嫉妬の為の無実の犠牲
窓の外は恐ろしく殺風景だ。延々と広がる乾いた大地に時折、丸いクレーターや焦げた跡がある。すべて爆撃か何かによってできたものなんだろうか。オフィーリアの疑問に答えてくれる者はいない。
レプリカントのパイロットたちを乗せた輸送車は驚くほど静かに進む。非常に快適な乗り心地だ。
斜め前に座る赤毛の女性たちは、この乗り物の仕組みにレプリカントを絡めながら、難解な用語を用いて言葉を交わしているが、オフィーリアには会話の内容はこれっぽっちも理解できなかったし、そもそも興味がなかった。
――どうしてこの世界はふたつに分かれて争うなんてことをしているのだろう。
オフィーリアはぼんやりと考えた。ギルデンスターンとローゼンクランツの戦争は、自分が生まれるずっとずっと前から、気が遠くなるほど昔から続いている。とはいっても、現在、二国関は長いこと膠着状態にある。自分がこれから赴任することになる国境沿いでは、たびたび小競り合いが起きているが。
ひとつだけわかることは、この戦争は自分が死んだ後も続いていくのだろう。それだけだ。
そんなことを考えているうちに赤毛の女性たちの会話は、実戦への期待と展望へ変わっていて、オフィーリアはぞっとした。彼女たちは怖くないのだろうか? 実戦に投入されるということは……人を殺すことになるというのに。
だがきっと、そういうものなんだろう。同乗している十数人の彼ら彼女らは、士官学校を卒業した優秀な成績で卒業したエリートなのだから。根本的にものの考え方が異なるのだ。国音――ギルデンスターン国立音楽院――を卒業した自分とは違う。
オフィーリアは窓の景色から膝に抱えた荷物へと視線を転じ、できるだけ身を小さくする。彼女たちの意識が再びこちらに集中し始めたからだ。この人たちは、仮にわたしが同じように士官学校卒だったとしても、こうやって異なる部分を見つけては、鋭く尖った針のような視線で何度もつついてくるに違いない、とオフィーリアは考えた。
背中を覆う銀の髪と、憂いに満ちた銀の瞳。
それらは肌の白さと相まって雪のように儚げな印象を与える。このふたつがオフィーリアと周囲とを隔てる決定的な要因だった。
ギルデンスターンで最も多い髪色は赤。続いて茶。金髪もそれなりに見かける。黒髪はやや珍しくもてはやされる。瞳の色は髪よりもバリエーションが豊富だが、オフィーリアは自分と同じ銀の髪、そして銀の瞳の持ち主には未だ出会ったことがない。
オフィーリアは大人しく内向的な性格のため注目されると息が詰まる。どうしたらいいのかわからなくなる。ただうつむいて、興味の対象から外れるのをひたすら待つことしかできない。
膝の上に重い物を載せているため、乗車して1時間ほど経ったときから脚は痺れていた。それでもこれだけは絶対に離したくなかった。
オーボエのキーチャームが揺れる長方形のケースの中身は、ファゴットという木管楽器である。オフィーリアのすべてといっても過言ではないくらい、大切なものだった。
……ずっと自分のファゴットが欲しかった。しかし楽器は基本的に高価だ。血の繋がりのない自分を育ててくれるだけでありがたいのに、買ってほしいなんて言えなかった。
だから、家族からプレゼントされたときは飛び上がるほど嬉しくて、でも、にわかには信じられなくて、何度も頬をつねり赤く腫れるまで夢じゃないか確認したくらいだ。
習い始めたての頃は出来ないことばかりだったけれど、それでもファゴットに触れられることが幸せでたまらなかった。その気持ちは今でも変わらない。
入試は緊張した。国音はギルデンスターンで唯一の国立音楽学校だ。学費は国から出るため無料。多額の給付型奨学金も貰える。講師は名だたる者ばかり。そのため世界の半分、つまりギルデンスターン全土から人が集まるため、倍率がすさまじく、世界一入学が難しい学校と言われているのだ。
オフィーリアには高度なテクニックはなかったが、ファゴットを愛する気持ちだけは誰にも負けない自信があった。
今、目の前にいる試験官たちのために吹くのではない。毎日欠かさず練習を積み重ねてきた過去の自分、そしてこれまで支えてくれた人たちを裏切らないよう、最高の演奏をしたい。その考えに至ったときには、緊張なんてどこかに消えてしまっていた。
何度か細かいミスをしてしまったし、お世辞にも合格できるほどのレベルではない、と自分でも思った。
だが後悔はなかった。これが今の限界だった。限界まで己を高めた演奏ができたと胸を張って言える。すべてが終わり、リードから口を離したときには自然と笑顔になっていた。
だから、合格の通知を受けたときは驚きのあまり腰を抜かしてしまい、家族に笑われてしまった。まさか、ファゴットを貰ったとき以上の衝撃に見舞われるとは思ってもみなかった。
入学してからは大変だった。とにかく急いで周りのレベルに追いつかなくてはならなかったし、覚えなければならないこともたくさんあった。つらいと泣きたくなることもあったけれど、それ以上に楽しさが勝っていた。
「最初、フーは不合格になるって思ってたの」
アリアが唐突に言ったのは、たしか入学してちょうど一年になる頃、オフィーリアの部屋だった。
「ど、どういうことですか?」
オフィーリアは1、2、3と数えながらリードに糸を巻く手を止めた。
リードとは2枚の葦を乾燥させ重ねたものだ。吹き口に取り付け息を吹き込むことでファゴットを振動させ音を鳴らす。リードは消耗品のため、たくさん作っても結局使えるものになるのかわからないし、作業中は湿度などにも左右される。完成にも日数を要する、たいへん手間のかかる作業だが、よりいい音を鳴らすために、時間を見つけてせっせとリード作りに励んでいた。
「わたし、自分で言うのもなんだけど、人を見る目があるの」アリアはオーボエのキイをクロスで磨きながら言った。「受験のときにね、自分の番を待ってる間、退屈だったから他の受験生をこっそり採点してたの。この人は落ちる、この人は受かる、って」
「あ、悪趣味ですね……」
ずいぶんな余裕っぷりである。自分は受かるという確固たる自信があるアリアでなければできない芸当だ。
「そうしているとき、フーを見つけたの。かわいそうなくらい震えてて、青ざめてて。楽器を構えた途端、呪いで石化されたみたいに動かなくなって。緊張で頭が真っ白になったんだ、ってすぐに察しがついた。そういう人はめずらしくないから。あーあ、お終いかって思った」
アリアは一呼吸おいて続ける。
「憶えてる? フーはそのとき一旦リードから口を離して、ぎゅっと目をつむったの。数秒くらいね。そうして目を開いたときには、さっきまでの怯えていた女の子じゃなくなってた。冷や汗も引いて、背筋もしゃんとして、何よりまっすぐな目をしてた。演奏自体は、正直そこそこって感じ。この程度ならもっと上手い人はいくらでもいるレベル」
オフィーリアは苦笑いした。反論の仕様がない。
「でもね、」アリアはぐっと顔を近づけて、真剣な表情で言った。
「フーの音は魅力的だった。心を鷲掴みにされる衝撃があった。そのときのわたしはフーのことは全然知らなかったけど、この子は何よりもファゴットが好きなんだって思った。そしたら何だか泣きそうになって……そして確信したの。この子は絶対に合格する。そしてわたしと同じ場所で、一緒に音楽をするんだって」
はっと目を開く。眠ってしまっていた。こっそり周囲を窺うが、眠る前と変わった様子はなかった。ほんの数分しか経っていないようだ。
悲しい夢だった。国音に通っていた7年間は人生で最も苦労したが、最も幸福な時間だった。しかしそんな思い出も今となっては鋭い刃となり、オフィーリアの心のやわらかい部分を容赦なく抉った。銀の瞳からひと粒だけ涙が落ちて黒い軍服の袖口に染み込んだ。こんなはずじゃなかった、と叫びたかった。
最終学年に上がると、1年近くかけて軍楽隊の入隊試験が行われるが、成績を一定水準満たしていなければ試験を受けることすら叶わない。そして何度も何度も繰り返される実技試験により徹底的にふるいにかけられる。合格者がゼロという年も珍しくない。
その過酷な試験をオフィーリアは血を吐くような思いで乗り切った。そして、ついに軍楽隊に入隊する資格を得た。
合格通知が届いたときの嬉しさはどんな表現を用いても言葉にできない。世界一音楽の盛んなこの国で、最も優れたオーケストラである軍楽隊。音楽家を志す者全ての憧れであり、ファゴットとめぐり会うきっかけをくれた存在。自分もその一員になれる。これで求め続けていた夢に一歩近づくことができる。
7年の集大成である卒業演奏会を終えた後、オフィーリアの元へ一通の通知が届いた。
……それに目を通したときは何かの間違いだと思った。軍楽隊に入隊する資格を得た者は、軍楽隊以外の部隊でも自由に配属を希望することができる。だが、そんな希望を出す人間はこれまで一人もいなかったし、意味のない死に制度だった。
もちろんオフィーリアも軍楽隊以外の部隊へ入隊しようなんて考えもしなかった。しかし通知にははっきりと書いてあった。オフィーリア・フローベルをレプリカント部隊へ配属する、と。
もちろんすぐに抗議した。――これは何かの間違いです。考えてみてくださいよ、国音を卒業し、入隊試験にも合格したような人間が他の部隊への入隊を希望するなんてありえないでしょう? と。
しかし何度掛け合っても受け入れてもらえなかった。これは自分で希望したことだろうと言われ、書類を見せられた。
そこにはたしかに自分の筆跡でサインがしてあった。何時間も粘り交渉したが、結局聞き入れてもらえなかった。まさに天国から地獄へ叩き落された気分だった。
たくさん泣いた。泣いて、泣いて……身体中の水分がすべて涙に変わってしまったんじゃないかと思うほどに泣いた。体重は数キロ落ちた。そのせいで届いた軍服は少し大きく感じられた。
どうしてこんなことになったのだろう、わたしが何をしたというのか。オフィーリアは嘆いた。誰かが自分を陥れたのではないかとさえ思えた。もしそうだとしたら、怒りと憎悪に身を任せるがままにその人間を殴って、扼殺してやりたかった。何度も頭の中で妄想が生み出した人物を殺した。
こんなこと、家族にも親友にも言えなかった。いっそのこと軍楽隊は諦めて、他のオーケストラに入団しようかとも考えた。
最終的に、オフィーリアはレプリカント部隊への入隊を決めた。いつか間違いだったと認めてもらえるかもしれないし、それに、国音を卒業したオフィーリアは士官学校卒と同等の立場になる。パイロットは軍楽隊員には及ばずとも給料や待遇は非常にいい。養母のリリーや弟妹たちはオフィーリアが国音を受験するための協力を惜しまなかった。たくさんのお金や労力を費やしてくれた。今度は自分が恩返しをする番だ。
家族や友人には最後までこのことについて話さなかった。連絡先も変えた。声を聞いてしまえば決心が揺らいでしまうから。
目的地に着いたようだ。窓の外にはさっきまでの寂しい風景ではなく、実用性のかたまりのような冷たい印象の建物がそびえ立っている。ぞろぞろと降りていく人々に置いていかれぬよう、オフィーリアも慌てて後を追う。