ハンス・ウェーバー
「つ、疲れたあ⋯⋯」
オフィーリアは乱れた髪を手櫛で梳りながらつぶやいた。疲れのせいで背筋は自然と丸まり、目は据わっている。
夕食の席でムゼッタの同僚たちに囲まれ、質問責めとレプリカントに関する一方的なマシンガントークを受けたせいだった。
専門用語が頭上を飛び交ったり、 知らない人に意見を求められたりするのは人見知りのオフィーリアにはきつかった。
いつもは配慮してくれるムゼッタも浮かれているためか、オフィーリアの様子には気づかず、夕食が終わっても今の今まで付き合わされたのだった。
胸ポケットから金の懐中時計を取り出す。国立音楽院を優秀な成績で卒業した者に付与されるものだ。
表面には専攻楽器――オフィーリアの場合はファゴットの模様が掘り込まれている。
その下には410の数字の刻印。410期卒業生を意味している。
時計の短針は12を指している。今日はもう寝てしまおう。明日はオデットの洗浄と格納庫の清掃をするそうだ。
くぁ、とあくびをすると、ふと数メートル先に人が立っているのが目についた。こんな時間に誰だろうと軽く首を傾げる。
瞬きをするとあくびでぼやけた視界がはっきりとした。
「!」
眠気が一気に吹き飛んだ。立っていたのは、手を潰されそうになったオフィーリアを助けてくれた人――ハンス・ウェーバーだった。
「久しぶりだな」
ハンスは落ち着いた調子で言った。
その言葉にはっとしたオフィーリアは、踵を合わせ慣れない手付きで敬礼する。
「お、お、お久しぶりです! あのっ、先日は助けてくださり、あ、ありがとうございました!」
ハンスは何も答えずにつかつかと近寄るものだから、オフィーリアの喉から「ひっ」と情けない声が漏れた。
(もっと早くお礼を言うべきだったのに、なんて失礼なことをしてしまったんだろう⋯⋯! 怒らせてしまった)
2メートル近い身長のせいで、目の前に立たれると震えてしまうほどの威圧感があった。
こちらへ伸びる手に、髪を切られた記憶が蘇ってぎゅっと身をすくめるが、想像していた痛みはやってこなかった。
オフィーリアの顔ほどもある大きな手が、敬礼している手を包み込み下げさせた。温かい手だ。
「わっ」
そして不器用な手付きで頭を撫でられる。手櫛で整えた髪がくしゃくしゃに乱れた。
「すまなかった」ハンスは言った。
オフィーリアは首を傾げた。謝られる理由がわからなかった。
ハンスが助けてくれなければ、エベールに手を潰されていただろう。そうなれば生きる気力も何もかも失っていた。
「⋯⋯もしかして、髪を切られたこと、ですか?」
ハンスはうなずいた。寡黙な人だ。
「お、お気になさらないでください。髪なんてすぐ伸びますから。それに短いのも結構気に入ってるんです。頭が軽いですし、髪が乾くのも早くて。⋯⋯あの、あのときウェーバー大尉が助けてくださらなければ、わたし、二度とファゴットを吹くことができなくなっていたかもしれません。ほんとうにありがとうございます」
「名前、知っていたのか」
「ムゼッタさんが教えてくれて」
「そうか」
ハンスはあっさり会話を切り上げて踵を返して立ち去ろうとする。が、何か思いついたように立ち止まり、「何か困ったことがあったら、いつでも相談に乗る」と言って通路の角を曲がって行った。
オフィーリアの表情がぱあっと輝く。
「はいっ! ありがとうございます!」
お礼を言った瞬間、ハンスの足音が止まったのがオフィーリアにははっきり聴こえて、それがとても嬉しかった。
自室に向かう途中、オフィーリアは自分の前髪を撫でながら、ハンスの手の感触を思い返す。大きくてごつごつしていて温かくて。
養母ひとりに育てられたオフィーリアは父親という存在を知らない。不満を持ったことは一度もない。だが夢想したことはある。
(もし、お父さんがいたら、ハンスさんみたいな感じなのかな。⋯⋯そうだったら、いいな)