリアは絞り出すように願望を口にした。耳の奥で警鐘がガンガン鳴っている。

 これ以上この話題を掘り下げるのはよくない、何か別の話題にしなければ。そう思うのに口が勝手に動いてしまう。

「これはマリッジリングだ」

 その言葉を聞いた瞬間、オフィーリアの体感時間は止まってしまいそうになった。左薬指につけている時点で、エンゲージリングかマリッジリングだということは察しがつくはずなのに。

「は、ハンスさん、ご結婚なさってたんですね。こういう場所にいると、ご家族になかなか会えなくて寂しいですね」

 オフィーリアはなぜか勝手に沈んでいく気分を持ち上げるように無理やり声を張り上げた。

 ハンスはほんのわずかの間、目を伏せた。

 それからシャツの衿元に手を入れとあるものを引っ張り出した。

 黒ずんだシルバーのチェーン。その先にはハンスがはめているものより一回り小さい指輪が通っている。

「⋯⋯あいつは、――ポーシャは死んだ」

 さらりとしたハンスの発言に、オフィーリアは自分の顔に亀裂が入ったような気がした。

「す、すみません。わ、わた、わたし、無神経なことを⋯⋯」

「謝らなくていい。もう20年以上前のことだ」

 ハンスはそう言ってオフィーリアの頭を撫でた。大きく体温の高い手の感触はオフィーリアざわついた神経を落ち着かせる。

「ポーシャと出会ったのは、おれがまだ整備士だった16の時。あいつは5つ歳上だった」と、ハンスは言った。

「ポーシャは当時おれが配属された基地の中で、若いながらも最も優れたパイロットだった。歳が近いこともあってあいつはおれの教育係になった。おれがパイロットになった経緯は知っているか?」

「はい⋯⋯ムゼッタさんから聞きました」

「おれはポーシャから徹底的にレプリカントの操縦を叩き込まれた。あいつの教え方はスパルタだったが、おれは短期間のうちにシミュレーターで好成績を残せるようになった。

 仲間は口々に褒めてくれたし、おれ自身も実戦に臨める自信を持てた。

 だが、ポーシャは煮え切らない様子で、おれはそれが不満だった。当時のおれは誰よりもポーシャに褒めて貰いたかったからだ。

 だから、初めての実戦のとき、これはチャンスだと思った。ポーシャに自分を認めさせるチャンスだと。

 だが、結果は散々なものだった。おれは敵を追い詰めた。思っていたより呆気なかった。どいつもこいつもポーシャより弱かったからな。

 調子に乗って遊び半分に手足をもぎ取り、後はコクピットを撃ち抜くだけだった。

 そのとき、急に身体が動かなくなった。恐ろしくなったんだ。搭乗ハッチの向こうには生身の人間がいるんだと思うと、指先ひとつ動かせなかった」

 オフィーリアは目を見開いた。

 自らの手足を動かすようにレプリカントを操縦する今のハンスしか知らず、そういう時代があったことは想像し難かった。

「危うくこっちがやられかけたが、ポーシャが代わりに止めを刺した。

 失意のうちに帰投したおれにポーシャはこんなことを言った。

――逃げられるのなら、いくらでも逃げてもいい。周りを頼って、利用すればいい。自分ができる限り助ける。だが、逃げて逃げて逃げて、それでもいつか、逃げ切れなくなるときが来る。そのとき、後悔しないよう行動してほしい、と。

 次の戦闘でおれは初めて敵機を撃墜した」

 オフィーリアは言葉を発しようとしたが、何を言っていいのかわからず、唇を震わせるだけに終わった。

 ハンスはオフィーリアの肩を軽く叩いた。

「だからオフィーリアも逃げたらいいんだ。おれが出来る限りサポートするし、そのことについて何ら罪悪感を持つ必要もない。今はただ、自分が生き伸びることだけを考えればいい。それだけを言っておきたかった」

 ハンスは立ち上がると足早にドアの方へ歩き出す。オフィーリアは思わずその後ろ姿に声をかけた。

「あの⋯⋯ひとつだけ、訊いてもいいですか?」

 ハンスは振り返らずに「ああ」と答えた。

「ポーシャさんはどうして亡くなったんですか?」

 オフィーリアは目を伏せながら訊ねた。

 口内に大量の唾液が滲み出るのに、うまく飲み込めなかった。喉がカラカラに乾いていた。

「おれを庇って死んだ」と、ハンスは言った。

 オフィーリアの恐れていた怒りや悲しみの反応はなかった。淡々としていて、感情による揺れのない言い方だった。

「籍を入れてすぐのことだ。まだ指輪も渡せていなかった」


 ハンスが立ち去ってだいぶ経った頃、オフィーリアは座ったまま後ろに倒れた。

 胸の奥で音楽が鳴っていた。たくさんの楽器が、指揮者のタクトも無視して好き勝手なメロディーを奏でている。不協和音。

 オフィーリアは満天の星を眺めながらハンスとポーシャの姿を思い描いた。

 16歳のハンスは、そしてポーシャという女性はどんな人だったんだろう。ハンスが好きになるくらいなんだから魅力的に違いない。

 ふたりの過去を想像すると、なぜかえも言われぬもやもやした気持ちに襲われたが、それと同時にハンスのことを本人の口から聞けて良かったという思いもあった。

 オフィーリアはまぶたを閉ざした。

 床は冷たくて硬いけど、このまま眠ってしまおう。そうすればこんな訳のわからない感情はすぐに消える。そう自分に言い聞かせた。

――朝になればきっと。

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