わたしには関係ない、遠い場所にあった世界
無意識のうちに約2ヶ月前にあった、楽しかった一夜の歌をハミングしてしまい、オフィーリアは手のひらで口を塞いだ。
『どうした、オフィーリア?』
モニターに映るクロードが心配そうな視線を投げかけている。
「いっ、いえ! すみません、気にしないでください」
オフィーリアは慌てて言った。
こんな状況で歌い出したら、とうとう気が狂ったかた思われかねない。
きゅっ、と唇を引き結ぶ。これから本物の戦いをするのだ。現実逃避なんてしていたら取り返しのつかないことになる。
ローゼンクランツのレプリカントがこちら側へ侵入した、らしい。らしい、
なんてアバウトな言い方、この状態で良くないと自分でもわかっているのだが、出撃命令はオフィーリアには死刑宣告に等しく、ブリーフィング中も半ば意識が朦朧としていたのだ。
死人のような顔色のオフィーリアを引っ立ててくれ、何度も説明し、現在もこうして気を配ってくれるクロードには感謝してもしきれない。
(わたし、生きて帰れるのかな⋯⋯)
移動中も、コクピット中に貼った大量のポストイットを読み返しながら陰鬱ない気持ちになった。
クロードが作ってくれたオデット専用マニュアルの内容はほぼ覚えている。筆記試験でならいい点数を取れるはずだ。
だが、問題はいざ戦闘となると頭が真っ白になってしまうことだった。知識を頭に叩き込んでも、肝心なときに必要なものを取り出せなければ意味がない。
素人に毛が生えたような自分が出撃させられる理由はうすうす察している。クロードも直接口に出さないが気づいているに違いない。
――エベールだ。彼はおそらく、いや、確実に、殺意を持って命じたのだろう。
オフィーリアは涙ぐんだ。嫌われることは多々あれど、まさか死んでほしいと思われることになるなんて想像もしていなかった。
『オフィーリア!』
クロードの声にオフィーリアはポストイットから目を離して視線を前方へ向け、背筋がぞっとした。ダークレッドの、ギルデンスターンよりも刺々しい印象を受けるデザインのレプリカント――ローゼンクランツの機体が見えたからだった。
「どど、ど、どうしよう⋯⋯どうしよう⋯⋯」
『落ち着いてオフィーリア』クロードは優しく、そして力強く言った。『いい? さっき言った通り、おれから絶対に離れないで。いいね?』
「はっ、はい」
指示が飛んだ直後、隊列を組んで移動していた集団が散開し、各々戦闘を始める。オフィーリアはクロード機を見失わぬよう必死に操縦桿を握った。
「ひっ!」
眩い光芒がオデットとクロード機を分断するように走り抜ける。オフィーリアは小さく悲鳴をあげた。
(⋯⋯い、今、当たりそうだった⋯⋯)
クロード機はすぐさまレーザーライフルを撃った機体へと急接近し、右腕に装着したブレードで袈裟懸けに切り払う。致命傷を負った敵機は地表に倒れた。完全に沈黙したようだった。
「す、すごい⋯⋯」
ライフルによる攻撃を見切り、避けながら、あれだけ素早く距離を詰めるなんてさすがだ。自分には到底できそうにない動き――こんな状況にありながら感心してしまう。
『オフィーリア! 左に避けろ!』
「え?」
鋭く響くクロードの声に驚き、慌てて操縦桿を握り直し、フットペダルを踏んだ。
左に移動するはずが、操作ミスで右に跳んでしまう。直後、機体が振動した。
けたたましいアラートが鳴ると同時に、モニターに機体の損傷状態を告げるウィンドウが開く。後ろから斬りかかられたらしく、左腕部がコントロール不能になっていた。
背後の敵機が再び斬りかかろうとする。
反射的に振り向き、こちらも右腕のブレードを構え、斬撃を受け止められたのは、現在のオフィーリアの実力では奇跡に近かった。
鍔迫り合いになり、触れ合ったブレードから飛び散る火花に、オフィーリアは手足が冷えてゆくのを感じた。
「やっ、やだ、やだ⋯⋯! こっちに来ないで! 離れて!」
戦わなければ。そう思うのに、オフィーリアの視線は敵レプリカントの胸部――コクピットがある場所に意識が向かってしまう。
(あのあたりにパイロットが乗ってるんだ⋯⋯わたしがここにいるように⋯⋯。もし、わたしが攻撃したら。攻撃、したら⋯⋯)
再度アラートが鳴る。モニターは後ろからブレードを構えつつ迫る新手の敵機の存在を知らせていた。挟撃するつもりらしい。
「あ、あ、クロードさんは⋯⋯」
カメラでクロード機の様子を捉えるが、3機を同時に相手にしていて、とてもオフィーリアの援護はできそうになかった。
シミュレーターで味わうものとは桁違いの死の予感が押し寄せる。
――結局のところ、どうにかなると思っていたのかもしれない。なんとなくやり過ごしていれば帰れる。もしものときはクロードに助けてもらえばいい。そんなふうに考えていた己の甘さに力が抜けてゆく。
(死んじゃうんだ、わたし――)
そう思った一瞬後、目の前にいた敵機の胸部にブレードが突き刺さった。
「えっ? な、何が⋯⋯!?」
敵機はそのまま倒れ動かなくなる。誰かが腕部のブレードをパージ、コクピットめがけて投擲したらしかった。
続いて接近しつつあった機体が横合いに吹き飛び、オフィーリアは目を見開いた。
――ハンス機だった。凄まじいスピードで肉薄し、飛び蹴りを食らわせたのだ。
敵機は横転しそうになるが、ブースターを吹かせ、体勢を立て直しながら着地しようとする。
ハンスはその着地地点をライフルで狙い撃ち、バランスを崩したところを一気に詰め寄って、ナイフで胸部を刺し貫く。これらはすべて、ほんのわずか数秒のことだった。
『無事か?』
モニターのウィンドウに映るハンスの表情は冷静だが、瞳には気遣いの色が浮かんでいる。
戦闘を終えたクロード機も、オデットのそばにやって来た。
『オフィーリア! ケガはない?』
クロードが声を掛ける。何度もうなずくと強張った口元を緩めた。
『終わったよ。帰投しよう』
戦闘は終結したらしく、周囲の敵レプリカントはほぼ沈黙。生き残った機体は撤退したようだ。
「っう、うぅ⋯⋯」
オフィーリアは胸のあたりに手を押し当てた。激しく脈打つ心臓の鼓動が手のひらに伝わる。
生きている実感がじわじわと込み上げてきて、涙腺が一気に決壊した。
「う、うわわあああああああん!」
子どものように号泣した。クロードがひどく狼狽した様子で『助けられなくてごめん』と繰り返す。
クロードは少しも悪くないと言いたいのに、唇からこぼれるのは惨めな泣き声ばかりだった。