地獄の底で
ぶるぶると痙攣する手をなだめながらドアのロックを解除すると、オフィーリアは急いでトイレの前に膝をついた。それと同時に朝に無理やり摂取しとゼリー飲料を吐いた。
胃の内容物をすべて吐き出しても、吐き気はまだ収まらない。黄色い液体が勢いよく溢れ、収まったかと思えばまた嘔吐する。それを数回繰り返した。
ようやく吐き気が静まると、洗面台の回りを水浸しにしながら、口をすすぎ、顔を洗った。鏡に映る自分はひどい顔をしていた。もともと痩せ型だった上に食べても吐いてばかりだったから頬は痩け、目は落ち窪み、肌はひどくカサついている。
エルシノア基地に来てようやく3週間が経った。オフィーリアは孤独だった。生まれてからずっと、この銀の髪と瞳の色のため差別されてきた。
幸い、暴力を受けることはあまりなかったが、徹底的に忌避された。だから孤独には慣れきっていると思い込んでいた。甘かった。どれだけ自分が恵まれていたか思い知らされた。今までの自分は真に孤独なんかじゃなかった。家族と友人がいてくれた。
基礎訓練にもまったくついていけていない。銃を撃ったのなんて生まれて初めてだ。他にもつらい訓練は多々あったが、その中でも特につらかったのは、シミュレーターによるレプリカントの操縦だった。
これはもう思い出すだけで吐き気がするほどに嫌だった。これまでレプリカントのことなんかこれっぽっちも知らなかったのだから、操縦なんてできるわけがない。オフィーリアと同時に入隊した士官学校卒のパイロットたちはレプリカントをまるで自分の手足のように操る。その鮮やかな手並みに、これではバカにされるのも無理はないと思ってしまうほどだった。
だが考えてみれば当然だ。彼らはすでにそれを専門的に学んできているのだから。オフィーリアは自分をバカにし、影から嘲笑う連中に言ってやりたかった。
もし、あなたたちが突然軍楽隊に入れられ、ベートーヴェンの交響曲第4番第4楽章にある、ファゴットの難所のソロを吹いてみろ、と突然命じられたらできるのか、と。
それでも嫌われるだけなら、孤独なだけならまだ良かった。嫌われるのはいつものことだし、家族や友人たちとの連絡を断ち切ったのは自分で決めたことだ。だが、憎まれるのはさすがに堪えた。
上官のエドマンド・エベールは自分を憎悪している。オフィーリアはとっくに気づいていた。嫌い、なんて生温いものではない。その感情を抑え込もうとはしているようだったが、こちらを睨む目は充血し、首から上は赤黒くなっていた。
初対面のときからそうだった。オフィーリアは動揺し、混乱した。たしかに自分はここでは出来損ないだが、それだけのことでこんなにも人を憎めるものだろうか。
が、次第に察しがついてきた。彼は国音や軍楽隊を蛇蝎のごとく嫌っている。表情や言動の端々からもそれが読み取れる。だからオフィーリアのことも憎くてたまらないのだろう。
ギルデンスターンでは音楽が――特にクラシックが非常に盛んである。それゆえに音楽に携わる者は様々な場面で優遇されている。国音でもそうだった。しかし彼のようにそれを不満に思っている人だっている。
皆が皆、同じ考えだとは限らないのだから、オフィーリアはそのことについて特に何も思わない。だからといって、これまで情熱を傾けて打ち込んできたことを否定し、罵倒されるのは耐え難い苦痛だった。ひどい言葉をぶつけられるたびに身を裂かれるような痛みに苛まれた。そして、自分の存在まで否定されるような感覚に陥ってしまう。
オフィーリアはベッドに身を投げた。視界の端に黒い楽器ケースが見える。薄っすらとほこりが積もっている。オフィーリアはそれに向かって青白い手を伸ばしかけ、引っ込めた。ここに来てから一度もファゴットを吹いていない。今はそんな体力も気力もなかった。少し前までの自分なら考えられないことだ。
「……ごめんね」オフィーリアはつぶやいた。
その一言で涙腺が決壊した。うずくまりながら謝罪の言葉を繰り返す。
(わたしは何に対して謝っているんだろう? ファゴット? ずっと応援してくれていた家族? 今頃、軍楽隊で頑張っているであろうアリアたち? 目標のために努力を重ねた過去の自分? ――きっと全部だ)
ポケットから端末を取り出して音楽プレイヤーを起動した。耳の奥に響いているエベールの声を上書きしてしまいたかった。流れるのは軍楽隊によるストラヴィンスキーの『春の祭典』
非常に思い入れの強い、大好きな曲のはずなのに、オフィーリアの心を素通りする。目を閉じて聴覚に意識を集中させてもだめだった。
「どうして!? どうしてよッ⋯⋯!」
オフィーリアはかっとなって、端末を壁に投げつけようとするが、ギリギリのところで思いとどまった。物に当たってしまえば後悔するのは目に見えているし、端末から流れるのはいつも通りの美しいメロディーだ。これは受け取る側である自分の問題だとわかっていた。
枕に顔を埋めて嗚咽した。心身共に限界に近かった。こんな日々がこれから先も続くのかと思うと、暗澹たる気持ちになった。
――電子音。来客を知らせるベルが、オフィーリアの鬱々とした思考を中断させた。
幻聴かと思ったが、もう一度ベルが鳴って現実なのだと理解した。驚いて喉がひゅう、と木枯らしに似た音を立てた。この部屋に人が訪れるなんて初めてだった。頭の中に様々な考えが駆け巡り、そしてどれもが良くない想像だった。
のっそりと上体を起こし、ベッド脇のモニターを操作した。怖くて画面をなかなか直視できなかったが、映っていたのはオフィーリアと同い年か、あるいは歳の近い青年のようだった。オフィーリアは勇気を振り絞って、応答ボタンを押した。
「……ど、ど、どちら様、ですか?」
「突然の訪問お許しください」彼は礼儀正しく言った。溌剌とした誠実な口調だった。「おれはクロード・デュトワといいます。フローベルさん、君の同期です」
クロード・デュトワ? オフィーリアはこめかみに指を押し当てた。
どこかで聞いた名前だ。誰かが会話の中に彼の名前をあげていた気がする――そうだ、女の子たちが口々に誉めそやしていた名前だ。士官学校では常に首席。容姿端麗な上、立派な家柄の出だとか。オフィーリアは首を傾げた。
(どうしてそんな人がわたしのところに?)
きっと何か思惑があるに違いない、とオフィーリアは睨んだ。子供の頃、無理やり遊ぶ約束を取り付けられ、結局、待ち合わせ場所に誰も来なかったことを思い出した。彼もそんなふうに陥れようと企んでいるのではないか……。
「あの、別に他意はないんだ。おれはただ、君と話がしたいだけで」
こちらの心情を察したような言葉に、オフィーリアは驚いた。微かに焦燥感が滲む声音に少しだけ警戒心が和らぐ。
「わ、わたしと話、ですか……?」
緊張のためか、手のひらはじっとりと汗をかいていた。信じていいのだろうか、自分に問いかける。モニターに映らないところで、大勢の人間が笑いを堪えてながら、オフィーリアが彼の言葉を信じてのこのこと出てくるのを待っているのではないか。経験則からそんな想像が頭をよぎる。
声のトーンや話すスピードだけで判断するならば嘘には聞こえない。それでも返事を躊躇っていると、
「……ごめん。いきなり赤の他人が押しかけられて、話したいなんて言われても困るよな。やっぱり帰るよ」
「あっ! ま、待ってください!」
オフィーリアはもうどうにでもなれという気持ちでドアを開けた。いじめ目的だとしてもそれほどひどいことはできないはずだ。レプリカントのパイロットになるのは大変なことだし、軍規違反をしてそれを不意にするほど彼らは愚かに見えなかった。それに、他人を信じることはできなくても、自分の耳は信じてみようと思えた。
「……あの、その……は、初めまして。オフィーリア・フローベルです」
勇気を振り絞ってそう言うと、クロード・デュトワは白い歯を覗かせて笑った。
噂に違わぬ容貌だ。クロードを見上げながらオフィーリアはそんな感想を持った。やわらかそうなストロベリーブロンドの髪に、彫りの深い顔立ちは作り物のように整っている。琥珀色の瞳は長年の友人に向けるような感じの良さを浮かべていた。
「あ、あの、わたしと話がしたいって、どういう……?」
クロードの存在感に気圧されながらも、そう遠慮がちに訊ねると、「ここじゃあ何だから、良かったらおれの部屋に来ないか?」なんてさらりと言ってのけるものだから、オフィーリアは再び警戒心を剥き出しにした。
その反応にクロードは慌てふためいて続ける。
「違うんだ、おれの部屋でっていうのは、お茶やお菓子の用意をしているからで、やましい気持ちはこれっぽっちもなくて……!」
必死に弁解するクロードに気づかれぬよう、そっとため息吐いた。いちいち怯えていた自分がバカみたいだった。
「そ、それなら、お邪魔してもいいですか?」
オフィーリアは勇気を振り絞って口を開いた。きっと、どう転んだって、今以上の地獄なんてない。