月明かりの下で
「フーは? 家族との関係は良好?」
「わたしも赤ちゃんのときに捨てられて、養母に育ててもらった母子家庭なんです。わたしが軍楽隊を目指したばっかりに、たくさん迷惑をかけてしまいましたが⋯⋯」
脳裏に養母――リリーの優しい笑顔が思い浮かぶ。家を出て以来、連絡を絶っているが元気にしているだろうか。
「そうなの? あたし、そこんとこ詳しくなくて」
「ファゴットに限らずですが、楽器を本格的に始めるとすごくお金がかかりますから」
「フーのファゴットっておいくらなの?」
「2本持ってて、普段使っているメイプル製と、国音に入学してから買った予備用の樹脂製ファゴットあるんですが⋯⋯」
ムゼッタの耳元でこっそり値段をささやくと「ひょわっ!」と面白い奇声をあげた。
「わたしの場合、楽器代は国からの補助金と、匿名で寄付をしてくださった方のおかげで賄えました。樹脂製は学割もありましたし」
「――匿名の寄付?」
「はい。リリーさんに訊ねても詳しく教えてくれなかったんですけど、女手ひとつで他人の子を育てていることに感動したとか。レッスンも、たまたま軍楽隊を辞めて家の近くに引っ越してきた方が破格で引き受けてくださったんです。先生がいなければ、離れた場所へ通わなければならないところだったのでとても助かりました」
「ねえ、それって偶然なの?」
オフィーリアは首を傾げた。
「? えっと、どういう意味ですか?」
「⋯⋯いや、匿名で援助してもらえて、あまつさえ元軍楽隊のファゴット奏者が引っ越してくるなんて、運が良すぎるなあ、と思っただけよ」
「ああ、そういうことですか。そうですよね。そこで一生分の幸運を使い果たしてしまったのかもしれないですね。だから、いま、当時受けた幸福と同じだけの不幸が巡ってきたのかな、なんて」
ムゼッタは虚ろな声音で呟いた。
「いったい、誰が寄付してくれたのかしらね」
オフィーリアは口を閉ざした。それは自分も長年疑問に思っていたことだ。いくら調べても結局わからずじまいだった――⋯⋯
「もしかしたら実の両親とか、兄弟とか、親戚とかだったりしない? フーの容姿は特徴的だから、特定は簡単でしょ?」
「まさか!」オフィーリアは首をと両手を横に振った。
「理由は知りませんが、わたしは実の親に捨てられたんですよ?」
オフィーリアはあっけらかんとして言った。
「そんなことしてくれるとは思えません。兄弟や親戚は、そもそもいるかどうかもわかりませんし。ムゼッタさんの仰ったとおり、わたしの髪と目の色は特徴的ですから」
「それでも⋯⋯! ほんとうに心当たりはない? お願い、よく思い出してみて」
ムゼッタはオフィーリアの手を取り、まっすぐ目を合わせた。ムゼッタの瞳には、何かを訴えかけるような真摯さがあるようにオフィーリアは感じたが、それが何なのかはわからなかった。
オフィーリアが口を開きかけた瞬間、ムゼッタの端末から無機質な着信音が鳴り響くがすぐに切れた。画面を見たムゼッタの表情が凍りついた。
「⋯⋯ごめんなさい、変なこと言ったわ。今の話は忘れて」
ムゼッタは長いため息を吐いた後、話題を切り替えた。
「ところで、あたしも頑張ったら国音入れるかしら?」
「それ、クロードさんにも同じことを訊かれましたよ」
オフィーリアが笑うとムゼッタは赤面した。
「ムゼッタさんも何か楽器を?」
「楽器はできないんだけど」
ムゼッタは自分の喉を指差した。
「昔から歌うのが好きなの。機械弄りの次くらいにね。手前味噌だけど、結構上手いのよ? 母も歌が好きで。機械を弄りながら、母と歌うのがあたしたち親子のコミュニケーションだったの」
「わあっ、いいですね! それ、すごくいいです!わたし、音痴だから羨ましいです」
「えっ!」ムゼッタは目を剥いた。「国音生だったのに!?」
「正しい音程はちゃんと捕らえることができるんですけど⋯⋯歌うとなると⋯⋯」
ムゼッタの、期待で輝く瞳に見つめられ、オフィーリアは渋々ありふれた童謡を歌ってみせた。
「ぶふぅ! ほ、ほんとに、あはは! 歌うの、ぷぷっ、苦手なのね!」
ムゼッタは肩を震わせながら言った。また笑いを堪えているのは一目瞭然だった。
「もっ、もう! ほら、今度はムゼッタさんの番ですよ!」
ムゼッタは「はいはーい。端末から伴奏流すわね。よーし!」と言って立ち上がり、下がれるだけ後ろに下がった。
「あたしのとっておきを聴かせてあげる! 」
オフィーリアはムゼッタの所業に目を剥いた。
「む、ムゼッタさん!?」
ムゼッタはオフィーリアの横を走り抜けると、タンッと強く踏みしめ宙を飛んだ。
オフィーリアは猫のように見事なバランス感覚で着地するムゼッタの姿を、呆気にとられながら追いかけていた。下手すれば大ケガをするはめになるだろうに。
地面に降り立ったムゼッタが、オフィーリアを見上げて唇の端を吊り上げ、得意げに微笑んだ。
一瞬だけ静寂が訪れたが、端末からピアノのイントロが鳴る。
それを合図にムゼッタがタップダンスのように足を踏み鳴らし、指を鳴らしてリズムを取る。
天窓から差し込む月明かりがスポットライトのようにムゼッタを淡く照らす。
ムゼッタが低い位置で髪を束ねていたゴムをとれば、コットンシュガーのような質感の赤毛がふわふわと広がる。それを払いのけると、オフィーリアの銀の瞳を見て笑った。
ムゼッタは深々と息を吸い込み歌った。
それは一年をどういう物差しで測るのか。そういう内容の歌だった。
ムゼッタの歌声の芯はしっかりとしていて、技量は声楽科にいるような人たちには到底及ばないが、それでも聴くものを惹きつける魅力があった。
ムゼッタは歌だけでなく、体を使って音を鳴らす。
手を叩く。指を鳴らす。踵を打ち付けステップを踏む。ターンをするたび靴底が擦れてキュッ、キュッと鳴る。そのひとつひとつもが歌の一部になっていた。
歌声に聴き入っていると、突然、体が下へと引っ張られた。
驚きに喉が引きつり、悲鳴も出せない。衝撃に備えて目を閉じるが痛みはやってこなかった。
おそるおそる目を開くと、ムゼッタに抱きかかえられていた。下から脚を引っ張ったらしかった。
ムゼッタはオフィーリアの手を取ると、器用にリードしながら舞踏会のように踊り出す。ワルツのようにターンさせられ、オフィーリアは慌てふためいた。
その際もムゼッタの歌声は乱れない。
オフィーリアはリードされるがまま、でたらめなダンスを踊る。次第に表情から戸惑いは消え、楽しげなものに変わる。
まるでミュージカル映画の中に入り込んだかのような気分だった。
どんな悩みも歌や踊りで解決してしまう夢のような世界。オフィーリアもその一部になっていた。
曲はクライマックスを迎えるにつれてますます盛り上がりを見せ、ムゼッタの歌声もさらに力強いものに変わる。
今度はオフィーリアから手を取ってダンスをリードしてみせると、ムゼッタが嬉しそうに目を細める。
体から重力が消えて、月まで飛んでいけそうな気分だった。
歌が終わるとオフィーリアは肩で息をした。
呼吸が落ち着いたと思えば、今度は顔中から熱が噴き出すのを感じた。恥ずかしさと、楽しさが同時に押し寄せてきたのだ。
ムゼッタはそんなオフィーリアの気持ちを見透かしたように首に腕を回して抱きついた。
ふわふわした赤毛がくすぐったくて身を捩ると、「ふふふ」と小さな笑い声が聴こえた。
ムゼッタとオフィーリアの、汗の滲む額が触れ合う。
互いの顔がぼやける一歩手前でムゼッタがまた笑った。
その瞬間、オフィーリアの中の羞恥心やその他の雑多な感情はすべて吹き飛ばされてしまった。
あとに残ったのは、ふたりだけの秘密を共有するような、甘酸っぱい気持ちだけだった。
オフィーリアもつられて笑うとムゼッタもますます嬉しそうになる。月明かりに照らされた格納庫の中、ふたりの笑い声がいつまでも響いていた。
Seasons of Love - Rent




