白鳥の妹
「す、すみません。お、お見苦しいところをお見せしてしまって」
どのくらいの時間泣いていたのか、涙で体感時間が狂ってしまってわからない。夜の帳が下りていることから、1時間以上は経っているに違いない。冷たい夜風が吹くたびに目元がヒリヒリする。
「⋯⋯あ、あの」オフィーリアはおずおずと口を開いた。
「ところで、どうしてこんなところにいるんですか?真っ暗ですし、人気もないですし、子どもがひとりでなんて危ないですよ」
「こんな場所で寝ていたあなたに言われたくない」
「うぅ⋯⋯そ、そうですよね。すみません⋯⋯」
オフィーリアは気を取り直して訊ねる。
「あの、もしかしてエルシノア基地にいる誰かのご家族ですか? わたしなんかでよければお送りしますよ」
少女は黙りこくった。
オフィーリアは困ったようにしばし眉を下げた後、「あっ、」と呟いた。
「⋯⋯何をしているの」
羽織っていたニットカーディガンを脱いで、少女に着せてやった。そろそろ秋は終わりを迎える時期なのだから、夜はさらに冷え込む。
実家住まいの頃、養母もこうして自分の着ていた上着を着せて「寒くない?」と気遣ってくれた。オフィーリアにとって幸福な思い出のひとつだった。
「寒いですよね、ごめんなさい気が利かなくて。よかったらこれ着てください」
オフィーリアは少女には長すぎる袖口を丁寧に折りながら微笑んだ。
「わたしのお古で申し訳ないですけど、身体を壊したらいけませんから。すみませんが我慢してくださいね」
意外なことに、少女はカーディガンを着せられている間、大人しかった。ぴしゃりと跳ね除けられるかも、と思ったのだが。
いや、大人しいというよりは、どこか戸惑って見える。グリーンの瞳が一瞬揺らいだところをオフィーリアは捉えていた。
おそらくこの子どもは、人に親切にされたり、優しさを向けられたりすることに慣れていないのだろう、とオフィーリアは推測した。自分も似たようなものだったからこそ気づけた。
「どうですか、寒くないですか?」
「私は寒いなんて言っていない」
少女のはっきりとした物言いはオフィーリアの胸に多少のダメージを与えたが、不思議と嫌な気分ではなかった。それはきっと「寒くない」と言いつつ、彼女がカーディガンを脱ごうとしないからだ。
「あの、夜も深いですし、家に帰るか保護者の方の元へ戻った方がいいんじゃないですか? わたしなんかで良ければ送りますよ」
「⋯⋯探しものをしている」少女はしぶしぶといった様子で答えた。
「探しもの? わたしも手伝いましょうか? ほ、ほら、慰めてもらったお礼もしたいですし」
「誰にも言わないと約束してくれる?」
「もちろんです! 秘密は絶対守ります」
少女はオフィーリアの銀色の瞳をじっと見つめた後、「⋯⋯姉を、探している」と言った。
「お姉さん、ですか?」オフィーリアは目を瞬いた。「エルシノア基地に在籍しているんですか?」
「わからない」少女はかぶりを振った。「ただ、そんな気がしたから近くまで立ち寄った」
「は、はあ⋯⋯?」
オフィーリアは首を傾げた。はっきりとした物言いをする少女だったが、姉のことになると急に言葉が曖昧になるさまに違和感を覚える。血を分けた姉妹ならそんな気がした、というだけで居場所がわかるものなんだろうか?
それにしても、こんな幼い子どもがひとりで姉を探しているのかと考えると、オフィーリアは胸が締めつけられる思いだった。家族に会いたい気持ちは痛いほど理解できる。
「わかりました! わたしにも協力させてください! あの、特徴か何かあれば教えてほしいんですが」
「特徴、」少女は言い辛そうに目を伏せた。「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯白鳥」
「なるほど、白鳥。⋯⋯⋯⋯んっ? は、白鳥!? えっ、えっと、それはつまり、あなたもはくちょ、」
そこは「違う」ときっぱり否定され、オフィーリアの目がぐるぐる回る。
(白鳥がお姉さんってどういうこと? あ、もしかしてペットってことかな。白鳥って結構長生きするって聞いたことあるし、犬や猫みたいに赤ちゃんの頃から一緒に育ったってのことか! うっかり家から逃げちゃって、それを探してる。それなら辻褄が⋯⋯!)
「色が白い」彼女は付け足した。「白鳥のように」
「あ⋯⋯。そ、そうなんですね⋯⋯あはは」
容姿の美しさを白鳥で例える。詩的な表現をするな、とオフィーリアは内心意外に思ったが口にはしなかった。
「そういうことでしたか。でも、その特徴だけで探すのはちょっと難しいですね⋯⋯。あの、お姉さんのお名前は」
「オデットという」少女は内緒話をするような声量で囁いた。
「オデットさん、ですか。いいお名前ですね!」
オフィーリアは微笑んだ。オデットはチャイコフスキーの3大バレエのひとつである『白鳥の湖』のヒロインの名前だ。
オデットは悪魔・ロットバルトの呪いで人間から白鳥へと姿を変えられてしまう。名前がオデットだから彼女は姉を白鳥と例えたわけだ。ご両親は白鳥のように色白で美しい赤子だったからオデットと名付けたのだろうか。
年に見合わず淡々とした態度だが、かわいらしいところもちゃんとあるじゃないか。
オフィーリアはポケットから端末を取り出した。クロードとムゼッタに連絡し、彼女を保護するのを手伝ってもらおうと考えたのだ。
「あの、よかったら基地に来ませんか? もう真夜中ですし、泊まって⋯⋯、いない?」
手のひらから端末が滑り落ち、かしゃんと音を立てて転がった。
オフィーリアは目を擦ったり、瞬いたりしたが、やはり少女の姿はなかった。周囲に隠れられるような場所はない。ひたすらに、だだっ広い平地が広がっているだけだ。狐につままれたような気分だった。
「う、嘘⋯⋯。まさか、やっぱり幽霊だったんじゃ⋯⋯?」
茫然とするオフィーリアの耳にムゼッタの声が飛び込んでくる。
「フー! やっと見つけた!」そう言いながら駆け寄ったムゼッタに痛いほどの力で腕を掴まれる。
「すごく心配したのよ! ほんとうにいなくなっちゃったかと思った。あたしにはフーを監督する責任があるの! もう二度と無断でいなくならないで! フーにもしものことがあったら、あたしは⋯⋯、」
いつもならすぐさま謝罪するところだが、オフィーリアは少女が立っていた場所をぼんやりと見つめるだけだった。ムゼッタの捲し立てる声も素通りしていく。
夜風に肌を撫でられ、オフィーリアはくしゃみをした。二の腕をさすりながら「あっ」と呟いた。
「わたしの、カーディガン」