家族の肖像
身じろぎすると胸元から冷たい空気が入ってきて、オフィーリアは目を覚ました。
オデットのコクピットに座ったまま眠ってしまっていたようだった。体には毛布がかけられている。
寝惚け眼を擦りながら、ぼんやりと視線を漂わせる。照明はついていないが、天窓から月の光が差し込んでいて、とても明るい。おそらく今夜は満月なのだろう。先ほどまで見ていた夢と同じように。
「⋯⋯ムゼッタさん?」
薄闇に目が慣れてきたころ、オフィーリアはコクピットの隅で胡座を組んで手を動かしているムゼッタの姿に気づいた。
「フー、やっと起きたの? よく寝てたわねえ」
ムゼッタは振り返って言った。
「す、すみません。つい寝入ってしまったみたいで⋯⋯」
「謝らなくてもいいのに。それにしても、いつ生体認証登録を済ませたの?」
「え?」
「虹彩、耳介、DNA、指紋、静脈、顔形等の登録よ。あたし無しでよくできたわね」
「う、うーん⋯⋯? 自分から登録した記憶はないんですけど、必要なことができてるなら良かったんです⋯⋯?」
オフィーリアは首を傾げながら言った。
「そういえば、むにゃむにゃ寝言を言っていたけど夢でも見たの?」
「わたし、夢見があまり良くなくて。もうひとりの自分が出てくる内容の夢を度々見るんです」
「もうひとりの自分?」
ムゼッタは目を眇めた。
「あたしも詳しいわけじゃないんだけど、そういう夢ってあまり良くない意味が多いって聞いたことがあるわね」
オフィーリアの顔が青ざめる。苦しそうに泣きながら手を伸ばすもうひとりの赤子の自分の姿を思い出して、ぞっとするような感覚に襲われた。
「ちょっ、ただの夢なんだからそんな深刻にとらないで! ごめんなさい、余計なこと言ったわね」
「い、いえ、平気です。ところでムゼッタさんは明かりもつけずに何をしているんですか?」
ムゼッタに手招きされ彼女の手元を覗き込む。小さなパネルと、その下にいくつかボタンが並んでいる。
ムゼッタはパネルの電源を入れ、何度かタップする。スピーカーから聴こえるのは、『ベルリオーズの幻想交響曲』
「えっへへー。どう? あたし、交響曲ならこれがいちばん大好きなの! とくに第4楽章の『断頭台への行進』が。普段は交響曲ってあんまり聴かないし、いまいち良さもわかんないんだけどこれは聴いてて楽しいって思えるのよ。わいわい、イェーイ! って感じ?」
「わ、わいわい⋯⋯」
「フーは演奏したことある?」
「はい、3年の春に。ずっと挑戦したいと思っていた曲のひとつでした。すごく、苦労しましたけど⋯⋯。わたしはワルツ調の第2楽章が好きですね。第5楽章も好きです。ええと、わ、わいわい? していて。⋯⋯そっ、それより勝手にこんな機能を付けてしまっていいんですか!」
「まあまあ、細かいことは気にしない! これで好きなだけ音楽聴けるんだから。いいスピーカー使ってたわよ」
あっけらかんと笑うムゼッタに、オフィーリアは脱力した。
「そうですね、ありがとうございます」
オフィーリアは微笑む。どこかがずれているとしても、ムゼッタが自分のことを思ってしてくれたのだ。その気持ちが何よりも嬉しい。
「いいのいいの、あたしがやりたくてしたんだもの! ね、こっちに来て」
ムゼッタは前開きになった搭乗ハッチに腰掛けて脚をぶらつかせながら言った。オフィーリアも同じように隣に座る。
天窓の向こうに見える満天の空は美しい。国立ギルデンスターン音楽院を中心とした学園都市からも綺麗な星空を見ることはできたが、人工的な光が少ないため更に美しい。
プラネタリウムのように星の瞬きのひとつひとつがはっきりと見て取れる。親友にも見せてあげたい、とオフィーリアは思った。親友――アリアは星を見るのが大好きだったから。
ふと、ムゼッタのほうへ視線を移す。そういえばさっきから黙りこくっている。「ムゼッタさん?」と、オフィーリアが声をかけると、ムゼッタは真っ直ぐ眼差しを投げかける。
「⋯⋯あのさ、フーは好きな人いる?」
「どうしたんですか、いきなり」
「なんとなく気になったから」
ムゼッタらしくない、歯切れの悪い口調だった。オフィーリアは顎に手を当てて「むぅ」と小さく唸った。
「そうですね。ふふ、いますよ」
オフィーリアは顎に当てていた手を頬に当てて笑うと、ムゼッタはぎょっと目を剥いた。
「だっ、だ、だ、誰なの!? フーの好きな人って!」
「クロードさんです」
オフィーリアはなんでもないふうにあっさりと答えた。その返答にムゼッタは凍りつく。
「クロードさんは、ここに来て落ち込んでばかりだったわたしを救ってくれた人ですから。お花の話をしているときの子どもみたいに無邪気な笑顔も、苦手なピアノに一生懸命取り組んでいる姿も、とても素敵ですよね」
「そ、そっか」ムゼッタは呟いた。もじもじと両指を絡めながら続ける。「そう、そうよね。クロードは⋯⋯す、素敵な人だし。フーが好きになるのも、」
「もちろん、ムゼッタさんのことも好きです!」
「へ?」
言葉を遮られたムゼッタは、せわしなく動かしていた指を止めた。
「ムゼッタさんはいつだって明るくて、わたしなんかのことを気遣ってくれて。自分の仕事に情熱的なところも、レプリカントに触れているときの真剣な表情も、ぜんぶひっくるめて大好きです。え、えへへ⋯⋯こういうことを本人に面と向かって言うのはやっぱり恥ずかしいですね⋯⋯」
ムゼッタは惚けていたが、はっとして頭を抱えた。「はぁ。びっくりした、そういうことなのね」
「? あ、あの、わたし何か勘違いを」
「してるわよ! ⋯⋯でも、フーの気持ちはとーっても嬉しい! ありがとう、あたしもフーが大好きよ」
「えへへ、よかったです」
オフィーリアは照れくささで熱を持つ両頬を抑えた。
「でもね!」ムゼッタはオフィーリアの鼻先にピシャリと人差し指を突きつける。「あたしは恋愛的な意味で好きな人はいないか聞きたかったの!」
「れ、恋愛、ですか」
オフィーリアは困り果てたように眉を下げた。
「ねえねえ、国音にかっこいい人はいなかったの? 写真ない? フーの学生時代のこと、知りたいわ」
「写真ですか? ちょっと待ってくださいね。えっとと⋯⋯」
仲の良かったメンバー全員が映っている写真を探すが、個別に撮った枚数が膨大なのと、日ごろからあまりマメに整理していなかったため、なかなか見つからない。
「あ、ありました。これは卒業公演後に撮った写真です」
「――うわぁ、美男美女ばっかりじゃないの!」
写真の中のオフィーリアたちは、それぞれ楽器を手に笑顔を浮かべている。
「フーにくっついてる、オーボエ奏者の子ものすっごい美人ね! ファゴットを持った赤髪の子とホルンを頭に被せた男の子は親戚かしら。――それにしてもフーの着てるロイヤルブルーのドレス、素敵。フーは青がよく似合うわね」
「嬉しいです。わたし青が好きなので。普段のコンサートでは衣装の色は黒がメインって決まりなんですけど、卒コンだけは好きな色でいいんです」
初めての軍楽隊のコンサート用に、養母はロイヤルブルーのワンピースを仕立ててくれた。だから、卒業演奏会のドレスもロイヤルブルーに決めていた。
親友のアリアと互いのドレスを選び合う予定を立てていたのだが、ショッピングに行く数日前、匿名でこのロイヤルブルーのドレスが届いたのだ。
――オフィーリアは記憶を呼び覚ますように虚空を見つめた。
箱を開けたときは驚いた。
色だけでなく、ドレスのデザインもあのとき着ていたワンピースの意匠――一見シンプルなようでいて背面には大きなリボンや、繊細な刺繍、スカートにたっぷりとフリルがついた凝ったデザインが取り入れられていたからだ。すぐさま実家に連絡したが、送り主は養母ではなかった。
畳まれたドレスの上には、一輪の白いプリザーブドフラワーが添えられていた。
メッセージカードのたぐいは見当たらなかった。何の花だろう、と首を傾げ、検索してみようと端末を手に取ったところにアリアが押しかけてきて、突然のことにびっくりしてしまい、うっかり花を粉々に握りつぶしてしまったのだ。
あとで調べたが、その花はポピーだと当時のオフィーリアは見当をつけた。今はそれがアネモネだったとクロードに教わったが。
約束を反故にされて憤慨する親友を宥めながら、ドレスを眺めていると、肩のあたりに銀色に光る短いものが付着していることに気づいた。
(――そう、あれは髪の毛だった)
アリアが勝手にドレスを広げたせいで髪はどこかにいってしまい、今まで存在も忘れてしまっていた。
あれは自分の髪にしては短すぎる。いったい誰の髪だったのか――⋯⋯
「ぅ、ぶっ、あははは!」
ムゼッタの明るい笑い声がオフィーリアの意識を引き戻した。
オフィーリアは小さく悲鳴を上げた。端末にはオフィーリアが初めて協奏曲のソリストを務めたコンサートの映像が流れていた。場面はステージに上がるところだ。
「て、手と足が同時に⋯⋯ふふっ! ぎくしゃくしてて、顔も耳も真っ赤でかわいい。すっごく緊張してるのが、つ、伝わってくるわね。あはははっ!」
「もっ、もう! 勝手に見ないでくださいよ⋯⋯!」
オフィーリアはすぐに動画を止めて、画面を集合写真に戻した。
「あら?」ようやく笑いが収まったムゼッタは、右端にいる金髪の男を指差した。「この人は楽器を持っていないの?」
「サーシャさんは指揮者なので」
「指揮者だなんてかっこいいじゃない。背も高くて顔も整ってるし。でも、フーたちは笑顔なのにひとりだけ仏頂面で腕を組んで、気難しい性格って感じ」
「ま、まあ、それは間違ってないです」オフィーリアは苦笑した。
「ね、フーはこの指揮者さんとホルンの子とどっちが好みなの?」
ムゼッタは楽しげに口元を緩ませながらオフィーリアに詰め寄った。
「こ、好みって⋯⋯よく遊んだのはホルン奏者のアルフレードさんですけど、普通のお友達ですよ? アルフレードさん、極度の恋愛嫌いですし」
「えー、つまんないの。じゃあ指揮者さんは?」
「尊敬してます。指揮者としても、ピアニストとしても。でも恋愛感情じゃないですよ。この気持ちが恋なら、わたしは何人もの人に同時に恋をしてることになります。わっ、わたしのことよりムゼッタさんはどうなんですか?」
そう訊ねるとムゼッタは首まで赤くなる経験のないオフィーリアでも、さすがにムゼッタが恋をしていることに気づいた。
それもそうか、とオフィーリアは納得した。片思いにしろ、両思いにしろ、自分くらいの年で恋愛経験がないほうが少数派だろうし、何よりムゼッタくらい魅力的な女性なら周りが放っておかないだろう。
「⋯⋯ある、けど」
「恋する、ってどんな感じなんですか?」
学生時代に何度も鑑賞したオペラを思い出す。恋愛を題材にしたものが多く、どれも素晴らしかったが、 身近な実体験として参考にするにはあまり向いていなかった。
アルフレードを筆頭に、国音時代の仲間は変わり者ばかりだったし、だからこそムゼッタのような人の恋愛観はとても気になる。
「――身体が、」ムゼッタはぽつりと言った。「自分の身体が否応なしにばらばらに解けて、そして再構成される感じ。元の姿に戻ったときには、もう今までのあたしじゃなくなってるの。以前は平気だったこともうまくできなくなるし、感情の触れ幅が大きくなるし」
でもね、とムゼッタは続ける。
「面倒で、苦しいことも多いんだけど、不思議と嫌じゃないの。この気持ちを手放したくない、元に戻りたいとは思えなくて⋯⋯」
熱っぽく語っていたムゼッタははっとして「ち、違うのよ! これは……そう! 何かの記事の引用なのよ!」
ムゼッタの言い訳はオフィーリアの耳には届かなかった。ゆらゆらと揺れる己のつま先を眺めながら、頭の中では有名なオペラのアリエッタがぐるぐると流れていた。いつの時代もどんな人間でも恋に思い悩む気持ちに関しては不変らしい。
「フー?」ムゼッタは黙りこくったオフィーリアを訝しむように顔を覗きこむ。
「⋯⋯わたし、恋してるのかも」
「は!?」
「ムゼッタさんの話を聞いていたら、わたしも現在進行形で恋をしてるのかなって」
「だっ、誰に?」
オフィーリアは口元を抑えて「えへへ」と微笑む――いや、ニヤニヤすると得意げに胸を張った。
「ファゴットです! わたしが恋をしてる相手はファゴットだったんです!」
ムゼッタはぽかんと口を開いたまま凍りついた。冗談かと思ったが、オフィーリアの様子から本気なのだと理解した瞬間、重々しいため息を吐いてみせた。
「ねえ、国音ってフーみたいに楽器が恋人みたいな人ばかりなの?」
「ちゃんと人間の恋人がいる人もいましたから、そういうわけじゃないと思いますけど」
ムゼッタは脱力した。
「フーってやっぱりどこかズレてるわよねえ。天才ってみんなこんな感じなの?」
「わ、わたしは天才じゃありません。けど、変わった人は多かった気がします。⋯⋯特にオーボエ奏者に」
「ふうん? あー、楽しかった! フーとこんな話ができるなんて思ってもみなかったわ」
そう言ってムゼッタは少しの間、口を閉ざした。
「あたしね、母さんに捨てられたの」
不穏な発言に、オフィーリアは息を呑んだ。「捨てられた?」
「うちは母子家庭で、物心ついたときには母さんと二人暮らしだったの。母さんはあたしと同じレプリカントの整備士で、今こうやってここで働けてるのも母さんが色々教えてくれたから。あたしを養うため一生懸命働いてくれてたんだけど、15歳のとき、男と蒸発しちゃった」
ムゼッタは肩を竦め、あっけらかんとした口調で続ける。
「でも、あたしは悲しくなかった。未成年の娘ひとり残して男と逃げるなんて最低だとは思うんだけど、恨んだり憎んだりする気持ちはないの。
もともと体が丈夫な人じゃなかったのに医者の反対を押し切ってあたしを産んで、産後に無理をして更に虚弱になって。そして、新しい恋をしたら、苦労して産み育てた娘のこと簡単に捨てちゃうのよ。だからこそ、簡単に人を狂わせる恋ってものに興味があるのよね」
「⋯⋯ムゼッタさんはお母さんが大好なんですね」
「ええ、大好き。今頃どうしてるかしらね⋯⋯。あたしにできることなら、どんなことだってするから⋯⋯どうか幸せでいてほしい」