ドレミファゴット
――眠れない。オフィーリアは静かにため息を吐くと、ゆっくり上体を起こした。
ホルンを象った時計は12と1の間を指している。
疲労を翌日に持ち越さないよう、はやく眠らなければいけないのに目は冴えきっていた。
ルームウェアの上に厚手のパーカーを羽織り、革のカバー付きの楽器ケースを肩に掛けた。譜面台やメンテナンス用品などが入ったトートバッグを持ち、音を立てないよう注意を払いながら外に出た。
人の気配がひとつも感じられない廊下を進む。
時折、靴底が床と擦れてキュッと音がするものだから、そのたびにびっくりして立ち止まった。
そんなことを繰り返しながら、ようやくオデットの眠る格納庫へたどり着いた。出入口のパネルを操作し、人ひとりが入れるだけの隙間を作って中へ滑り込んだ。
「こんばんは、オデット」
今夜は新月だった。そのため夜空を流れる天の川がはっきりと目視できる。
その星明かりに照らされた片腕のオデットは、仄々と発光しているようだった。
何度見てもその美しさにはうっとりしてしまう。 流麗なボディラインも、輝かんばかりの純白の塗装も。
戦闘用のレプリカントに必要なものなのかはわからないが、オフィーリアはそういう部分に製作者のこだわりを感じられてとても好きだった。
そんなことを考えながらオデットを眺めているうちに、むくむくと湧き上がってきたのは悲しみだった。
装甲の傷をそっと撫でる。
こんな、芸術品みたいに美しいオデットを戦いに用いるなんて、なんて残酷で、なんて恐ろしいことなんだろう。
(⋯⋯いや、違う)
オフィーリアは膝を抱えて座り込んだ。
(オデットを戦いの道具にしたくないなんてただの言い訳。本音はわたしが殺したくなかったんだ。自分がしたくないことを、クロードさんやハンスさんに押し付けてしまった⋯⋯)
いったん沈み込むと、悪い方向に深く深く沈むばかり。オフィーリアは首をふるふると横に振ると、最低限の明かりをつけた。
気を紛らすようにてきぱきとファゴットを組み立てて、ファゴットスタンドに立てかける。譜面台にチューナーやメトロノームが内蔵された電子譜面を載せた。
そのときだった。出入り口の方から何かぶつかるような音が聴こえて、オフィーリアは身を硬くした。
激しく脈動する心臓を押さえながらドアの隙間を見つめていると、人影がするりと侵入してきた。
「は、ハンスさんでしたか⋯⋯」
オフィーリアは安堵した。
ハンスは軽く手を上げる。仏頂面を少しやわらかくして、オフィーリアのそばへ歩み寄った
「これから練習するのか?」
「はっ、はい。眠れなくて」
「良ければ聴いていってもいいか?」
ハンスの言葉にオフィーリアは動揺した。
「そ、それは構いませんが⋯⋯わたし、基礎練習を徹底してするつもりで、」
オフィーリアは簡単に基礎練習の内容を説明した。
ひとつの音を長く、真っ直ぐ吹き伸ばすロングトーンや、スケール(音階)練習。タンギング――舌を使って息の流れを止めて、舌を離すこと――や、エチュード(練習曲)など。
「ですから、ハンスさんを退屈させてしまうんじゃ⋯⋯」
おどおどしながらそう言うと、「迷惑か?」と訊ねられ、オフィーリアは慌てて首を振った。
ハンスがいるのは少し緊張するが、その程度で集中力を欠くのはあまりに未熟すぎる。
いつもどおりにやればいい、と自分に言い聞かせながらファゴットを構える。
オフィーリアは宣言したとおり、念入りに基礎練習をこなした。
一度ファゴットに意識を傾けてしまえば、ハンスの存在は気にならず、それどころかいることを忘れるくらい熱中していた。
基礎を終え、何か一曲吹こうと思い、電子譜面を操作する。
曲はモーツァルトのファゴット協奏曲 変ロ長調に決めた。跳躍やスタッカートなど、ファゴットの特性と魅力が盛り込まれたこの曲は、国音の入試の課題曲のひとつだった。
電子譜面からオーケストラ伴奏が流れ出す。それに乗って、オフィーリアは明るく軽快なメロディーを高らかに奏でる。
入試のときは一度頭を真っ白にしてしまったが、あのときよりも成長できた、自分の目指す音色に少しは近づけているような気がする――そう思うと、多幸感に包まれた。
ファゴットを吹くことが楽しくて仕方なかった。
演奏を終えて、一息吐くと拍手の音が聴こえた。手を叩いているハンスに、オフィーリアの顔が朱に染まる。
(忘れてた! ハンスさんがいたんだった⋯⋯!)
「洗練されていない、というか」
ハンスにしては歯切れの悪い口調で言った。
「いや、違うな。いい意味でファゴット独特の不器用さ、素朴さがあった。生き生きとした瑞々しさ、情感も感じられた」
ハンスはがしがしと頭を掻いた。
「⋯⋯こういうことを言葉にするのは難しいな。所詮は素人の感想だ、気を悪くしないでくれ。とにかく、いい音だった。さすが軍楽隊の入隊試験をパスしただけのことはある」
「そっ、そっ、そんな! わたしなんて、まだまだです⋯⋯」
オフィーリアはうつむいた。顔から湯気が出そうだ。油断すると口元が緩んでにやけてしまいそうになるのを必死で堪える。
ハンスに一言断って、オフィーリアは手早くファゴットを片付けた。
水気をとったリードをケースに仕舞い、ボーカルを抜き、クリーニングスワブ――管体内部の水分を拭き取るための布――を通した。
そしてロングジョイントとテナージョイントを外した。
ダブルジョイントを傾け、防水加工された細い方の管から、結露して管に溜まった水をタオルの上に捨てる。
ガーゼでU字管の水分をふき取り、太い方の管から細い方の管へ、紐の先に重しのついたスワブを数回通した。
ボーカルと繋がっていたテナージョイントに息を吹き込み、トーンホールの水分を管内に飛ばしてから、スワブを数回通した。クリーニングペーパーでタンポの水分を取る。
これらを怠るとカビやひび割れの原因になってしまう。
ハンスは興味深そうに、片付けの様子を観察していた。
「毎回やっているのか。手間がかかるな」
「い、いえ! 慣れたらそうでもないですよ。もう何万回と繰り返した作業ですし」
「そうか」
オフィーリアはケース掛け金をかけ、カバーのジッパーを閉じた。
楽器を片付けたオフィーリアはその場を少しうろうろし、ようやく覚悟を決めた。
「あ、あの、お隣失礼します⋯⋯」
そう言っておそるおそるハンスの隣に座った。