呪いが、
昨夜はぐっすり眠れた。きっとハンスのおかげだ。
明け方に夢を見たような気がするが、思い出そうとすればするほど薄れていく。記憶に残らない夢なら見てもないも同然だ。
いい睡眠をとれたおかげか、オデットのいる旧格納庫へ進む足取りも軽い。
オフィーリアは白いシャツの襟を正し、ネクタイの結び目を整え、肩にかけるだけだった軍服のジャケットをきちんと羽織った。
「あれ?」
格納庫の出入口は全開になっていて、中から水が漏れている。オフィーリアは首を傾げながら中の様子を伺い見た。
驚いた。格納庫内は昨日より遥かにきれいになっていた。雪のように床に積もっていたほこりは壁際の排水溝にほとんど流されている。オデットの汚れはほとんどそのままだったが。
きょろきょろと観察していると、壁際のホバーリフトの隙間から人影が見えた。
「ムゼッタさん」
ひとつにまとめた赤い癖っ毛に、洗いざらしの白いツナギ。見慣れた後ろ姿がそこにあった。
(ムゼッタさん、誰かと通話してるみたい。終わるまで待っておこう)
こっそり様子を窺うが、なんだか様子がおかしい。表情は見えずとも萎縮して、怯えているような。いつもの快活なムゼッタらしくない。常に姿勢良くピンと伸びた背筋も丸まっている。
盗み聞きはよくないと耳をそばだてないようにしているが、声が焦りで震えているのがわかる。微かに謝罪の言葉も聴こえてしまった。
(まさか、意図せず良くないトラブルに巻き込まれて、困ったことになってるんじゃ⋯⋯)
ムゼッタが心配でたまらなかったが、ようやく通話が終わりが終わり、オフィーリアは安堵のため息を吐いた。
静かに一旦出入口から離れ、わざとらしく足音を立てて、今到着したばかりを装った。
「おはようございます、ムゼッタさん」
「っ、おはよう! 早いのね」
ムゼッタは一瞬焦りの表情を見せたが、すぐに普段通りの笑顔を浮かべた。
やっぱり何かあったんだ、とオフィーリアは確信したが、ムゼッタが隠しがっていることを無理に聞き出すようなことはしたくなかった。悩みや不安を抱えているのなら自分から打ち明けてほしいからだ。
「あの、何してるんですか?」
「掃除よ掃除」
ムゼッタは手に持ったホースを見せつけるように持ち上げた。先からは水が流れていて、なるほどこれが濡れていた原因かと納得する。
「入るのも嫌なくらい汚かったから、軽く掃除しとこうと思って。高性能洗浄機があるのにこんな掃除用具しか貸してもらえてなかったのよ」
「言ってくれたら手伝いましたよ。ひとりで大変だったんじゃないですか?」
「全然! 掃除といっても水ぶちまけただけだし、一番手のかかるレプリカントの洗浄は手付かずだからね。あ、そこのワイパー取ってくれる?」
ムゼッタが運び込んだ掃除用具の中から水切りワイパーを二本取って、一本を渡した。
「わたしにも手伝わせてください」
「無理しなくてもいいのよ? これはあたしの仕事だし、フーも疲れてるんじゃない?」
「わたしがやりたいんです。自分の乗るレプリカントのことなんですから」
「そう? じゃあ、そっちの掃除お願いするわね」
「はいっ」
オフィーリアは元気良く返事すると、ワイパーで水を排水溝に掃きだす。
昔もこうやって養母の手伝いをしておこづかいを貰っていた。それをこつこつ貯めていつかファゴットを買うんだと――
「⋯⋯フー? フーってば!」
何度も呼びかけられて振り向けば、ムゼッタの顔がすぐそばにあった。
びっくりして反射的に後ずさると、濡れたコンクリートに靴底を滑らせてバランスを崩しかけるが、ムゼッタが背中を受け止めてくれた。
「驚かせてごめんね!」
「い、いえ。ぼんやりしてたわたしが悪いので。どうしましたか?」
「あのさ、最近クロードとはどう?」
ムゼッタは俯き加減に言った。
「どうって⋯⋯? あっ、ピアノのレッスンのことですね?」
「ま、まあー、色々と。うまくやれてるかしらって」
「クロードさん、初めの頃と比べて見違えるほど変わりましたよ! 今度クロードさんとわたしでコンチェルトするんです。録音してご両親に送るんだそうで。ムゼッタさんも聴きにきてください! クロードさんもきっと喜びますよ」
「ほ、ほんとに?」
ムゼッタは顔を上げた。
「はい。クロードさんムゼッタさんの話題になると、面倒見が良くて明るくて元気で楽しい人ですよね、って話してます」
曇っていたムゼッタの瞳が一気に晴れ渡った。縋りつくようにオフィーリアの腕を掴む。
「それほんと!? だってあたし、クロードとうまく話せないことが多いじゃない?」
たしかにクロードといるときのムゼッタは少し様子がおかしいときもあるが、クロード本人は全く気にしていないのだ。それをそのまま伝えると、ムゼッタの頬に朱が差す。
「はい、だから心配することないですよ。わたしにしているみたいに自然に接すればいいんです。ムゼッタさんはありのままが⋯⋯その、いちばん素敵なんですから」
ムゼッタは目を丸くして、めずらしく饒舌に話すオフィーリアを見つめる。
「そっかぁ」
ムゼッタはにやにやとしながら言った。さっきまでの情緒不安定っぷりが嘘のようだ。
オフィーリアの肩を強引に引き寄せて、照れ顔を覗き込む。
「ふふ、そっか! フーはあたしのことそんなふうに思ってくれてたのね。照れるわ〜」
「も、もう! からかうのはやめてくださいよ!」
「ごめんごめん。フーがすごくかわいいからつい」
ムゼッタはオフィーリアの背中を軽く叩いた。
「じゃあ、オデットをきれいにしてあげましょう!」