平成二年七月二八日(土)午後《2》
※
その頃、店番から抜け出した拓也は、誠に待ち合わせ場所で伝えていた神社へ来ていた。
拝殿の裏側に回ると、今は使っていない倉庫があり、三年生の頃からそこが秘密基地になっていて、皆で『アジト』と呼んでいる。
「家にいたら、また店を手伝わされるからな……」
持ってきたゲームボーイで遊びながらアジトで誠を待つことにした拓也が、暫くの間ゲームに熱中していると、倉庫の扉が開いて人が入ってきたのに気づいたが、夢中になっている手を止めようとはせずに、「おいマコト、通信ケーブル持ってきた?テトリス対戦しようぜ」と、相手が誰なのかを決めつけて話しかける。
「……タク坊?」
誠のぶっきらぼうな声ではなく、馴染み深い女子の声が聞こえて顔を上げると、目の前にいたのが由美子であったのに驚いた拓也は、ゲームをプレイしていた手が止まった。
『ガシャン・ガシャン・ガシャン…ティロリロリロリロリ』
ゲームオーバーを告げる音が空しく鳴っているが、そんな事よりも突然現れた由美子への驚きが勝る。
「由美子!何してるんだよ!」
久しぶりの再会に実感が湧いてくると、拓也の驚きは次第に喜びへと変わった。
「うん、ちょっと戻ってきているの。それより、まだここで遊んでいたんだね……懐かしい」
由美子が拓也の隣に座ると、サラサラとした長い髪から甘い匂いが漂う……そういえば、この神社にアジトを作った時の由美子は、ショートカットでボーイッシュな女の子だったはずなのに、いつから髪を長く伸ばしたのだろう……と拓也は思う。
転校するまでは意識していなかったが、久しぶりに再会した由美子の艶めかしい姿に、拓也は少しだけ心が波立つ。
「これからマコトも来るよ。福岡はどうだ、友達はいるのか?」
「うん、元気でやっているよ」
由美子の笑った顔は、公園の花壇に咲いた鈴蘭の花を思い浮かべるような愛嬌を見せているが、どこか物寂しげな表情も垣間見えた。拓也はいつも、人のそういう所に敏感である。
「あのさ……マコトのこと許してやってな。あいつ由美子が引っ越した日、本当は駅まで見送りに来たんだよ」
拓也が素直でなかった誠の気持ちを代弁すると、由美子は静かに頷いて応えた。
「知ってるよ、来てくれていたの」
「えっ?」
『誠が改札で通せんぼをくらったのは、俺たちしか知らないはずなのに……』と思いながら、拓也は由美子の言ったことに疑問を抱く。
「あの日、マコちゃんが堀切橋にいるのが、電車の窓から見えたの……だから分かるよ、来てくれたんだって」
「堀切橋……あっ、なるほど、そういうことか」
その出来事までは聞いていなかった拓也は、誠の不器用な一面を知って少し可笑しくなった。
「タク坊は、里美とどうなの?」
由美子はいたずらのように笑いながら、話を拓也のことにすり替える。
「え、里美!別に、あいつのことは好きじゃねぇよ……」
図星を突かれて慌てている拓也の素振りを見ながら、クスクスと笑っている由美子の姿は、本来ならば揶揄われているように思えていい気はしないが、無理に作り笑いをさせるよりは誤魔化しのない笑顔に見えて、よっぽど心地よい。
「別に好きとかじゃないけど、でも……里美のことも許してやってな」
「やっぱり、タク坊は変わらないね。いっつも、みんなのことばっかり心配して……」
由美子の表情が神妙な面持ちに変わると、拓也は自分が余計な事を言ったのではないかと思って気まずさを覚える。
「そうだよな、許してやれよって言われても、里美は由美子にあんな酷い態度とっていたんだから、許せるわけがないよな」
拓也が慌てて言い直すと、それに対して由美子は大きくかぶりを振って否定した。
「違う、許すも何も、里美に怒ってなんかないよ……実は私ね、お父さんとお母さんが離婚するって聞いた時に、家を飛び出して一人でここに来たことあるの」
由美子の話を深刻な内容に捉えると、拓也はどのように聞けばよいのかと思って戸惑う。
「その時、お父さんとお母さんが離婚することや、皆とサヨナラしなきゃいけないのが嫌になったから来たのに、ここで泣いていても涙は出るのに、思い出すのは楽しかったことばっかりだったの……だから里美だって、マコちゃんにだって、嫌な思い出なんて一つもないよ」
聞いている方からすると胸に棘が刺さるような話を、涙一つ流すことなく平静に話す由美子を見ていると、悲しみはその時に使い果たしたようにも思える。
「だから……転校することも言えなかったのか?」
「転校のことを話すなら、その理由もみんなに言わないとでしょ……それは私が、お父さんとお母さんの離婚を認めているのと同じだと思ったから、引っ越すことも言いたくなかったの」
由美子の話を自分の身の回りと比べるにはかけ離れすぎていて、言葉にして思いやるには何を言えばよいのか分からない。
拓也の家といえば愛し合っているような夫婦には見えないものの、二人で協力して八百屋を営み、喧嘩といえば朝の忙しさから、さっさとしろだとか、市場へ仕入れに行った父が帰ってくるのが遅いなどと、他愛もないこと。むしろ拓也は由美子が転校する理由を知るまでは、夫婦が離婚できる制度があるのを知らなかったと言っても大袈裟ではない。
言葉に詰まった拓也は、誤魔化すように目を逸らしてゲームボーイの画面を見ると、『Game over』と表示されているのが、共感力の無い若輩な自分に追い打ちをかけているようで虚しくなる。
「それで……もう、今は大丈夫なのか?」
ありふれた言い回しに思えても、この場における拓也の語彙力を精一杯に絞り出した言葉であり、その気持ちだけは由美子にも伝わっている。
「うん、もう平気だよ。でも、やっぱりお父さんには会いたいな……」
「ずっと会ってないのか?でも、お父さんは堀切にいるんだろ、今日は会いに行かないのか?」
拓也が訊ねると、由美子は黙ってにっこりと笑うだけで、質問の答えとしては受け取りづらい。
やはり自分が話を聞いたところで、気の利いた一言も言えないと思って黙り込んでしまうと、二人でいる狭い空間に沈黙が流れる。
会話を止めた途端に店の手伝いで疲れていた拓也は、睡魔に誘われて寝てしまうと、由美子はその寝顔を見て再びクスクスと笑った。