解けた日
思っていた以上にオデットの洗浄は骨が折れた。格納庫にしたように、乱暴に水をぶちまけるわけにもいかない。
長年放置されたため、汚れが頑丈な装甲のように積もっていたから、ある程度専用の道具で削ぎ落としてから、洗浄液をかけ、ブラシや布で汚れや錆を落とさなければならなかった。
本来は専用の高圧洗浄機に入れて洗うそうなのだが、ムゼッタは言葉を濁した。使用許可が下りなかったらしい。掃除用具さえ貸してもらえないのだから当然だと納得してしまった。
オフィーリアは滴る汗を拭いながらブラシを動かす腕を下ろした。腕が鉛のようでだるかった。
ムゼッタはといえば、始めたころの調子をキープし続けている。歌を口ずさむ余裕さえあるようだった。
ツナギの袖を捲り上げ、あらわになった二の腕は細いながらもしっかりとした筋肉がついている。
オフィーリアも袖を捲り、二の腕にぐっと力を込めるが、あまりの貧弱さに情けなくなった。
コンテナの横に丸まっていたホースを取り、ボタンを押して水を出す。
それをブラシで擦った個所へ丁寧にかけた。汚れが洗い流され、オデットの本来の色が露わになる。
オフィーリアは瞠目した。
予想以上にオデットは眩い純白だった。精製に精製を重ね、少しも混じり気のない完璧な白。天使の羽のような色だ。
洗浄が進み、オデットの姿が露わになるにつれ、オフィーリアは何度も感嘆した。
レプリカント。戦うために作られた存在であるはずなのに、オデットは他のレプリカントとは異なっていた。
尖った部分がなく、どこをとってもなだらかな輪郭をしていて、クロードたちが搭乗するレプリカント――ハルモニアと違って、すらりとして見える。
そのためかバレリーナのように洗練されたな印象を受けた。
レプリカントは所詮機械。人のかたちを模した紛い物。
ただ戦うために作られた存在だとオフィーリアはずっと思っていたし、そのことに疑問を持ったこともなかった。
だがオデットは違う。とても美しい。
オフィーリアは音楽以外の芸術に造詣が深くないが、それでもオデットの美しさは理解できる。名匠が自分の持ちうるすべてを注いで生み出した至高の芸術品のようだ。
まさかレプリカントに美しいという感情を抱くなんて、とオフィーリア自身とても驚いていた。
ムゼッタには悪いが、レプリカントにはいい感情はない。戦争に直結するものだから。
戦いはいつだっていろんなものを奪ってきた。大切なものを奪われて嘆き悲しむ人たちはあちこちにいる。
もちろん、オフィーリアだって例外じゃない。だから、学園都市を警護していたレプリカントのことも、守ってくれる存在とはいえ少し怖かった。
それなのにオデットときたら、恐怖を抱くどころじゃない。この不思議なレプリカントに、オフィーリアはすっかり魅了されてしまっていた。
「これで洗浄はおしまいね!」
ムゼッタの明るい声にオフィーリアの意識が浮上する。
ムゼッタの言ったとおり、オデットの汚れはもう残っていなかった。動かし続けていた腕の関節がひどく痛い。
「まさか今日中に終わるとは思わなかったわ。フーの集中力はすごいわね!」
オフィーリアは汚れが洗い流されたオデットを見上げた。流麗な曲線を描く美しい造形が完璧に蘇っていて、オフィーリアは自分の頑張りが誇らしくなった。
明日は間違いなく筋肉痛に苦しめられることになるだろうけど、それさえも勲章のように思えた。けれど⋯⋯。
「オデット、大丈夫なんですか? こんなにボロボロで」
オフィーリアは不安げに訊ねた。
オデットは美しかった。しかし機体のいたるところが損傷しているため内部が露出していたり、装甲が焦げ、溶けてしまっている箇所もある。
「はっきり言ってかなり重傷ね。前の戦闘でこれほどまでに傷ついたのに修理もしてない上、長いこと放置されていたせいで経年劣化がひどいわ。大掛かりな作業になりそう」
でも、とムゼッタは続ける。
「絶対直してみせるわ。フーのことを守ってくれる大事なレプリカントなんだもの」
はっきりと言い切ってくれたムゼッタに、オフィーリアは微笑み返した。
「そう、そうですよね。ありがとうございます! 頼りにしてます」
オフィーリアはオデットの破損した装甲に手を伸ばした。この機体が元の姿を取り戻す時が楽しみでならない。
「あっ、そうそう。フー、よかったらコクピットに入ってみない?」
ムゼッタは親指でオデットの胸部を指し示しながら言った。
「さっき一通り状態を確認してみたんだけど、奇跡的にコクピット周りのモジュールは生きていたわ。ただ、開くにはキーが必要なのよ。オフィーリアが『オデット』と呼びかける声が」
「わたしの声?」
「このレプリカントの正式名称は『オデット』だったのよ。だけど、これまで誰もこの機体のことを『オデット』とは呼ばなかった。だから動かず長い間放置されていたのね。でも、昨日フーはこれを『オデット』と呼んだから動いた。ロックが解除されたのよ。その際にフーの声紋も、この機体のパイロットとして登録されたみたいね」
「ほ、ほんとうにオデットって名前だったんですか⋯⋯!」
「ほらほら、コクピットに入るわよ」
「あ、ちょっ、ムゼッタさん!」
ムゼッタは重そうな工具箱とオフィーリアの手を取って、ホバーリフトに飛び乗った。
操作パネルに触れればなめらかな動きで宙に浮く。オフィーリアは怯えるようにムゼッタのツナギを握りしめた。
リフトはゆれることなく滑るように移動し、搭乗ハッチの前でぴたりと止まる。
「はい、フーの出番よ。ハッチを開けて」
「そ、そんなこと言われても困ります。わたし、どうしたらいいのか」
「たぶんこの機体、音声インターフェイスが組み込まれているから。まあ、とにかく搭乗ハッチを開けるよう命令してみて」
「そ、そんな、適当な⋯⋯」
オフィーリアはため息とともに肩を落とした。そして、おそるおそる「オデット、あ、あのぅ、ハッチを開いてもらえますか?」と言った。
ずうん、とオデットが揺れる。オフィーリアはムゼッタにしがみついた。
搭乗ハッチが開く。コクピットの中ももれなくボロボロだったが、外装よりはずっとマシだった。
オフィーリアはムゼッタの手を借りて、おずおずとハッチの上に移り、コクピットへ入った。
とりあえずシートに座ってみる。埃っぽさはあるものの、なかなかどうして座り心地はいい。ハルモニアのコクピットを模したシミュレーターよりずっと快適だ。
「あっ、ごめんなさい!」唐突にムゼッタが声を上げた。
「ちょっと忘れ物したから取ってくるわ。フーはそのまま座って待ってて」
オフィーリアは座ったまま、操縦桿や、ひび割れたモニター、内部の基盤がむき出しになったモジュールを観察する。
シミュレーターとは構造が異なっているが、もしかしてまた一から操縦を覚えなければならないのだろうか。憂鬱な気分になってため息を吐いた直後、強烈な睡魔に襲われた。
(少しだけ⋯⋯ムゼッタさんが戻ってくるまでの間だけならいいよね)
完全に意識を手放した後、オフィーリアを包み込むようにコクピット全体が淡く発光したが、それでも目を覚ますことはなかった。




